道の選択(鴨方往来)

笠岡から福山の往来について


歩くまでの調査と歩行時の確認

概  要

 歴史の道調査報告6の地図は、威徳寺(笠岡市笠岡5418)周辺で終わっている。また、広島県は歴史の道調査報告を刊行していない(平成28年3月現在※)。このため以下の資料を参考にそれぞれ次のように推測した。

  1. 大日本帝国陸地測量部発行の二万分の一地形図(明治30年測図)の笠岡、西浜、福山(以下「地形図」)
  2. 備後の歴史散歩上、森本繁著、山陽新聞、1995
  3. インターネットサイト福山市大門町大門~笠岡市用之江えいちゃん笠岡を走りまくる(サイト再確認:2016/02/28)
  4. インターネットサイト福山城下~笠岡道 散策記録(サイト再確認:2016/02/28)

 経路判断の中心は地形図の幹線道路である。また、福山市街に近づいてからは2.備後の歴史散歩 上によった。福山市御船町1丁目にある笠岡道の道標を終点としたもこれによる。

※「歴史の道調査報告」に類似した資料として「古路・古道調査報告 -広島市の文化財 第50集」広島市歴史科学教育事業団編、広島市教育委員会刊、1992が刊行されている。しかし、広島県立図書館のインターネット蔵書検索で調べる限り、その内容は旧山陽道(古代山陽道:管理人注)、西国街道、雲石街道、吉田道、庄原・都志見往還・本地往還である(広島市文化財団に関連したサイト 古道・古道 歴史散歩にも説明がある)。

威徳寺周辺から大門駅周辺まで

 笠岡駅近辺から県境までは、笠岡市教育委員会生涯学習課の方のご教示に従って、歴史の道調査報告6の記述や「笠岡ふるさとガイド」(笠岡市クイズ王選手権テキスト作成委員会編、笠岡市発行、平成19年)の記述をもとに、地図を辿った。吉浜では道の開通記念碑とも呼ぶべき享保十七年の石碑があったので、江戸時代の半ば以降の道としては確かだろうと考えている。

 その先用之江の辻堂(同地に菅原神社もある)から峠越えまでの道が山腹を通っていたので、吉浜からの連続性について疑問を感じて歩行後検討した。

 吉浜の往来開通碑は干拓地(あるいは堤防)を通る道である。しかし、それに続く県境の峠を越える道は、干拓地が海であったときと同じく、山腹を伝って進む。吉浜の場合は、干拓地内を通る道ができるまで、山腹伝いの道があった(よしはま物語など)。吉浜に享保十七年の石碑が示す道ができたとき、同じように干拓地を経由する道を大門まで通さなかったのか、と疑問を感じた。

 明治43年の陸軍大演習のときに馬が砲を挽いて通っている(調査報告6p72)。江戸時代の後半から明治にかけて仮に浜道があれば、わざわざ山道を新たに開削するということは考えにくい。仮に浜道があったとしても、旧来の峠道はそのまま残ったと解釈する方が自分には自然であった。

 五街道のように比較的定義がきっちりした往来ではないので、それで十分だと判断した。峠の道標の雰囲気が好きで、この道が江戸時代からの道であって欲しいという思いもあった。残念ながら、道標の建立年はわからなかった。調査報告6にも記載がない。

 県境の峠から大門駅周辺までの道は、地形図とインターネット情報による。備中でよく見る形式の辻堂があったので、歴史のある道ではあると思う。

大門から日和峠まで

 大門以西、日和峠(広島県福山市引野町:英数学館小・中・高等学校がある)までの道は、地形図とインターネット情報を参考に、銀河学園西の辻堂及び常夜燈、道標を通る道とした。
 道標などについては移設の可能性もあるが、まったく関係のないところには置かないと思うので、それなりに歴史のある道ではあろうと思う。(ただし、吉浜の西堂のように浜街道から少し離れている例もある)。
 日和峠の石地蔵を確認したあとは、備後の歴史散歩に従えば良いと判断した。

日和峠から福山市街の道標まで

 備後の歴史散歩 上p42-54に上方往来(かみがたおうらい)として、福山市御船町一丁目の道標から日和峠の石地蔵までの記述がある。同書は福山を起点とした説明となっているので、この逆を辿った。

再 検 討

経 緯

 2月1日に笠岡から大門、2月19日に大門から福山まで仲間と歩いた。歩行後資料を読んでいて、吉浜の辻堂を見てなかったことに気づいて、ひとりで吉浜を再訪することにした。

 それだけではつまらないので道調査をしなければどれくらいの時間で歩けるか比較することにした。また、前回いくつか見た道標のなかで指す地名が分からないものを調べようと思い3月4日に笠岡から福山までひとりで歩いた。

 福山市内に入って蔵王病院が見えるところで地図(資料をもとに自分で作成)に書き込みしていたら、年配の男性に声をかけられた。「江戸時代の道を歩いている」というと「ここは水野氏による干拓地で江戸時代には道はなかった。この道は旧国道である」と言われた。そして、明治時代に作られたといった感じのことを言われた。
 「享保年間に笠岡で干拓地に道ができているので、同じように道ができたのではないか」と答えて、そのままご意見を拝聴して分かれた。

 地元の人のいうことにも思い込みがあることを何度か経験しているが、「歴史の道調査報告」のような的が絞られた資料を基準としてないので再度確認することにした。

検討したこと

地形図が測量された明治30年までに、福山--笠岡間で大幅な道のつけかえがあったか?

小田県時代

 福山市史下p425に小田県の権令矢野光儀の発議として、

 『県庁所在地笠岡から「人烟稠密」な諸都市を結ぶ馬車道路の開通を企画した [小田県史]。その成果は第一七四表のごとく、笠岡から東へ玉島・倉敷、西は福山まで旧中国街道に並行した沿岸ぞいの二間道路の完成となってあらわれ(以下略:[ ]は小文字))』

と記す。管理人には理解が容易でない文章なので、「小田県史」に当たってみた。最初の部分は以下のようである。

道路修築(小田県史p121)

 庁下笠岡ノ地タルヤ東ニ倉敷玉島アリ、西ニ福山アルヲ以、来往常ニ陸続スト雖トモ、経路甚狭隘ニシテ、車馬ノ運搬啻(帝の下に口:ただ)ニ不便ナルノミナラス、間々通セサル所アリ故ヲ以テ此告諭ヲ為ス。(続けて道路の重要性をサンフランシスコや北海道を例にして説明している。また道路を広げることが利益につながることを説明しているが略す。)

況ヤ人烟稠密従来ノ質アル福山玉島ノ如キヲヤ雖然(にもかかわらず)、舊(旧の異体字)習ノ流俗トシテ道路橋梁等ノ修理ハ兎角官費当然ニシテ己ニ関係ナキ事に思ヒ(以下略:適宜句読点を補い、また漢字は一部常用漢字に変更し、意味を括弧内に補記した)

 この告諭は道路の必要性を説くとともに、民間の努力を促すものであり、個別の道路の改修についてはいっていない。

 以下明治五年十月、同十一月、と告示が続く

明治五年壬申十一月(小田県史p123)

 右両回ノ諭檄ニ依り、笠岡以東玉島以西ノ路程修築明治壬申十一月創業翌五月二至ッテ竣功ス(中略。地域の村民が自費を以て道路改修したことへの賛美が続く)
 就中玉島往来筋ノ一方ハ、際立タル盡力ニテ是迄狭隘凸凹ノ支道惣舊(旧の異体字)観ヲ改メ連車連騎ノ往来モ略差閊(ほぼさしつかえ)ナキ坦途ニ引直リ(以下略:適宜句読点を補い、また漢字は一部常用漢字に変更し、意味を括弧内に補記した)

推測(まとめ)

これら告示に出てくる道路を整理したものが福山市史下の下の表である。表ではわかりにくいが、上記明治五年の告示などを読むと、大幅な道路の掛け替えではなく、まず馬車が通行できるように幅員を拡張し、凹凸を平坦にした、と理解している。地域住民による経費・労力によるところが大きいので、それほど大規模なことはできないと思われると同時に、動員力と当時の土木力を考えると半年前後の期間でできるのは改修だろうと推察する。

 
第174表 明治初年小田県の道路改修
道路改築箇所里程幅員着手年月日竣工年月日備考
小田郡笠岡村浅口郡阿賀崎村5里2間明治5.11.20明治6.5.7笠岡から東方向
小田郡笠岡村沼隈郡津之郷村5里2間明治6.5.10明治7.8.10笠岡から西方向
浅口郡玉島村賀陽郡延友村6里2間明治7.3.8明治7.5.20笠岡から東方向
浅口郡上成村西之浦町(霞橋)長162間6尺5寸明治7.12.1明治8.3.10経費1,512円は西ノ浦村社中醵金
有料橋一人4厘、馬・人力車1銭
浅口郡水江村同郡玉島村(運河)2里3間明治7.4明治8.2
『小田県史』巻の四による。
(福山市史下p424より作成:見やすいように表の体裁を管理人が一部修正した)

補 足

 福山市史p425でいう[中国街道]は西国街道(歴史の道調査報告では山陽道:神辺、尾道を通る脇往還)のことと思われる。この道路は当時の国道4号線になる。

広島県時代

道路改修

 小田県は明治8年(1875)12月に岡山県に併合され、解体。その後笠岡は岡山県、福山以西は広島県に併合された。この「県域の変更による地方行政の空白や、広島県に属してからの西厚東薄の県政」(福山県史下p428)のために福山周辺の道路整備はなかなか進まなかったという。しかし、下記の国道・県道の工事が実施された。このなかに笠岡--大門--福山を経路とする道路は見当たらない。なお、国道1等は、、旧山陽道(西国街道)を基礎とした国道4号線のことである(内務省告示第六号(別表)國道表japan.road.jpを参照:サイト確認2016/03/09)。

第176表 福山地方の道路改修年代
明治30年までの、国道と県道のみ抜粋。里程、備考、典拠などは割愛した。
区 分 路 線 改修年代
国道1等深津郡房路峠明治11
県 道油木・府中線明治17~18
県 道東城・福山線明治19~24
県 道府中市・尾道線(本郷経由)明治23~31
県 道西城・福山線明治27~29
(福山市史下p427より作成:見やすいように表の体裁を管理人が一部修正した)

福山市の国・県道

福山の郡  明治15年当時の福山地方の道路は下第175表の通りである。位置関係を把握するために福山周辺の郡の配置(左図)を掲載する。なお、郡の配置は水野氏の時代のものであるが、他県人にはわかりやすかったので、福山市史p34をもとに作成した。

 

第175表 明治15年調査の福山地方の国道・県道路線
区分等級路線名関係区間距 離
里 町 間
経由地
国道1等東京より長崎開港場に達する線路安那郡上御領~御調郡尾道町7.32.04
県道3等甲奴郡上下より都府に達する線路芦田郡府中市村~深津郡中津原村3.31.10府中市
 〃 沼隈郡松永より  〃 沼隈郡松永村~沼隈郡神村 .12.38
 〃 奴可郡東城町より 〃 奴可郡東城町~岡山県境5.31.45神石郡油木
 〃   〃 便宜海港沼隈郡鞆津に達する線路 〃 ~沼隈郡鞆津16.16.29油木・福山
 〃 奴可郡西城より都府に達する線路奴可郡西城町~深津郡中津原村14.04.10庄原・上下・府中市
 〃 三上郡庄原より 〃  三上郡庄原村~ 〃 10.13.10上下・府中市
 〃 深津郡福山より 〃  深津郡福山町~深津郡川南町1.20.43
 〃 沼隈郡鞆津より 〃  沼隈郡鞆津~ 〃  5.21.44福山
 〃 芦田郡府中市村より 〃  芦田郡府中市村~深津郡中津原村3.31.10
 〃  〃  便宜海港尾道に達する線路 〃  ~沼隈郡本郷村3.23.10
 〃 神石郡柚木村より都府に達する線路神石郡油木村~岡山県境2.31.45仙養
 〃  〃 便宜海港鞆津に達する線路 〃  ~沼隈郡鞆津13.16.29下岩成・福山
『広島県議会誌』第1巻による。
(福山市史下p426より作成:見やすいように表の体裁を管理人が一部修正した)

再検討のまとめ

 大日本帝国陸地測量部による測図が行われた明治30年までに、大幅な道の掛け替えは行われていなかったのではないか、と推測している。広島から見て、福山から笠岡への道路は重要度が高くは感じられず、整備に力が注がれたとはいえない気がする。

大正15年に旧山陽道の岡山以西が国道から県道に変更された。岡山県史 第11巻近代Ⅱp107に「代わって大供から浜街道を西進して、重要性を増した倉敷を通過するように改めた」とある。このときまで浜街道(=福山から笠岡そして、岡山までの道)は江戸時代の経路に近かったのではないか。そして、現段階では我々が歩いた道は名称はともかく江戸時代に人々が往来した道の一つではないか、と思っている。

 さらに、日和峠以西の福山への道の基本資料とした「備後の歴史散歩」また歩行後見つけた福山市の「ふくやま観光・魅力サイト」(福山市のホームページの「観光・魅力の情報」を選べば前記タイトルで表示される)のふくやま歴史散歩 3中央エリア2(PDFです。サイト確認:平成28年3月14日)の笠岡街道などの記事を見ると、我々が歩いた道が笠岡への往来であると思える。話しかけて来た男性に根拠などを伺いたいが住所も名前も聞いていないので、どうしようもない。なお、この件は検討の余地を残しておく。


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