歴史の道調査報告6の地図は、威徳寺(笠岡市笠岡5418)周辺で終わっている。また、広島県は歴史の道調査報告を刊行していない(平成28年3月現在※)。このため以下の資料を参考にそれぞれ次のように推測した。
経路判断の中心は地形図の幹線道路である。また、福山市街に近づいてからは2.備後の歴史散歩 上によった。福山市御船町1丁目にある笠岡道の道標を終点としたもこれによる。
笠岡駅近辺から県境までは、笠岡市教育委員会生涯学習課の方のご教示に従って、歴史の道調査報告6の記述や「笠岡ふるさとガイド」(笠岡市クイズ王選手権テキスト作成委員会編、笠岡市発行、平成19年)の記述をもとに、地図を辿った。吉浜では道の開通記念碑とも呼ぶべき享保十七年の石碑があったので、江戸時代の半ば以降の道としては確かだろうと考えている。
その先用之江の辻堂(同地に菅原神社もある)から峠越えまでの道が山腹を通っていたので、吉浜からの連続性について疑問を感じて歩行後検討した。
吉浜の往来開通碑は干拓地(あるいは堤防)を通る道である。しかし、それに続く県境の峠を越える道は、干拓地が海であったときと同じく、山腹を伝って進む。吉浜の場合は、干拓地内を通る道ができるまで、山腹伝いの道があった(よしはま物語など)。吉浜に享保十七年の石碑が示す道ができたとき、同じように干拓地を経由する道を大門まで通さなかったのか、と疑問を感じた。明治43年の陸軍大演習のときに馬が砲を挽いて通っている(調査報告6p72)。江戸時代の後半から明治にかけて仮に浜道があれば、わざわざ山道を新たに開削するということは考えにくい。仮に浜道があったとしても、旧来の峠道はそのまま残ったと解釈する方が自分には自然であった。
五街道のように比較的定義がきっちりした往来ではないので、それで十分だと判断した。峠の道標の雰囲気が好きで、この道が江戸時代からの道であって欲しいという思いもあった。残念ながら、道標の建立年はわからなかった。調査報告6にも記載がない。
県境の峠から大門駅周辺までの道は、地形図とインターネット情報による。備中でよく見る形式の辻堂があったので、歴史のある道ではあると思う。
大門以西、日和峠(広島県福山市引野町:英数学館小・中・高等学校がある)までの道は、地形図とインターネット情報を参考に、銀河学園西の辻堂及び常夜燈、道標を通る道とした。
道標などについては移設の可能性もあるが、まったく関係のないところには置かないと思うので、それなりに歴史のある道ではあろうと思う。(ただし、吉浜の西堂のように浜街道から少し離れている例もある)。
日和峠の石地蔵を確認したあとは、備後の歴史散歩に従えば良いと判断した。
2月1日に笠岡から大門、2月19日に大門から福山まで仲間と歩いた。歩行後資料を読んでいて、吉浜の辻堂を見てなかったことに気づいて、ひとりで吉浜を再訪することにした。
それだけではつまらないので道調査をしなければどれくらいの時間で歩けるか比較することにした。また、前回いくつか見た道標のなかで指す地名が分からないものを調べようと思い3月4日に笠岡から福山までひとりで歩いた。
福山市内に入って蔵王病院が見えるところで地図(資料をもとに自分で作成)に書き込みしていたら、年配の男性に声をかけられた。「江戸時代の道を歩いている」というと「ここは水野氏による干拓地で江戸時代には道はなかった。この道は旧国道である」と言われた。そして、明治時代に作られたといった感じのことを言われた。
「享保年間に笠岡で干拓地に道ができているので、同じように道ができたのではないか」と答えて、そのままご意見を拝聴して分かれた。
地元の人のいうことにも思い込みがあることを何度か経験しているが、「歴史の道調査報告」のような的が絞られた資料を基準としてないので再度確認することにした。
福山市史下p425に小田県の権令矢野光儀の発議として、
『県庁所在地笠岡から「人烟稠密」な諸都市を結ぶ馬車道路の開通を企画した [小田県史]。その成果は第一七四表のごとく、笠岡から東へ玉島・倉敷、西は福山まで旧中国街道に並行した沿岸ぞいの二間道路の完成となってあらわれ(以下略:[ ]は小文字))』
と記す。管理人には理解が容易でない文章なので、「小田県史」に当たってみた。最初の部分は以下のようである。
況ヤ人烟稠密従来ノ質アル福山玉島ノ如キヲヤ雖然(にもかかわらず)、舊(旧の異体字)習ノ流俗トシテ道路橋梁等ノ修理ハ兎角官費当然ニシテ己ニ関係ナキ事に思ヒ(以下略:適宜句読点を補い、また漢字は一部常用漢字に変更し、意味を括弧内に補記した)
この告諭は道路の必要性を説くとともに、民間の努力を促すものであり、個別の道路の改修についてはいっていない。
以下明治五年十月、同十一月、と告示が続く
これら告示に出てくる道路を整理したものが福山市史下の下の表である。表ではわかりにくいが、上記明治五年の告示などを読むと、大幅な道路の掛け替えではなく、まず馬車が通行できるように幅員を拡張し、凹凸を平坦にした、と理解している。地域住民による経費・労力によるところが大きいので、それほど大規模なことはできないと思われると同時に、動員力と当時の土木力を考えると半年前後の期間でできるのは改修だろうと推察する。
道路改築箇所 | 里程 | 幅員 | 着手年月日 | 竣工年月日 | 備考 | |
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自 | 至 | |||||
小田郡笠岡村 | 浅口郡阿賀崎村 | 5里 | 2間 | 明治5.11.20 | 明治6.5.7 | 笠岡から東方向 |
小田郡笠岡村 | 沼隈郡津之郷村 | 5里 | 2間 | 明治6.5.10 | 明治7.8.10 | 笠岡から西方向 |
浅口郡玉島村 | 賀陽郡延友村 | 6里 | 2間 | 明治7.3.8 | 明治7.5.20 | 笠岡から東方向 |
浅口郡上成村 | 西之浦町(霞橋) | 長162間 | 6尺5寸 | 明治7.12.1 | 明治8.3.10 | 経費1,512円は西ノ浦村社中醵金 有料橋一人4厘、馬・人力車1銭 |
浅口郡水江村 | 同郡玉島村(運河) | 2里 | 3間 | 明治7.4 | 明治8.2 | |
区 分 | 路 線 | 改修年代 |
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国道1等 | 深津郡房路峠 | 明治11 |
県 道 | 油木・府中線 | 明治17~18 |
県 道 | 東城・福山線 | 明治19~24 |
県 道 | 府中市・尾道線(本郷経由) | 明治23~31 |
県 道 | 西城・福山線 | 明治27~29 |
区分等級 | 路線名 | 関係区間 | 距 離 里 町 間 | 経由地 |
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国道1等 | 東京より長崎開港場に達する線路 | 安那郡上御領~御調郡尾道町 | 7.32.04 | |
県道3等 | 甲奴郡上下より都府に達する線路 | 芦田郡府中市村~深津郡中津原村 | 3.31.10 | 府中市 |
〃 | 沼隈郡松永より 〃 | 沼隈郡松永村~沼隈郡神村 | .12.38 | |
〃 | 奴可郡東城町より 〃 | 奴可郡東城町~岡山県境 | 5.31.45 | 神石郡油木 |
〃 | 〃 便宜海港沼隈郡鞆津に達する線路 | 〃 ~沼隈郡鞆津 | 16.16.29 | 油木・福山 |
〃 | 奴可郡西城より都府に達する線路 | 奴可郡西城町~深津郡中津原村 | 14.04.10 | 庄原・上下・府中市 |
〃 | 三上郡庄原より 〃 | 三上郡庄原村~ 〃 | 10.13.10 | 上下・府中市 |
〃 | 深津郡福山より 〃 | 深津郡福山町~深津郡川南町 | 1.20.43 | |
〃 | 沼隈郡鞆津より 〃 | 沼隈郡鞆津~ 〃 | 5.21.44 | 福山 |
〃 | 芦田郡府中市村より 〃 | 芦田郡府中市村~深津郡中津原村 | 3.31.10 | |
〃 | 〃 便宜海港尾道に達する線路 | 〃 ~沼隈郡本郷村 | 3.23.10 | |
〃 | 神石郡柚木村より都府に達する線路 | 神石郡油木村~岡山県境 | 2.31.45 | 仙養 |
〃 | 〃 便宜海港鞆津に達する線路 | 〃 ~沼隈郡鞆津 | 13.16.29 | 下岩成・福山 |
大日本帝国陸地測量部による測図が行われた明治30年までに、大幅な道の掛け替えは行われていなかったのではないか、と推測している。広島から見て、福山から笠岡への道路は重要度が高くは感じられず、整備に力が注がれたとはいえない気がする。
大正15年に旧山陽道の岡山以西が国道から県道に変更された。岡山県史 第11巻近代Ⅱp107に「代わって大供から浜街道を西進して、重要性を増した倉敷を通過するように改めた」とある。このときまで浜街道(=福山から笠岡そして、岡山までの道)は江戸時代の経路に近かったのではないか。そして、現段階では我々が歩いた道は名称はともかく江戸時代に人々が往来した道の一つではないか、と思っている。
さらに、日和峠以西の福山への道の基本資料とした「備後の歴史散歩」また歩行後見つけた福山市の「ふくやま観光・魅力サイト」(福山市のホームページの「観光・魅力の情報」を選べば前記タイトルで表示される)のふくやま歴史散歩 3中央エリア2(PDFです。サイト確認:平成28年3月14日)の笠岡街道などの記事を見ると、我々が歩いた道が笠岡への往来であると思える。話しかけて来た男性に根拠などを伺いたいが住所も名前も聞いていないので、どうしようもない。なお、この件は検討の余地を残しておく。