津山線の高架(第一河原橋梁)から境橋までの経路について調査報告2p33-34では「佐良神社下から旧広瀬橋まで」として次の二系統の道が説明される。[管理人要約( )内は補記。]
上記二系統の道の説明に現在通行可能かどうかの記述はない。むしろ、どちらの道に関しても否定的に記述している。yahoo地図の航空写真で見ても、両方とも道がつながっていない。
これらの記述から古道は通行不能だと判断した。また、地図で新道は東北に延びる津山線上を進んで、最後に東に分かれて一方踏切南側の道に合流する。津山線を東に越えるのは不可能だが、高架をくぐって津山線の線路東横の畦道を北上し、踏切南の道に出る[畦道A]であればほぼ重なっているのではないか、と考えた。
平成27年11月13日に現地に着いて、第一河原橋梁をくぐった時、津山線に沿った畦道の入り口に横棒があるのを発見した。これは進入禁止の意志を示していると判断。経路Aは通れないので、経路Bを選択。
左折せず60メートルほど直進して、畦道を北(津山口方面)に進んだ。(写真は平成27年11月13日)
舗装が切れて草道になる。しかし轍があるから、通れるものと思って進んだ。その先で舗装復活。
両側の用水がある道をそのまま進む。左写真は右の用水に近い方が高くなっており、そこを進むと家の角を回って舗装路に出る。舗装路に出てから道なりに進むと、なんと長法寺の石碑が見えてきた。山門の前で左に進めば[代替往来](この辺では新道と同じ)と合流する。
第一河原橋梁をくぐり、山裾を通って長法寺のところに出ることはできた。しかし、調査報告2の記述のみが根拠なので、この道が旧道であるという確信はない。また、途中の雑草繁茂地帯を道として良いか疑問が残る(長法寺の前に出てきたところに、今進んで来た道の方向に向いて「この先は行き止まり」という看板があった)。より明確な裏付けを得ることができるまで、本編で記述している道を津山往来に近い道としておきたい。
津山線西側の道を歩きながら東側に進む道を探したところ、勝手踏切が複数あった。さらに旧国道に合流して進んでいると、南に分岐して一方踏切へ向う道があった。
しかし、調査報告2の地図で本来の新道がほぼ津山線に沿っているところから考えると、西側の道は鉄道敷設時に消えたと考えた方が妥当である。念のために調べたが、その際勝手踏切は越えずに、元の道に戻った。東側を調べるためには、後述するようにくるっと回って西側に出た。
第一河原橋梁から北へ向って最初の勝手踏切は、建物のあいだを通って線路に向う通りにくそうな道である。
さらに北にある二番目の勝手踏切へ向う道は比較的整備されている。線路から東を見た景色が右の写真であるが、右側に「最初に選択した道」の「通りにくい菜園」が映っている。
yahoo地図の航空写真で調べると、この二つのあいだにもう一本勝手踏切のように見えるものがあるが、気づかなかった。
そのまま旧国道を進むと、津山口の北側を通る。この後も旧国道は津山線の南に回ることはなく、岡山街道踏切で姫新線を越え、国道53号線と交差して、栄橋へ向う。旧国道を岡山街道としている資料を見るが、かってはそう呼ばれていたのだろう。
「通りにくい菜園」を通りにくかったので、Bから来た畦道を進んで[イ]地点まで出て、田圃の外側の畦道を逆にたどってみた(水でぐちゅぐちゅの所が何カ所かあり、靴が泥だらけになった)。最後は「通りにくい菜園」の端で行き止まりだった。そこから[イ]まで戻るときは、住宅地の土留めの南端をぐるっと回ることに気づいた(左写真)。
つまり、仮に新道が勝手踏切を越える形で残っていたとしても(その可能性は少ない)、ここで住宅地に分断される。つまり、元禄時代の新道は残っていないとの結論を出した。
このあと念のために、一方踏切の東南方向を見てみた。このときは季節柄草が繁茂して何も見えないが、 平成27年11月13日の写真では線路の横に畦道がある(右写真)。しかしそれも、住宅地で分断されている。
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