※下線のある言葉は他のページやサイトとリンクを張っています。リンク先にとんで戻るときは、下のボタンがあるページはボタンをクリックしてください。他のサイトの場合はブラウザの戻るボタンで戻ってください。
区 間 | 距離 | 歩行日 | 説 明 |
---|---|---|---|
千阿弥橋跡から御野幼稚園 | 3.1キロ | 平成27年10月02日 8時30分--14時50分 | 説明1 |
御野幼稚園から辛香峠 | 9.6キロ | 説明2 | |
辛香峠から観波橋 | 6.4キロ | 平成27年10月09日 9時20分--15時40分 | 説明3-1 |
観波橋から中吉橋西詰 | 6.7キロ | 説明3-2 | |
厳島神社(中吉橋手前)から八幡の渡し | 3.1キロ | 平成27年10月16日 9時40分--14時20分 | 説明4 |
八幡の渡しから神目駅 | 5.6キロ | 説明5 | |
神目駅から全間交差点 | 4.5キロ | 平成27年10月30日 9時35分--15時05分 | 説明6-1 |
全間交差点から誕生寺駅 | 3.7キロ | 説明6-2 | |
誕生寺駅から亀甲石 | 6.0キロ | 平成27年11月06日 9時35分--15時05分 | 説明7 |
亀甲石から佐良山駅(津山市高尾) | 4.7キロ | 説明8 | |
佐良山駅から日限地蔵堂 | 2.7キロ | 平成27年11月13日 9時35分--13時20分 | 説明9 |
日限地蔵堂から京橋御門跡 | 4.7キロ | 説明10 | |
千阿弥橋~京橋御門跡 | 60.8キロ |
※1:距離は往来としての地図上の距離。yahoo地図で測定し、寄り道や迷い道は除いている。時間は実際にかかった時間。道を探して戻ったり、寄り道をしたり、休憩や昼食をとったりする時間も含んでいる。
※2:最初に平成27年10月2日から同11月16日までに有志4人で歩いた。その後、管理人1人で何度か再調査した。写真はその都度撮った。道の案内としてより適当なものを選んだので、異なる季節のものが混在している。
「調査報告第2集 津山往来」は、往来の経路と名称について最初(p1)に次のように定義している。
「岡山城下を発し、半田山・辛香峠を越えて金川・建部(ともに陣屋町)に至り、弓削・亀甲を経て津山城下に入る道がいわゆる「津山往来」である。『作州記』によれば総里程十四里(現在の約55キロメートル)に及び、備前と美作を結ぶ重要な道の一つであった。この道の呼称については、当然のことながら岡山側と津山側では異なっている。岡山側からの呼称としては、散見できる近世紀の道標には「作州道」と刻まれている例が多く、また『作陽誌』の中では福渡・弓削について「備作往還の駅伝なり」と記している。(引用ここまで)」
左写真は旭川の「八幡の渡し」。備前と美作の国境であり、また備前池田藩と津山森藩やその後継者との国境でもあった。
地方の往来の多くがそうであったように、呼称は地域や年代によって変化する。津山往来という言い方は近世後期に使われはじめたようで、それ以前は岡山側からは「作州道」「作陽往来(往還)」、津山側からは「備前道」「備前往来(往還)」が一般的であったようだ。我々は調査報告の名称に従い、「津山往来」で統一する。また経路についても、前述の定義に従う。
津山往来は明治になって比較的早い時期から道路改修が行われた(注1)。このため、明治時代の県道(大正年代に国道に編入)を津山往来(あるいは岡山街道)とする情報も多く見受けられた。調査報告2から現在の道を探すとき、最初かなり混乱した。
(注1)
【津山往来の改修】
岡山懸御津郡誌、「国道」の項で「津山線 (経路説明部略)昔時の津山街道を変更改修せしものにて、明治二十年改修完了、県道となり、大正十年国道に編入。」(p243)とある。また、御津町史p555-557、建部町史 通史p463-464にも道路整備についての記録があり、沿線の人々にとって大きな出来事であったことが窺われる。
【補足:経路の混乱】
文章による説明は江戸時代のもので、図版の地図は明治時代の県道である書籍があった(出版元は法人)。また、yahooの地図及びグーグル ストリートビューなどで「岡山街道」と表示される道も、前記県道であると思われる(平成27年11月1日現在)。
岡山の街道を歩くへ
街道トップへ
このサイトの著作権は、作成者及び一緒に歩いた人に属します。無断転載はご遠慮ください。リンクは自由です。