津山往来・御野幼稚園(倉敷往来分岐)から辛香峠まで

津山往来2・御野幼稚園(倉敷往来分岐)から辛香峠まで

 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。

半田山大坂から辛香峠までの略図

二、作州福渡に至る惣計六里八町十間。

(略)北方村 茶店多/し。 ゑどう橋 北方村の枝ゑどうの内にあり、ゑどうは遠/藤の略語なり。古跡の分に委しくしるす。 半田の大坂 近来此村口に茶店出/来、半田山は山の惣各(名)なり、坂口より柏谷/むらまでは皆山なり。 一里塚。東原 半田山の裾なり、坂口より栢谷/村までは皆山なり。 横井上 上に同/じ。
栢谷谷二軒茶屋 本村は道よ/り西に有。益田村。一里塚 益田村内/にあり。 辛香(からこう)村 道より西にあり。此村より中山/迄山坂なり、辛香峠といふ。 (太字でないところは割書)
吉備温故巻之十七  
(地図は北向きなので下から上に進む)

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 歩行日 平成27年10月02日(金)距離 約 9.6キロ


 正面は御野幼稚園。東へ向かう倉敷往来分かれ、津山往来は御野幼稚園の左(西)側を進む。
 ここで西川を渡って北へ進むのだが、栄橋が吉備温故のいう石橋と同じ場所であるかどうかは分からない。幼稚園に沿って進む無名の橋の方が道の進み方としてはなめらかな気がしたので、そちらを選んだが、昭和15年に架けられた栄橋もすてがたい(右写真)。気休めで両方歩いた。
御野幼稚園前 栄橋

 自動車がすれ違えないような道が住宅地のあいだを進む(左写真)。すこしくねくねするが、とりあえず直進。しばらくして、北東から南東と斜めに進む片道1車線のやや広い道路(県道27号線)に出会う。押しボタン式信号を渡る。道の向こうにセブン・イレブンがある(右写真)。
御野の道 県道27号線

 信号を渡って、セブンイレブンの駐車場右側にある細い道に入る。岡山理科大学・岡山理科大学附属高校、半田山植物園へ向かう一方通行の道である。

 道の入口で用水を渡る。
座主川用水旭川(東)からセブンイレブンの後ろを通り、岡大方面に流れていく座主(ざす)川用水である。(座主川用水について

 細い道を進む。途中、津山線御野踏切(左写真)を越えると、陸上自衛隊三軒屋駐屯地へ向う道(県道386号線)と出会う。県道386号線を越えた先で道は二つに分岐する(右写真)。分岐点の公園は「江道遊園地」である。「江道」は歴史のある地名である(江道について)。
 津山往来は左手に進み、半田山大坂に向う。
岡理大への道 江道の分岐
江道遊園地

 まっすぐ進むと半田山大坂(左写真)。坂の上り口右側に「半田山大坂」と書かれた比較的新しい道標(石柱)がある。
半田山大坂 半田山大坂道標

座主川用水 道の左側半田山霊園の入口に六地蔵尊が並ぶ。右端七番目の小さな地蔵尊に「寛政六□ 九月六日 幼浄童子」(□は判読できなかったもの。推測含)の銘があった。

 霊園と植物園のあいだの急な坂を真っ直ぐ登る。岡山理大の学生は「地獄坂」と呼ぶ。上りつめたところで、目の前に建物が広がる。

理大入口 左の写真、手前右手が附属高校、正面は大学。右側の背の高い建物は工事中だったA1号館。
この日は高校の文化祭で、入口付近にはたくさんの人がいた。
 守衛室に事前に了解を得ていたことを告げて入る

大学構内の通行について】 
 一般的に大学構内は誰でも通れる場合が多い。岡山理大も図書館や食堂は外部の人も利用できるようだ。しかし、工事中であることや、構内から加計記念体育館までの道(関係者以外立ち入り禁止の看板があった)を通るので、事前に電話で<通行予定日時、目的、参加人数、連絡先>などを告げて、了解をとった。

 新しく建てられたA1号館と石組みの上に立つA2号館のあいだの坂を登る。
(我々が通った平成27年10月段階では11号館となっていたが、新しい建物A1号館の完成に伴い名称変更されたようだ。下の写真2枚は平成28年6月に用事で訪問したときのものである。)
A1号館横 体育館への入口

 陸上自衛隊三軒屋駐屯地の金網の左側を進む。道の左側は岡大農学部の土地。樹木が生い茂っている。途中いくつか分岐があるが、駐屯地の金網沿いに進めばよい(分岐があれば原則右折。笹ヶ瀬体育館という目印がある場合もある)。 10分ほど登ったら、それから下り。右側に高圧線の鉄塔がある(右写真)。
体育館への道 体育館への道2

 その先で、また林の中に入る。真ん中に切り株がある先に住宅地に下りる道が分岐するが、まっすぐ進む。目の前に下りの階段が出てくれば、もうすぐ出口である。下りる途中にドコモの横井上基地局がある。
体育館への道3 体育館への道4

 道は途中から駐屯地から離れていく。この辺から本来は「外柵内側の自衛隊内道路」が往来ではないか、と調査報告2p7では推測している。また、山陽自動車道の工事などで道が特定できない、とも書いている。

 吉備温故にもあるように、半田山大坂から栢谷まで、往来はずっと山の中である。もともと目印がないところに、明治以降陸軍関係の施設ができ、それが自衛隊に変わり、さらに住宅団地の建設や高速道路工事などで道路環境はまったく変わっている。歴史の道調査報告が刊行された平成4年からでも20年以上が経過している。
 管理人は地図をいくつか見ても旧往来の道筋の目途はつかなかった。土地勘があって、ある程度地図が読めるメンバーを中心に相談し、“それらしい”道を砲台跡まで何とか“つなげた”のがこの結果である。

 階段を下りきったところで加計記念体育館が見える運動場(サッカー場)らしいところに出る。
加計記念体育館

 サッカー場の端を体育館まで歩き、体育館の東側(運動場側)に沿って進むと鉄の門があり(開いていた)、道は下り始める。坂道を右に曲がりながら進むと、右側に温室があるところで下への分岐があり、今まで来た道は上り始める。今まで来た道の先をそのまま上りながら進む。
台場への道

 上りの途中で右手に附属高校のソフトテニスコートがある。さらに上りつづけると、パイプと金網で作られた門がある(左写真)。
 門から出て、道は二つに分かれる。右側の道を進むと、その先でやや広い道に出会う(右写真)。備前原方面から笠井山の中腹を越えて来た道である。
台場への道2 台場への道3

折良く門はあいていた。この日は高等学校の文化祭だった。そのために開いていたのか、常時開いているかは不明。

 広い道を左折。タンクのある台地の横を下る。台地の先で右から左に大きく回り込むように曲がる途中右に分岐するやや細い道(イとする)がある。イに進む。そこからは調査報告2で示す津山往来であると思われる。
水タンク 台場への道4

 金網の門を出た後、左の道を選ぶとタンクがある台地の左側を進んで、我々が選んだ道よりも下で広い道に出る。イに近い位置なのでこちらが津山往来であった道に近いかと思ったが後日行き直してみたが、どちらの道もタンクを迂回する形になり、イに直結するわけでもない。どちらでも一緒だった。金網門までの道も疑問があるし、その後の道も大幅に変わっているので痕跡を探すことは困難である。

 イの道を進む。ゆるい下り坂を50メートルほど進むと道が二つに分かれる。津山往来は右手の家の前を進む細い道(左写真)。道なりに左の道を下ると、住宅団地のなかを進み、調査報告2でいう十字路に出ない(右の道が家への道のように見えたので最初まちがって進み、かなり迷ったあと行き直した。津山往来は住宅団地の外側を下って猿場池と津高郵便局のあいだへ下りていく道である)。

 だんだん細くなる道を100メートルほど進むと、右手に上る道がある(右写真)。そこ(坂の正面にカーブミラーが見える2~3メートルの短い坂)を上ると調査報告2でいう四つ辻にでる。
 確かに2本の道が交差している四つ辻であるが、路地(短い坂)から出るような形でやや広い道(自動車がすれ違える道)に出るので、ぴんとこない。津山往来はやや広い道を越えて向こう側(カーブミラーの右)に降りる道として続く。
道-横井

 右を見ると「さくらが丘」と刻まれた石碑がある。その石碑を注意してみると「お台場」と書いた板がある(白っぽい色で文字も薄いので見落としやすい)。石碑の前の道を100メートルほど登れば左手に石垣と階段がある。それが「横井上お台場遺跡」(右写真)である。
さくらが丘石碑 お台場

お台場からの景色お台場は草が生い茂り、櫨の木が入口の石段を覆っていたので、入らなかった。砲台が向いている北側は見えなかったが、岡山方面の展望で満足した。階段に座って昼食。蟻が多かった。
岡山のお台場について

 今では一つの岡山県だが、藩ごとに勤王と佐幕に分かれて警戒しあっていた時期もある。幕末の歴史では雄藩内あるいは雄藩同士の相剋が描かれることが多いが、全国大小さまざまな藩でそれはあったのだろう。動乱の時代だったのだなあ、と思う。

 管理人が知る限りでも、岡山県関係で幕末に3人が何らかの事件の責任をとり藩を守るために切腹している。滝 善三郎(岡山藩家老日置氏家来)、熊田 恰(備中松山藩年寄、切腹後家老)、小関 隼人(鶴田藩[浜田藩]家老)であるが、それぞれ藩のために切腹している。

 戦国時代は家来を助けるために殿様が切腹した例もいくつか聞く。幕末は藩(組織)を守るために、上級家来が切腹した。
 目的のために組織を動かすときの結びつきと、江戸時代270年のあいだに、組織を維持することが目的となったあとの結びつきの違いだろうか。武士道という概念もその過程で発生したのではないかと想像している。

 先ほど短い坂を上って出会った変則的な十字路にもどり、右手にある樹間の道を下る。もしお台場跡に寄り道しなければ、小さな峠を越える形になる。
道-横井2

 人通りもほとんどない樹間の道を下る。途中、左手に登る分岐があるが、気にせず下る。木々のあいだを通り抜けた坂を下りきったところで道は二手に分かれるが、津山往来は右の道を北に向う。この辺が八反田であろう。
道-横井3 道-横井4

 この後は吉宗までほぼまっすぐに進む。最初に出会うやや広い道は、津高郵便局の横から来た道である。斜め右に横断する。往来が入るところに大きな木がある(右写真)。
道-横井5 分岐の木

 そこから2~3分歩くと右手にお堂のような建物がある(左写真)。歴史の道調査報告2p7でいう「祖師堂」だと思われるが、同書の地図(祠堂と書いてある)とは位置が異なる。看板なども見当たらず詳細は不明であるが、お堂の背後に3基の題目碑と1基の地水神がある。日蓮宗関係のお堂であろう。真ん中の題目碑には昭和六年の銘があった。
祖師堂 題目碑

 苫田川を渡る(左写真)。地図で見ると、苫田川と旧53号線が交わるところは「栢谷」となっている。吉備温故でいう栢谷村はこの辺だろう。

 苫田温泉や朝日塾小学校への進入路と交差して北に進む。左側を北上する旧53号線に次第に近づき、その向こうに野谷小学校や香和中学校が見える。道は旧往来らしい風情があるが、遺跡の類はない。往来から少し離れた旧53号線沿いに「原始温室」(復元された硝子室の温室。マスカット栽培の発祥となった)などがある。もうしばらく歩くと、旧53号線に合流する(右写真は53号線への出口)。
苫田川 道-横井6

 交通量はかなり多い。最初少しだけ歩道があるが、その先は大型トラックが疾駆する坂を上る。新しい53号線(53号線バイパス)との交差点に出る。このまま進んで、53号線バイパスを右折する。
(ただし、横断歩道がないので、交差点の手前左にある迂回路を進むのがお薦め(右写真)。少し遠回りだが、ぐるっと回って向かい側の道にでる。そこからゆるい坂を少し登れば新しい53号線に出る。)
辛香1 辛香2

 辛香峠を越える道は明治19年9月から同20年暮れにかけて改修されている。この道は、昭和42(1967)年に辛香隧道が完成するまでは、自動車が通る道として利用されていた (御津町史p555)。

 また調査報告2は辛香峠へ向かう旧往来は残っていない、として旧国道を歩いている。事前に地元の人に尋ねたりしたが、みな旧国道についてはご存じだったが、津山往来についての情報はなかった。我々も旧国道を歩いたみることにした。

 53号線の坂を登って辛香トンネルへ向かう。歩道はない。辛香のバス亭を過ぎて少し進むと、左側に進入路がある。チェーンがはってあって「警告」の札が下がっているが、ゴミを捨てるな、というもので進入禁止ではないので、入っていった(左写真)。
 辛香池の横を通る(右写真)。
辛香3 辛香4

 すぐに草道になる。このとき(平成27年10月02日)は秋が始まったばかりなので、道一面の草。蛇が怖いので棒で叩きながら進む(左写真)。
 道の途中にジープのような車や小型のボンネットバスをすてていた(右写真)。 辛香5 辛香6

 池から15分ほど歩いたところで進行方向が背丈より高い草の壁になった(左写真)。この日の歩行距離はそれほど長くないが、上り下りがけっこうあり、みんな疲れていた。強行突破する気力はもう残っていなかったし、仮に強行突破してもそれは明治の道であることが頑張ろうという気持ちに水を差した。

迂回路を探して、進行方向左(西)に分かれた道を進んでみる。草道のなかに金属ネットの塀で囲まれた水道施設らしいものがあった。柱にはくずし字風の字体で「上水道高区配水池」(推測)と書かれていた(右写真)。
 あとでネットなどで調べると「高区配水池」というのはポンプなどで加圧する配水池のようだった。また調査報告2によると草の壁ができて我々の進入を阻んだ道が、峠を越える旧国道だったようだ。
辛香7  辛香8

バス停交流会館入口 国道53号線にもどり、辛香トンネルの方に進み、道路西側にある「金山口」からバスで帰った。

 この続きは、岡山理科大学国際交流会館入口(前回引き返した道からつながると推測した場所)から再開した。そのため、辛香峠の頂上付近で足跡は途切れていることになる。個人的にはバス停「金山口」から免許センター方面に上り、「交流会館入口」に降りて迂回する道でつなぎたいと思っている。


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