津山往来・逸話1

津山往来の逸話

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座主川用水

座主川用水【座主川用水】旭川西岸の灌漑用水路。岡山市三野の六挺樋(ろくちょうび)から取水し、管掛用水路の下を暗渠で通り、同市津島、伊福、万成、矢坂、一宮、楢津、大安寺、野田、白石などの耕地約600haを灌漑している。旭川右岸では最も早く開かれた用水路で、古代条里の地割りによく沿っている。近年灌漑地域の宅地化が進み、排水路としての正確を強めつつある。(岡山県大百科上p1098 より引用)

 福輪寺(真言宗。後に日蓮宗[妙善寺]となった)の座主の良遊が開いた用水であるということで「座主川」という。津島の名刹「妙善寺」 デジタル岡山大百科。サイト確認:平成28年7月3日。


「ゑどう」および「ゑどう橋」について

 吉備温故では官道及び古跡で「ゑどう」について次のように記述する。

巻之十七 官道下(群書集成七 三八九頁)
 ゑどう橋北方村の枝ゑどうの内にあり、ゑどうは遠藤の略語なり。古跡の分に委しくしるす。

巻之三十五 古跡上
 一、御野郡
(群書集成八 二〇九頁) ゑとふ北方村の枝。宇喜多の臣遠藤河内が宅地の跡あり。里民此所をゑとふと唱ふ。
 此宅地の南に、西へ流るゝ小川あり。里民三野川といふ。夫より渡せる橋をも又ゑとふ橋といふ。
 按ずるに、遠藤を中略してゑとふと云習はすものと見へたり。

巻之三十五 古跡上
一、御野郡
(群書集成八 二〇九頁) ざず川 上伊福村の内。 村前を流るゝ小川なり。三野川の末なり。又座主川とも書由

 「ゑどう」と「ゑとふ」と表記が若干異なるが、同じ地域を指すと思われる。津山往来が倉敷往来から分岐して、県道27号線を越え、さらに県道386号線を横断して、半田山への道に入った左側に「東江道町内会集会所」がある。また、半田山植物園と半田山大坂(半田山霊園方面)への分岐点にある公園が「江道遊園地」であることから、この一帯が江道であると判断した。そして、27号線を超えたところで渡った用水を座主用水であると判断した。
江道遊園地


岡山のお台場跡

資料に出てくる岡山のお台場

幕末維新のおかやま(pdfファイル。読むにはAdobe Readerが必要)
 岡山県教育委員会が平成27年12月22日に発行したガイドブック。江戸時代が終焉を迎える嘉永6年のペリー来航から明治4年の廃藩置県までの岡山県内各藩及び天領の動向を平易にまとめている。
 p2の年表、p3-5に鴨方藩(岡山支藩)が青佐山、岡山藩が下津井、小串、横井上に台場を作ったことが紹介されている。(サイト確認:平成28年7月13日)
市指定史跡横井上お台場遺跡
 岡山市教育委員会文化財課の「おかやまの埋もれた歴史再発見」のサイト。「横井上の砲台は、洋式砲術の教練場だったと見なされ、また砲列は北に向いた」など横井上のお台場について詳しく述べてある。(サイト確認:平成27年10月20日)
岡山藩(書籍)
 岡山藩は嘉永6(1853)年、柳河藩と一緒に安房・上総の海岸警備の命を受け、その後大阪警備に配置換えになった。また元治(1864)年には領内海岸警備のために、児島・邑久郡の海岸などに砲台を作った。また御野郡南方村で、大砲の鋳造が行われ、兵制の改革も行われた。(日本歴史叢書、谷口澄夫著、新装版、1995、p254,258。)

その他

管理人が見た下津井砲台

書きかけ項目:新たな情報があれば追加・修正します。


道林寺・鳴瀧神社

道林寺について

 御津郡御津町中山にある日蓮宗の寺院。山号は臥龍山。京都妙覚寺の末寺でもとは金川の城郭三の丸(道林寺丸ともいう)にあったが、永禄11年(1568)落城後現在地に移った。(中略) 寛文年中(1661~1673)の岡山藩による寺院整理で末寺30数ヵ寺はことごとく整理されたが、道林寺だけは残された。
 寺宝として大覚大僧正持参の妙見菩薩(伝教大師の自作と伝える、日像改根)がある。現在ある恭愍(きょうびん)院と妙見堂、本堂、鐘楼、山門はいずれも江戸時代中期の建造。
(岡山県大百科下p289による。なお、同寺のサイトでは、金川城落城の後の再興は天正17年(1589)である。)
 御津町は平成17年岡山市に編入。岡山市北区御津となり、御津郡は平成19年、建部町の岡山市編入に伴い消滅)。

 臥龍山 道林寺 日蓮宗ポータルサイト(サイト確認:平成28年7月15日)

 金川城(玉松城)落城から平成28年の今日まで448年が立つ。現在の金川、城山の道林寺丸跡には、道案内の看板があるのみで何も残っていない。(寺院跡はもう少し南のようだが、藪で見えない)
道林寺丸看板 道林寺手前2

 寛文年中の岡山藩の寺院整理で妙国寺や妙善寺が末寺と伴に廃寺となっているが(寛文六年亡所仕古寺書上帳など)、道林寺が存続できたことは不思議である。

道林寺見学記

 中山信号から東に向かって川を渡り、坂を上る。
道林寺への道

 100メートルほど進むと、十字路があり、右のカーブミラーの手前に道標がある。道標は登り道に向ってあるので、前に行かないと文字が読めない。
 道標には「右 道林寺 妙見道」と書いている。
道林寺手前道標 道林寺手前道標2

 道標の示す通り右の道を進む。この日は近くの鳴瀧神社の祭礼日で、提灯などを飾った門があった。
 右写真はその先の分岐。右に行くと鳴瀧神社。道林寺は左。
道林寺手前 道林寺手前2

 すぐに道林寺山門がある。
山門左右の仁王像は説明板では『明治三十年(1897)に書かれた「仁王尊縁起」による』として次のようにいう。『松田元隆(1535年没)が [略]大永年間(1521~1548)に仏師の多賀十郎に命じて造立し、[略] 玉松城三の丸内の道林寺に遷されたとされる。(以下略)』
門前の題目碑には「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれた右側面に「後五百歳廣宣流布」とある。帰ってネットで調べたところ法華経の文言であるようだ。
道林寺山門 道林寺題目碑

 左写真が本堂、右写真右側が鐘楼。
道林寺本堂 道林寺鐘楼

 左写真は本堂の横にある建物。上記道林寺のサイトで「妙見堂前には北をお守りする玄武が置かれ」とあるので、前に石造の亀が一対置いてあるこの建物が妙見堂だと判断した。恭愍院はどこにあるかよく分からなかった。本堂の床下に修理以前のものか鐘楼などの鬼瓦や鯱瓦が置いてあった。
道林寺妙見堂 道林寺瓦

 宝篋印塔と板碑。御津町史p800-801によると、宝篋印塔は松田元方の墓塔である。死後407年後に、大村勘兵衛が建てたということが隣りの板碑に刻まれているという。もしかしたら裏から撮ったかも知れない。
道林寺宝篋印塔

鳴瀧神社

 さきほどの分岐で右に行くとすぐに鳴瀧神社。御津町史p721によれば、かっての村社で、鳴瀧大神、応神天皇、天照大神、春日大神を祀っている。神社のうしろに瀧があるが、土砂崩れで行くことができなくなっている由(地元の人に聞いた)。
金山鳴瀧神社
鳴瀧神社鳥居 鳴瀧神社


題目石と八百屋お七の墓

日典聖人生誕地の題目石

 国道53号線の題目石から国道53号線を岡山方面に160メートルほど戻ると吉尾口の信号があり、西に分岐する道がある。その分岐から370メートルほど進む(最初は川沿い。川から離れて、途中に山中医院などがある)と、防火水槽のところで右手に分岐する。
 分岐した道を100メートルほど登ると、祠の中に題目石と新しい地水神碑がある。題目石には大正時代の銘がある。日典聖人誕生之地と刻まれた石柱がある。

 さきほどの防火水槽のところで右に折れず、まっすぐ進むと、すぐに道はまた二つに分岐する。分岐点で右手を見ると「八百屋お七の墓」と書かれた看板がある。看板の上の高台の上に小屋があり、その中に八百屋お七の墓があるという。小屋には手前の民家の横(東側)の小道から上ることができる。さきほどの題目石の先からでも行くことができるが、やや遠回り。
 八百屋お七が恋した生田庄之助と会いたい一心で火を付けて火刑になって死んだという話は、管理人もいつの間にか記憶していたが、墓がこんなところにあるのは意外であった。
 説明板には、お七をそそのかした吉三郎という男が反省して「お七の遺骨を持って供養の旅に出て、野々口・小山村で亡くなりました。村人がここに二人の墓を建てたということです。左側の三角形のものがお七の、右側の長方形のものが吉三郎の墓です。」とある。なお、お七の墓は他にもあるようだ。 八百屋お七墓(円乗寺)文京区のホームページ(サイト確認:平成28年7月23日)。レファレンス事例詳細 レファレンス共同データベース(国立国会図書館)(サイト確認:同前)
野々口の題目碑 八百屋お七の墓


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