歩行日 平成27年11月06日(金) 距離 約4.8キロ
書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
亀甲岩。その上に石碑と祠がある。石碑には「大日如来」と刻んであった。大日如来の碑をよく目にするように思う。
説明板に二つの伝説が記されている。ひとつは行き倒れの廻国六部を埋葬したら、月夜に弘法大師の像を乗せて地上にせり上がったのがこの亀甲石だというものである。もう一つは稲荷山城主が作った別荘の屋敷に出た岩だという。吉兆として大切にした由。
亀甲岩から北西に進む。駐車場の横を進み、白いパイプの橋を渡り、中央中学校の校地(運動場)の横を通って長安寺の東南の交差点に出る(右写真)。津山往来はここを直進。
長安寺の東南の交差点から140メートルほど細い道を進むと、亀甲駅の方から来た県道352号線に合流する。左に曲がり53号線亀甲交差点に向う。ガソリンスタンド(エネオス)やハッピーマートがある。
調査報告2p28では、「一度県道に出てすぐに細い道に入り、トラック置き場を過ぎて、真菰池の土手上に出る」となっている。
県道に出てすぐに左に入る細い道がある。そこを普通に上に行ってしまうと真菰池には近づかない。県道から分かれて、すぐに横の建物を周り込むように右に下りる道に入る。最初はこの道を行きかけて途中で引き返した。オクデヤ運送(県道を挟んで両方に施設がある)の中を通る形になるからだ。
細いながらも道として生きているのか私有地になっているのか判然としないが、左側にトラックなどが止まっている建物があり、右側は道路に面した建物の裏になる。誰かいたら断りを言おうと思って通ったが、トラックはいたが人には会わず、特に咎められることはなく中を通り(距離は短い)、オクデヤの建物と石垣のあいだに延びた道にたどり着いた(左写真)。
そこを抜けてそのまま行くと真菰池の東端の土手に出る(右写真)。
土手から北を見れば、高清水峠へ向う上り坂が見え、その西側に地蔵尊と道標が見える。
往来は県道により分断され、県道は土手より低いのでかなりの段差がある。
【どんな事情があったのか】
最初に歩いた平成27年11月6日から、1年近く経過した平成28年9月1日再調査として誕生寺から津山まで歩いた。歩いたときは気づかなかったが、地蔵尊と道標が立っているところにあった家がなくなっていた。それも一軒だけではない。上の写真が平成28年9月1日。下の写真が平成27年11月6日。
地蔵尊も道標もかなり風化が進んでいる。
地蔵尊の横の坂を登る(北に20メートル前後)とすぐに、道は二手に分かれる。左側を進む。
そこから、500メートルほど小さな曲がりを辿りながらひたすら登る。分岐もあるが、気にする必要はない。
民家のあいだを抜けて右に回る道が、左に分岐した三叉路になっている角(進行方向左)に道標と説明板などがある。近づくまで見えにくい。
また、最初に行ったときは駐車場所に大きな車があって気づくのが遅れた。
元禄二年(1689)に当時美作一国の領主だった森氏が領内に立てた道標の一つである。字体などの規格も統一されている(岡山の道しるべp159-160など)。経過年を考えると状態はかなり良いと思う。
我々が歩いている道に向いた面は「東 是より左備前道」と読める。裏面は「西 元禄二己巳三月」とある(元禄が判読できず、前記資料によった)。
他の面にも上の方に「北」「南」とそれぞれ刻んである。同様の元禄時代の道標はこれを含めて三基が現存するそうだ(同前)。
下の写真は津山側から見たもの。
道標の前から右に向って進むとすぐ左手に祠がある。由来は不明。その先200メートルたらず進むと、右側に池がある。道の先左側に墓地が見える。
そのまま進んで森の中へ入る。林道に近い道だが舗装はされている。森の中を100メートルほどを進むと左にやや登る道と右にやや下がる道に分かれる。
往来は右に進むが、左に進んで、乳塚を見学する。
分岐した道を10メートルほど進むと左の雑木林の中に、石垣の壇がある。
以前は乳の出が悪い時は豆腐を供え、乳が出過ぎると油あげを供えて祈っていた、ということである(説明板など)。
“乳を呼ぶ”由来の言い伝えは二つある。
分岐にもどって右の津山往来を進む。この先何度か道に迷ったが、それは後述。写真は最初の歩行(平成27年11月6日)と再調査(平成28年9月1日)のものが混在。
分岐から100メートルほど進むと左側が開ける。道は簡易舗装をしていて軽トラックが通れるくらいの幅(左写真)。
さらに行くと開けた左側に鉄塔(電波塔?)が見える。さらに進むと左後方に向って分岐があるが、それは鉄塔の方へ進む道で、その先打穴下の方へ行ってしまう。ここは本来交差点で、雑木の覆われているが右からの道の痕跡がある。
下の分岐に入ってからは、特に問題なく、ポンプ場まで行くことができた。我々としてはこの道が正しいと思っている。しかし、帰宅後yahoo地図などを見ていて、乳塚の分岐から林を抜けてポンプ場に到達する経路が二つあることに気づいた。我々が選ばなかった道をXとした。地図で確認する範囲ではXは畑の横から林に入り、500メートルほど進んで、我々が選択した道と合流する。けっこうくねくね曲がる。我々は先に説明したXの入り口だと思われるところから、さらに140メートルくらい先進み『重要分岐』から山のなかに入る。オフロードバイクで高清水峠を越えた記録をインターネットで見たが、我々と同じルートを通っている。
簡易舗装がなくなり、砂利道(砂利は薄い)になる。先ほどの地点から140メートルほど進んだところ左側の土手に上がる形で道が分岐する。左に曲がりながら、登る。(左写真)。先ほどまで歩いていた道が、右に曲がりながら下りていく(右写真)。
合流点から240メートルほど下ると右手に津山中継ポンプ場がある。
ポンプ場から100メートル足らず進んだところ右側に津山からの里程標がある。
舗装路になった林道のゆるやかな坂を下る。林を抜け、民家の前を通る。里程標から10分足らずで車が行き交う世界に下りてくる。乳塚を越えた頃から津山市福田に入っているのだが、ここで初めて境界を越えた、という気持ちになった。
高清水峠を越えてきた往来は旧国道側の藤乃棚橋を渡る。
その先国道53号線に合流する。合流点の右側(国道側)に、大きな石標がある。この地点で見えるのは裏側で、表に「殉教五人衆道 東へ三百米」と刻まれている。
国道53号線を渡って、津山往来は左の細い道に斜めに入る。間に正面の家の道を挟んで右側、古矢谷(こやだに)踏切に向う道が福田五人衆殉教の地(比丘尼塚)への道である。
【比丘尼塚参拝】
古矢谷踏切を渡る。そこから80メートルほど進んでから左に入る。
本来は佐良山古墳群の一つの横穴式古墳であるが、福田五人衆が断食入定したことにより、比丘尼塚とか法華塚と呼ばれる。
福田五人衆とは『寛文9年(1669)備前心学法難により美作久米郡佐良山村字福田の横穴式古墳に隠れて抗議の断食入定(死)した堅住坊日勢ら5人をいう。(以下略)』(岡山県大百科下p660。年号は和暦を先に記述した。)。
幕府は切支丹及び不受不施系の日蓮宗を禁教にしたが、備前池田藩はさらに藩主池田光政の儒教への傾倒により、神社の統廃合と寺院の廃棄が徹底して行われた。特に不受不施系の日蓮宗への弾圧は激しく、数百の廃寺により備前法華の崩壊につながった。この一連の宗教弾圧を備前心学法難という。
前年の寛文8年(1668)には矢田部六人衆の殉教(備前佐伯矢田部、本久寺の僧日閑と信者5人が棄教を拒否し、岡山城下で処刑された)があった。福田五人衆の中心的な存在である日勢は、建部の生まれで日閑と同じく本久寺の僧であった。彼と行動を共にした四人の女性も建部の出身だと言われる。
100メートルほど進んで、津山線の高架をくぐる。
高架をくぐったあと90メートルほど進む。茶色のトタンで覆われた右側の家の手前で右折。路地にはいる。この曲がり方は若干不自然だが、もともとは高架のところからまっすぐ道が延びていた、ということだった。今はいくつかの建物でふさがれている。(地元の人談)
ここからの区間、北に向けて三本の道路が延びる。西から順に国道53号線、田圃の中をほぼ真っ直ぐ走る旧国道(先ほど分かれた道)、山裾を進む旧津山往来である。
家のあいだを通り過ぎ、右側の山の裾を北に進む(左写真)。
しばらく行くと右手、民家の石垣の前に地神碑がある。彫溝が鋭角で新しい感じである。
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