歩行日 平成27年10月16日(金) 距離 約 3.1キロ(中吉橋から八幡の渡しまで)
書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
厳島神社に参詣。建部町史(地区誌・史料編)によると石鳥居は享保12年(1727)建立。社殿は昭和6年、随神門は平成元年に改築された。
前回の到達地点中吉橋を過ぎる。
50メートルほど進んでほぼ直角に左に曲がる。防衛が必要な町によくある鍵型の進入路である。この辺から旧陣屋町建部新町だと思われる。建部陣屋は岡山藩家老「建部池田」氏の知行地であった。
津山も岡山も現在は岡山県としてひとつの行政単位である。この感覚になれきっている管理人にとって、建部が防衛の前線基地であったということがなかなか理解できなかった。
(建部陣屋)
次の曲がり角の広場にお堂と地面からの高さ3メートルを超える題目碑、下之町集会所がある。この辺から建部の陣屋町が始まっていた。
題目碑は津山往来で見たなかでも大きい部類だと思う。(正面)「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」(右側面)「五百遠忌御報恩建部一宗門」(左側面)「天明元年辛丑十月十三日」と刻まれている(一部建部町誌地区・資料編p512を参考)。
お堂は孤月山金輪寺と呼ばれる観音堂。明和2(1765)年以前の建立と言われ、建部陣屋池田藩の家臣によって関ヶ原合戦で亡くなった身内、友人の菩提を弔うための寄進であり、堂内び位牌に慶長十三(1608)年の記名があるものがあるという(建部町史地区・史料編)。( 建部町史 通史編、「図20 建部陣屋及び建部新町の古地図」では岡山東林寺末寺禁輪寺という文字が見える)。
観音堂の隣りに小さな祠があり、お地蔵さんが鎮座している。
元の道にもどる。最初に進んでいた道からすると右に曲がって北に向かう。下ノ町の通りであるが、鍵の字の道の形以外に面影を偲ぶものはない。普通の住宅地である。前記古地図には、左側に大手惣門が書いてあるが、何も残っていない。侍屋敷地だったところは田になっている。
建部町史 地区編・史料編(p501)によると西岸に古市(川市)、玄内ノ市、大手ノ市など旧建部新町の舟着場があったようなので右手に入る路地を進んで土手に出たが、一面の草原で何も見えない。
土手の手前に小さな題目碑があった。題目はかろうじて読めるが、題目の右側に年号だと思われる戌という字、左側に月らしい字が見えるくらいで、風化が著しい。
次の曲がり角を直角に曲がり、旧上ノ町に入ると景色は一変する。
乳鋲を打ったがっしりとした門。建部町史(民俗編p167)によれば建部池田屋敷(御茶屋?)の門を移設したものらしい。
これは元禄時代の家の屋根。家の人が下は改修しているので写さないようにと言われたので、屋根を撮った。
このような旧家屋の五軒について、民俗編p141-182に詳細な家屋調査が掲載されている。
右側にも同じように並んでいたが、旭川の堤を作るために撤去された。(地元の人の話+民俗編p141)
空き地が目につく道路右側に、公会堂のような建物がある。妙見堂であるそうだ。前は、もう少し北にあったが移転した由。今でも集会に使うらしく、北側の壁に祭壇があるという(地元の人談)。
その敷地内に題目碑(左写真)と「秀ノ海の墓」が(右写真)がある。
題目碑は自然石風の三角柱で、正面「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」、右面「天明元辛丑十月十三日 五百遠忌」とある。日付はさきほど建部陣屋町の入口のところ(金輪寺という観音堂があった広場)の題目碑と同じである。講中で同時に建てたものか。
秀ノ海の碑は「大阪枝川内 秀ノ海竹造墓」と刻まれ、明治34年と刻まれている。下津井往来を歩いていたときにも大阪角力、西岩青太という碑(常ノ花の碑のうしろ)があった(お墓ではなかった)。
この少し先あたりに、かっては船着場へ向う道があった由(地元の人の話)。前記古地図を見ると、「朝日川」(現旭川)に向って何本か道が延び、上ノ町のところは川原があったようだ。さらに、建部新町から南の往来に「岡山街道」、北に向かう往来に「作州往来」と書いてある。建部を中心とすれば、ここからが作州往来だ。
正面の桜川の土手までまっすぐ進み、土手沿いに左折し、それから進むと、台橋の南詰に出る。右折して、台橋を渡る。家や田圃のあいだに、往来らしいまっすぐな道が北に向かって伸びている。
(台橋の由来について)
台橋から5分ほど歩くと左手に「お石塔様」と呼ばれる石塔群がある。
さらに家並みのあいだを5分ほど進むと、田地子川にかかる中央橋の手前右手の空き地に「学舎の碑」と「水道記念碑」がある。
旧往来は中央橋を渡らず、田地子川の土手沿いを北東に進み、途中で跳び石で川を渡る。橋を渡らず、土手の南側を渡河地点まで行ってみた。ちょうどいい加減のところに堰があったのでその上を渡ってみた。
足が滑りそうだったし(滑ると水の中へ落下。深くはないがずぶ濡れにはなる)、堰の一部に渡している板が古いのでいつ壊れるかも知れないと思えたので杖を使ってとんだ(丈夫な杖を持参していた)。中央橋を渡って左折すべきだったと反省した。
田地川を越えたあとは、土手を下りながら北に進む。
田圃の中を進んでいくと、左手に家がある。その家を過ぎてすぐ左に宮地の一里塚が見える。注意していないと見落とすかも知れない。
ここからはひたすらまっすぐに進む。調査報告2の調査が行われていた当時(平成三年度)工事中だったこの辺は、まったく新しい道になっている。圃場整備の結果、この辺は昔の面影はない、ということだった。道も往来とは違うが近似値ということにして納得する。
交差点手前右側にマルナカ(写真の看板)があり、左側の向こうにライスセンターがある。交差点の向こう側右手に建部中学がある。
津山往来はこの交差点をまっすぐ進む。
交差点から10分足らずで「メダカの学校」「旭川ミニ淡水魚水族館」「おもちゃの館」の看板(ひとつの看板に複数の施設が入っている)が右手に見える。(もっと先、八幡温泉の近くにも「メダカの学校」という看板があり、またネットで検索すると八幡温泉の方の「メダカの学校」が出てくることがある。混乱するが、ネットでは「旭川ミニ淡水魚水族館」で探せば良い)。
その先の広い駐車場は「建部温泉郷」とある。少し先に新しくできた(旧施設から移動)温泉施設「たけべ八幡温泉」(左写真)の駐車場である。10月の建部祭りの時、近在の神輿や獅子、棒遣いが参集する。
川に向って進むと、新しい「たけべ八幡温泉」がある。右側の大きなビルとの間を川に向って下りる。ビルは老人福祉施設ということだ。
下って川岸にぶつかって左折。少し行くと温泉販売施設(自販機:左写真)や温泉の由来説明板などを見ながら川の西側を北上する。対岸はもう福渡である。津山線のガード(右写真)をくぐる。
その先の家の前、左側に道標がある。調査報告2によると「此川ら作州道 土おく山道」と刻まれている。目の前が八幡の渡しである。
渡しであると同時に、高瀬船の停泊地であり、備前と備中の国境の町でもあった。
(国境としての八幡の渡し)
水かさが増えると潜ってしまうので潜水橋と呼ばれる橋を渡って備前国から、美作国へと進む。幸福(しあわせ)橋という名前である。人専用。自転車は乗ってはいけないようだけど、渡っている人に何度も遭遇した。
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