津山往来・逸話2

松田氏の足跡をたどる

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  1. 松田氏について
  2. 遺跡を訪ねる


松田氏について

松田氏供養塔  戦国時代の金川城を拠点として、備前の西半国を支配した松田氏は、元来相模国足柄上郡松田郷(※1)を本貫地とする関東の御家人であった。
 13世紀末に地頭として備前国伊福郷に来住し、建武二年(1335)に松田盛朝が備前守護となった。その後備前で勢力を伸ばし、有力な国衆となっていった。
 中興の祖、松田元成は西国街道に近い富山城(岡山市北区矢坂)から、金川城(岡山市北区御津金川)に拠点を移し、妙国寺を建立した。その後、福岡合戦で戦死したが、赤松・浦上勢力の駆逐には成功し、備前西部での支配権を確立した(※2)。なお、当主は代々左近将監と名乗った。
 「七曲神社旧事の書」では、松田氏は最初、金川西部の菅村に居住し、菅村の神社、正八旛宮には中世の砦の跡らしいものがあるとする。(御津町史p160)

 元成以降、元勝、元隆、元盛、元輝まで5代90年(※3)に亘って備前西部の一大勢力であったが永禄十一年(1568)虎倉城主伊賀久隆と宇喜多秀家により、金川城が落城し、滅亡した(元賢の弟元脩が落ち延び、讃岐松田氏へとつながったという説もある)。伊賀久隆による攻撃は宇喜多直家の謀略によるといわれる。久隆もその後宇喜多により殺害された。
(写真は妙国院奥の松田氏供養塔)

※1 御津町史p128によった。岡山県大百科下p827,岡山県史第5巻p113では、「足柄下郡」。現在、足柄上郡に「松田町」がある。同町のホームページを見ると鎌倉時代に松田氏が築いた松田城趾(サイト確認:平成28年8月20日)が紹介されている。
 なお、県史では現在地として、足柄上郡としている。下郡には、少なくとも現在は松田町という町はない。
※2 岡山の城めぐりp55などによった。岡山県史第五巻p114では、「松田氏は自立を企てたこの反乱に失敗してその勢力を大きく後退させる。浦上氏はますます強大になり、村宗の時代にその最盛期を迎えることになるのである。」とする。
 管理人は、どちらも本当だと思う。もし、ここで元成が戦死しなければ、松田氏の勢力はさらに拡大したかも知れない。しかし、同時に赤松勢を追ったことで、ある種の安定状態にはなったと思う。
※3 元輝の嫡子元賢を含めて6代とする資料もあるが、金川城落城の時、元輝が左近将監であったので、当主の代としては元賢を含めない判断をとった。

略  歴

建武二年(1335)頃
松田盛朝が備前守護となる(御津町史p130)
 
応仁元年(1467)
・応仁の乱おこる。
○松田次郎左衛門(元隆麾下)、相国寺の合戦で討死
○松田元隆、赤松政則(東軍)に与して福岡城にあった山名氏(西軍)麾下の守護代を攻略(岡山の城めぐり)。
 
文明12年(1480)
・応仁の乱ののち、本拠地を富山城(写真は現在の矢坂山)から金川城へ移す[松田元成](御津町史年表)。
・妙国寺建立
 
文明15年(1483)
・備前4郡(御野郡・津高郡・赤坂郡・上道郡)で松田氏が赤松氏から独立、11月福岡合戦になる。
○赤松側は当主政則が播磨に居たので、三石城主であった赤松家臣浦上氏が吉井川の中州にある福岡城に籠城した。これを松田元成及び応援の備中勢、備後の山名氏が包囲する。
文明16年(1484)
○膠着状態から1月25日浦上方が敗走し、攻城方が勝利。応援勢は帰参したが、深追いした松田元成が、東天王原で敗北。深手を負って磐梨郡弥上村山の池(現岡山市東区瀬戸町山の池)で自害(2月4日)。
 
明応6年(1497)
・浦上氏、牧石に陣を構え、富山城を攻める。これに松田元勝が応援し、浦上氏が苦戦、龍ノ口山へ籠城する。浦上方を宇喜多能家が応援し、戦略を持って松田方を敗走させる。(御津町史年表)
 
文亀2年(1502)
・松田方、宇喜多能家を大将とする浦上方と矢津で戦闘。松田方敗走。
文亀3年(1503)
・松田元勝、宇喜多能家・浦上勢と牧石川原で戦闘。松田元勝敗走。
 
永正6年(1509)
・金川城が玉松城と命名される(三条西実隆による)。[松田元勝](御津町史p161)
吉備温故巻之三十八(群書集成(八)p276)では「臥龍山城」とする。
 別名の「玉松城」は三条西実隆に依頼し、選ばれた城の名前の一つ(他は「麗水」、御津町史p137)であるようだ。ただし、この経緯は明治37年に再発見された事実のようで(同前)、この山の松材が優れているといった類の説明が東備郡村史にあるという(未確認)。
 
享禄4年(1531)
・摂津天王寺合戦(※2)で松田元勝、戦死(御津町史p161)。
※2 天王寺合戦と呼ばれる戦いはいくつかあるが、この年の合戦は、赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦いだと思われる。大物崩(だいもつくずれ)れの戦い・天王寺の戦いともいう(ウィキペディアを一部参照、サイト確認:平成28年7月31日)。
 
永禄4年(1561)
・松田方龍ノ口城(城主 さい所元常)、宇喜多直家の謀略により落城。(「さい」はノギヘンに最)
~このあいだ戦国乱世であり、国中争乱が続いた。備前一帯では浦上氏(とその配下宇喜多氏)、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏、が台頭してくる。松田氏は尼子と結ぶことで、勢力を維持しようとした。しかし、尼子の凋落により、松田氏の力も衰えていった~
 
永禄5年(1562)
・宇喜多直家と和睦し、直家の娘を松田元賢の正室とした。この後は、浦上氏の麾下となり、天神山城へ出仕した。
・吉備津宮、金山寺へ松田氏が転宗を迫り、拒否されて焼く。
永禄11年(1568)
・金川城落城。松田元輝、元賢戦死、元脩落ち延びる。金川松田氏滅亡。

 御津町史p128-139,160-163,年表。新釈備前軍記、備前軍記(群書集成(三))、岡山県大百科下p827、などを参考に作成。備前軍記以外の資料からの引用は補記した。


 岡山県下の戦国時代の幕開けは福岡合戦である、との説がある(岡山戦国合戦史、谷淵陽一、吉備人出版、2000、p1。岡山の城めぐり、p13)。であれば松田元成はその劈頭を飾る武将であったことになる。
 主家に反旗を翻し、備前半国を乗っ取ったとされるが、備前においては、松田氏の方が主家である浦上氏よりも由緒がはるかに古い名門であった(岡山県史第5巻p113)ことを考えれば、その見方は変わってくる。ただし、欲張って討死というのは何となく格好悪い。この辺運がないのか思慮が浅いのか。
 いくつかの寺社に転宗を迫り、拒絶されれば焼き討ちしたことでも知られる。ずいぶん野蛮な話であるが、伝承のなかに冤罪もある。
 また、異教の寺社に圧力をかける行為は宇喜多秀家(日蓮宗徒)もやっているし、他にもいる。大村藩ではキリスト教の宣教師の要求により、多くの寺社が焼かれ、僧侶が殺害されている(大村の歴史、大村市教育委員会編、平成15年、p80)。狂信的な行為はひとり松田氏のみではない。
 また、池田光政による宗教政策ほど多くの寺院や神社を破壊したものはない(資料によるが領内1035寺のうち、598寺を廃寺とした。-「岡山藩の寺院整理」、日本宗教史論集下巻抜刷、圭室文雄、吉川弘文館。昭和51年。神社については一万五二七社毀損、岡山県史第六巻p423-424)。

 松田氏は宇喜多氏の台頭の前に霧消するが、その理由として過剰な法華信仰があげられる。後世描かれた資料のなかに嘲笑の色合いを感じる時がある。
 備前軍記では、「金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、家中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し」とする(巻三、群書集成(三)p79-80)。

 金川松田氏についての記述は資料ごとに異同が多い。
このサイトでは、御津町史、新釈備前軍記と吉備群書集成(三)の備前軍記、岡山の城めぐり、の記載をもとにし、基準資料での異同は可能な範囲で注記した。
【参考資料としての備前軍記について】
 備前軍記及び新釈備前軍記を参考にした事項も多い。備前軍記は戦記物語で、記述を全部信じるわけにはいかない。ただし、土井経平は事実を記述しようと努力をしているし、なにより戦国時代の備前の群雄の葛藤を全体的に見渡せるものは他にない。また、利用しやすい資料のなかでは金川松田氏についての記述は比較的多い。
 新釈備前軍記を読み、吉備群書集成収載の備前軍記で確認した。さらに入手できる範囲の他の史料も当たった。また、細部の描写(例:松田氏についての宇喜多直家と伊賀久隆との会話など)は基本的に創作であると思い、引用することを避けた。

【ぼやき】
 資料ごとに異同が多いことは郷土史全般に言える。松田氏の例を挙げる。
 勢力圏内の仏教寺院に日蓮宗への改宗を迫ったということは松田氏について必ずいわれることだが、下記の疑問がある。

豊楽寺の破壊について
環境省・岡山県名で作成された豊楽寺の説明板には「天正の頃(1573~1592」改宗を迫られ、寺領没収・堂宇を破壊されたことになっている(平成28年8月4日確認)
松田氏の滅亡は上記の通り永禄11年(1568)。
金山寺の焼き討ち
岡山市史(宗教・教育編)昭和43年版。p127では弘治年中、p225では文亀元年
備前軍記、金川町史では永禄五年
吉備温故 巻之二十七(群書集成(八)p13では、弘治年中(1555-1558)
岡山県大百科上p639金山寺、文亀年間(1501~1504)
 
 永禄5年あるいは弘治年中であれば寺社を焼いた松田将監は松田元輝であるが、文亀年間であれば松田元勝である。また文亀年間であれば、松田氏は統治の初期から寺社を焼き討ちしていたことになる。法華への過度の信仰により、家臣団及び領民が離反していった、という備前軍記ほかの記述から受けるものが、微妙にずれてくる。

 福岡合戦は文明15年11月に始まり、文明16年翌年1月25日福岡城落城、同2月4日元成自害である、とする資料がほとんどである。しかし、「蔗軒日録」からの文明17年3月の記事を引用している場合、ここだけ読むと混乱する表記をしている資料がある(実際管理人も混乱した)。最初から最後まで読み通すものではない資料では表記が難しい。読む方も注意が必要だ。

 街道を歩く前に経路を確認し、歩いた後周囲の歴史を調べる。かって大学図書館に勤務したとき、事項調査(参考調査とかレファレンスとかいう)を行うときはできるだけ複数の資料に当たる、ということが原則とされていた。趣味での郷土史学習でもそれは同じであるが、こんなに異同があるとは思わなかった。その辺の確認をするのに歩く時の数倍のエネルギーが必要だ。それでも調べ切れたとは思えない。それに頭が混乱して、別のまちがいを犯す。それで、できるだけ典拠を示し、後で確認できるようにした。

一応確認していますが、混乱しているためまだまちがいがあるかも知れません。今後追加修正の可能性があります。


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