玉島往来 1

1-1羽黒神社(玉島)~山陽自動車道

内容の精査をする前の暫定版です。情報の利用はご注意ください。
歩行日 平成27年9月22日(火)
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羽黒神社から山陽自動車道までの略図

羽黒神社 歴史の道調査報告第3集では、玉島往来は「備中玉島港の鎮守、羽黒神社の大鳥居下、通称宮ノ下を起点」とする(注1-1)。羽黒神社周辺には、道標など目印になるものは特にないようなので、神社東側の鳥居前を出発点とした(「羽黒神社」と彫られた石碑の上にはカラス天狗像が鎮座していた)。

 江戸時代の玉島は、現在羽黒神社がある羽黒山あるいは阿弥陀山と呼ばれる小高い丘を中心に、港町として発達した。一帯は備中松山藩の飛び地で、江戸時代初めの領主 水谷 ( みずのや )伊勢守勝隆が、前任地常陸国下館より羽黒宮を勧請したということである。(注2)。玉島新田を造り、玉島港を浚渫し、千石積みの船が入港できるようにしたのも水谷氏であった。さらに、高瀬通しも水谷氏の時代に通された(注1)(注2)(注3)。その水谷氏は3代で断絶した。
出発前に羽黒神社近くを見学して(記録は“よりみち”参照)、10時30分に出発。

鳥居から東に進むと、溜川を港橋で渡って北上してくる道と合流する。右角にある茶舗「樋口芳泉園」は、初代の玉島村庄屋大森氏の邸跡ということである(注1-2)。現在は珈琲も販売していた。
 右側に赤いポストがある道(左写真)が玉島往来であると判断する。溜川沿いを遡上するかたちになる。川にもっと近いところに細い道があった。戻ってそこも通ってみたが、我々が進んだ道でまちがいはないと判断した。
 歩き始めて、最初のやや広い横道の塀(ツタが覆っている)に「高瀬通し終点玉島船だまり跡」の説明板がある(中写真)。現在では道路の東を流れる溜川(右写真)が面影を残すだけであるが、羽黒神社から南の新町土手は北前船が入港する港町で、その北のこの辺りが運河高瀬通しの終点であったようだ(注2)
 塀の向こうに見える家は 豊島屋 ( てしまや )である。享保に綿・海産物の仲買業として創業した老舗(同社ホームページ)。現在はソース製造会社として地域ではかなり有名である。また向かいにある甘党の店やまとにはおはぎを買うお客が行列していた。並んで買ったが、あとで聞くと有名な店のようだ。

 溜川の西岸を北上する。両方に家がある。429号線を玉島支所前信号で渡る。そこから四、五百メートル進むと左手に玉島市民交流センターの建物が見えてくる(左写真)。公民館や武道館などの施設を集めたもので、かっての「玉島歴史民俗海洋資料館」は、現在玉島歴史民俗海洋資料室として、公民館の1階にある。玉島往来に関する新しい情報はなかったが、千石船の模型があった(中写真。撮影禁止の掲示などはなかった)。

 資料館の前に置いてあったという阿弥陀水門に使われていた樋石も持ってきているかも知れないと思って探したが分からなかった。元の図書館の場所に残して来たのだと推測した。施設の外(進入路の近く)に、明治時代のものと和船の錨が展示してあった(右写真は和船の四つ爪錨)。

 市民交流センター内の武道館を過ぎたところまで道の西側(進行方向左)を北から流れてきた用水が、道路下の暗渠を通って、東側(同右)の溜川へ注ぐ。通り過ぎて気づいたので、戻って逆向きに写真を撮った(左写真)。オートサービス滝沢の南側が、その出口(右写真)。

 このあとは、旧高瀬通しを左に見ながら進む。現在は用水としての機能しか持たない高瀬通しは狭いが、往事を想像しながら歩く。一ノ口水門から出口までのどこか1キロ前後を復元することはできないだろうか。

 国道2号線玉島バイパスの高架に出会う。高架右上にセントイン倉敷(ホテル)の建物が見える(左写真)。複雑な交差点であるが、直進して高架をくぐって、次の道路も斜めに横断して(中写真)、左右の道に比べやや細い道を、旧高瀬通しを左手に見ながら進む(右写真)。

 交通量も少なくゆったりと歩ける。この道(土手)が、江戸半ば以降領有(飛び地)した丹波亀山藩と池田藩の境界だったようだ(注1-3)。新幹線の高架までのあいだに、 ( はぜ )の大樹を2本確認できた。櫨は和ろうそくの原料になる「ろう」がとれる。松山藩が植栽したという(注1-3)
左写真の櫨には万治年間に植えられたことを推測させる説明の石があった。

 土手根踏切で山陽線を越え、新幹線の高架をくぐる(左写真)。直進して60号線を越える(右写真)。手前右側(新倉敷駅方向)角にサンクスがある。

 左側を用水が流れるやや細い道に入る。この用水がかっての高瀬通しかとも思われる。右手にタナベ内科医院の建物があり、少し進むと爪崎子供広場が左手にある。右手に地蔵尊(左写真)があり、そのあと道は右に曲がる。道の左側に用水とガードレール、右手に住宅が続く。用水越しに続く家のほとんどに柿の木があって実をつけていた。

 道なりに行くと左手に入る道に常夜燈がある(左写真)。玉島往来は直進。左側を通る道は鴨方往来である。用水を挟んで近づき、少し先で合流する。その先で、作陽学園から降りてきた60号線を横切る。南の方に新倉敷駅が見える。

 そのまま直進すると左手に長尾郵便局があり、旧高瀬通しの用水は道路の南側(右手)になる。さらに右側に歩道があり、安心して歩ける。
 用水上に大きな地蔵尊があり、その先に長尾交差点がある。正面はアサヒメッシュ産業(左写真)。道路の左側で幼稚園の建物工事をしていた。歴史の道調査報告の地図と長尾小学校の位置が微妙に異なるので同校のホームページで調べたら、平成17年に現在位置へ移動したようだ。幼稚園も同じように移動するのかも知れないと思ったがよく分からない。
 長尾交差点を左折。表装ばいこく、が角にある。長尾第一歩道橋(中写真)の下をくぐって、用水横に千手観音らしい小さな石仏などが鎮座する道を進む。

玉島往来はこの先、鴨方往来及び高瀬通しから別れて北上する。
 資料を読んでも具体的な分岐点が不明だったので、事前に近くの商店に電話したり、当日現地で尋ねて「そうどうざか」だと教えてもらった坂道を登った。長尾交差点から500メートル弱進んだところ(バス停からさらに東へ100メートルほど)の右手に文箭石油店がある。その少し手前左側(石油店の反対側)に軽四輪が通る程度の上り坂が北に向かう(左写真)。これが、玉島往来の騒動坂(注1-4)(注4)だと判断した。川上氏が初めてだったので、少し先の小野邸まで進んでもどってから登った。
 ほぼまっすぐ100メートルほど登ると道が二手に分かれていて、右角に上之町公会堂がある(左写真)。ゴミステーション手前には「上之町公会堂」と書かれた石柱が立っている。左に進む。
 2~3分歩くと、右手に「善昌寺参道入口」の道標がある(右写真)。

 坂の頂点を越えて下り始めると、右に比較的大きな地蔵尊(注5)が鎮座され、遠くに中国職業能力開発大学校が見える。地蔵尊の横の石柱には馬の絵らしいものが彫られ「万鹿毛」という文字が読めた。 鹿毛 ( かげ )とは鹿と同じ茶系統の毛色を持つ馬を云うらしい。
 東西にやや広い道があるが、玉島往来は、やや狭い真ん中の下る道を北に進む。道の両側にコンクリートの土留めがある(左写真)。
 中国職業能力開発大学校へ向かって進んでいく道を下る。両側は畑(右写真)。

 広い60号線にぶつかる。北に向かう玉島往来は、60号線と中国職業能力開発大学校で分断されている。60号線手前で左右に分かれる道の左をとり、交差点を渡ってセブン&イレブン前に出る。そこから東(右)に少し進み、そこから左折して、大学校に向かう。
 ぶつかった道の大学校前の小川のガードレールの切れ目に「善昌寺参道」と刻まれた小さな道標がある(左写真)。
 用水にかかる白い鉄パイプの橋が轟橋だと思う(中写真)。説明板などはなかったが、歴史の道調査報告の写真(p15)と見比べて判断した。
 橋を渡った左側に小さくてかわいらしい千手観音があった(右写真)。 長尾にも同じような大きさの千手観音があったが、あとで写真を見比べると表情が少しちがう。

 大学校前の道を西に進み、そこから右(北)へ回り込む。曲がり角に[第2玉島公園墓地 0.7Km]と書かれた標識がある。
 右手に大学校の運動場を見ながら坂を登る。山陽自動車道の高架の手前で右に折れて急な坂道を登る(左および中写真)。登り切ったところで左に曲がり、自動車道を橋で渡る(右写真)。

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寄り道

【出発前に】
出発前に周辺の歴史的な建物などを見学した。
JRの最寄り駅は新倉敷、かっての玉島駅である。南口には「童と良寛」像がある。良寛がこのように童と遊んだのは、越後に帰ってからではないか、と想像している。玉島円通寺にいた頃は、修行の明け暮れだったのではないか。
 我々は羽黒神社まで歩いたが、両備バスで行く方法もある。新倉敷駅から羽黒神社近くの玉島中央町行きは1時間に1~3本程度あるようだ。

羽黒神社を目指して歩いているときに見かけた「玉島驛道改修記念碑」と刻まれた立派な石碑。詳細は不明。


  溜川 ( ためがわ )にかかる「港橋」。比較的新しい橋で、その前は水門に併設された橋だったようだ。橋を渡らずに下流(南)に向かって川沿いを1分ほど歩くと、左側駐車場の前に「児島屋」跡の説明碑がある。児島屋は、司馬遼太郎の小説「峠」でも有名な越後長岡藩家老、河井継之助が泊ったとされる宿である。彼の紀行文「塵壺」によれば、安政6年9月18日に逗留していた松山(高梁)を立って小雨の中、玉島まで来ているようだ。羽黒山に関する記述もある。そして、19日夜に旅立ち丸亀から海路瀬戸内を通って九州小倉を通って長崎へ旅をしている
(注5)

橋にもどって渡る。その先道なりに5分ほど歩くと左側に、観光案内所があり、さらにその先左側に「柚木亭( 西爽亭 ( さいそうてい ))」への標識がある。細い路地を入ると柚木亭(西爽亭)がある。路地を曲がらずに少し先に進んで回り込む道もある。柚木家は、備中松山藩板倉家の諸役として仕えたということで、藩侯が玉島巡回の時に現在残っている建物に宿泊したそうだ。「西爽亭」という名称は管茶山がつけたということだ(以上亭前の説明板、亭内配布資料(注6)による)。亭内に幕末の「玉島事件」で割腹した 熊田恰 ( くまた あたか )注7の写真が飾ってあった。案内の人は、ここで割腹して、その返り血が天上についたと説明してくれた。
 備中は所領が複雑に別れていたが、玉島のこの辺は備中松山藩(板倉氏)の飛び地であり、最後まで幕府方だった。立場や状況は外面的には異なるが、神戸事件での滝善三郎のことを連想した。 また幕末には新島襄が宿泊したということだ(路地の入り口の説明板による)。
 同じ玉島、長尾の小野家は丹波亀山藩の御用達ということだったが(注1-4)、近距離(5キロくらい)のあいだ、さらに高瀬通しという運河に面して大名と結びついた豪商が複数いたことに気づかされた。また、小野家と頼山陽、柚木家と管茶山という豪商と文人の結びつきも興味深い。

 港橋の東北詰めにかっての水門の部品(門扉を上に上げるためのものらしい)があったが説明らしいものは何もなかった(左写真)。  明治9年に設置された玉島区裁判所跡、「清龍寺」の本殿があったところと書いてあるが、お寺の本殿が裁判所になったのだろうか?徳富蘆花が下宿した由(建物前の説明碑)(右写真)。

・羽黒神社本殿(中写真)に「子。牛。寅・・・」と円の周囲に書かれた方位板?(右写真)に気をとられていて、六角石灯籠を見るのを忘れた。また、本殿の周囲を一周したがウバメガシは見当たらなかった。

【寄り道2 情報を探しに】
・倉敷市立玉島図書館
少し歩いて、溜川を新橋で渡って倉敷市立玉島図書館へ行く。玉島往来は旧高瀬通し沿いを進み、鴨方往来と合流し、長尾で鴨方往来と高瀬通しから離れることになるのだが、その位置が正確に分からない。他にも歴史の道調査報告だけでは判別できないところがある。参考になる情報が欲しかった。「郷土の歴史探訪(玉島図書館講演会集)」渡辺義明著の一部をコピーしてもらう。
 
・歴史民俗海洋資料室
玉島歴史民俗海洋資料館は玉島市民交流センターに統合され、歴史民俗海洋資料室となっている(詳しいことが分からずに電話で問い合わせた)。


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(1)岡山県歴史の道調査報告第3集 高瀬通し 玉島往来 倉安川
岡山県教育委員会編集・発行、1992。
(1-1)p12他
(1-2)p11
(1-3)p10
(1-4)p15

(2)備中玉嶋湊物語、渡辺義明著。
倉敷市ホームページ、玉島アーカイブへのリンク 2015/09/28確認。

(3)新編 物語藩史 第九巻
児玉幸多[他]編、新人物往来社、1976。
pp97-123松山藩(朝森 要)

(4)岡山県歴史の道調査報告第3集、p15には「高瀬通しに沿う小野家の招月亭の北で玉島往来は左の坂を登る。右の土塀は小野家の有芳亭(以下略)」と記述されている。小野家の建物は分かるが、招月亭・有芳亭が分からなかった。また、記述通りだと小野家に隣接した道を北上するようにもとれるが、そこから善昌寺の西側に出るとすると歴史の道調査報告の地図に描かれた道と形がかなり異なるように思えた。
玉島今昔物語、[下]、陶之翁明義編、渡辺義明発行、1994、p267では「百々の谷からは長尾 ( うしろ )という集落を通り抜けて上之町で表通りに出る。」と記述している。後公民館があるが、その辺を通るのか、と考えると混乱は深まる。
 また前記調査報告に「坂を登ったところの公民館は、もとは朝祭大明神(以下略)」との記述にも悩まされた。長尾交差点の近くにある公民館を指しているのだろうか?(これは歩行後に、公会堂のまちがいだろうと判断した)。他の資料も参考にしたが、明確な分岐点は分からなかった。
 歩行前日に推測地点近くの店舗2軒に電話で尋ねると、玉島往来についてはご存じなかったが、そのうち1軒が教えてくれた道が、結果として我々が進んだ道だった。ただし、その時ははっきり分からず、当日現地で尋ねた2軒目の店舗(文箭石油店)の方が口にされた「そうどうざか」という言葉で判断ができた。
 *以上の経緯から、我々が歩いた道が絶対的に正しいとは言えないが、自分なりには正しいと思っている。

事前準備を含めて、羽黒神社の近くで1人、長尾地区で3人、陶地区で1人、計5人の地元の方に尋ねたが、どなたも「玉島往来」をご存じなかった。

  (5)長岡ネットミュージアム 塵壺、長岡市立中央図書館、
塵壺へのリンク 2015/09/28確認。

(6)西爽亭倉敷市柚木家住宅、[亭内の配布資料、発行に関する情報はない]。

(7)岡山県大百科事典上、山陽新聞社、1979、p847。
熊田恰:備中町山藩士。文政8(1825)~慶応4(1868)。鳥羽伏見の戦いのあと藩主板倉勝静の命により部下150余人とともに海路備中玉島に帰着したが、松山藩が朝敵となっていたため玉島で岡山藩兵に包囲された。国での謹慎が許されず、首級を要求された恰は、150余人の助命と藩の安泰をはかるためひとり自刃した。(抜粋)。
資料「西爽亭」にも記述があるが、こちらを引用した。なお、前記資料では「くまた あたか」、本事典では「くまだ あたか」となっている。


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