江戸時代の玉島は、現在羽黒神社がある羽黒山あるいは阿弥陀山と呼ばれる小高い丘を中心に、港町として発達した。一帯は備中松山藩の飛び地で、江戸時代初めの領主
出発前に羽黒神社近くを見学して(記録は“よりみち”参照)、10時30分に出発。
鳥居から東に進むと、溜川を港橋で渡って北上してくる道と合流する。右角にある茶舗「樋口芳泉園」は、初代の玉島村庄屋大森氏の邸跡ということである(注1-2)。現在は珈琲も販売していた。
右側に赤いポストがある道(左写真)が玉島往来であると判断する。溜川沿いを遡上するかたちになる。川にもっと近いところに細い道があった。戻ってそこも通ってみたが、我々が進んだ道でまちがいはないと判断した。
歩き始めて、最初のやや広い横道の塀(ツタが覆っている)に「高瀬通し終点玉島船だまり跡」の説明板がある(中写真)。現在では道路の東を流れる溜川(右写真)が面影を残すだけであるが、羽黒神社から南の新町土手は北前船が入港する港町で、その北のこの辺りが運河高瀬通しの終点であったようだ(注2)。
塀の向こうに見える家は
溜川の西岸を北上する。両方に家がある。429号線を玉島支所前信号で渡る。そこから四、五百メートル進むと左手に玉島市民交流センターの建物が見えてくる(左写真)。公民館や武道館などの施設を集めたもので、かっての「玉島歴史民俗海洋資料館」は、現在玉島歴史民俗海洋資料室として、公民館の1階にある。玉島往来に関する新しい情報はなかったが、千石船の模型があった(中写真。撮影禁止の掲示などはなかった)。
資料館の前に置いてあったという阿弥陀水門に使われていた樋石も持ってきているかも知れないと思って探したが分からなかった。元の図書館の場所に残して来たのだと推測した。施設の外(進入路の近く)に、明治時代のものと和船の錨が展示してあった(右写真は和船の四つ爪錨)。
市民交流センター内の武道館を過ぎたところまで道の西側(進行方向左)を北から流れてきた用水が、道路下の暗渠を通って、東側(同右)の溜川へ注ぐ。通り過ぎて気づいたので、戻って逆向きに写真を撮った(左写真)。オートサービス滝沢の南側が、その出口(右写真)。
このあとは、旧高瀬通しを左に見ながら進む。現在は用水としての機能しか持たない高瀬通しは狭いが、往事を想像しながら歩く。一ノ口水門から出口までのどこか1キロ前後を復元することはできないだろうか。
国道2号線玉島バイパスの高架に出会う。高架右上にセントイン倉敷(ホテル)の建物が見える(左写真)。複雑な交差点であるが、直進して高架をくぐって、次の道路も斜めに横断して(中写真)、左右の道に比べやや細い道を、旧高瀬通しを左手に見ながら進む(右写真)。
交通量も少なくゆったりと歩ける。この道(土手)が、江戸半ば以降領有(飛び地)した丹波亀山藩と池田藩の境界だったようだ(注1-3)。新幹線の高架までのあいだに、
左写真の櫨には万治年間に植えられたことを推測させる説明の石があった。
土手根踏切で山陽線を越え、新幹線の高架をくぐる(左写真)。直進して60号線を越える(右写真)。手前右側(新倉敷駅方向)角にサンクスがある。
左側を用水が流れるやや細い道に入る。この用水がかっての高瀬通しかとも思われる。右手にタナベ内科医院の建物があり、少し進むと爪崎子供広場が左手にある。右手に地蔵尊(左写真)があり、そのあと道は右に曲がる。道の左側に用水とガードレール、右手に住宅が続く。用水越しに続く家のほとんどに柿の木があって実をつけていた。
道なりに行くと左手に入る道に常夜燈がある(左写真)。玉島往来は直進。左側を通る道は鴨方往来である。用水を挟んで近づき、少し先で合流する。その先で、作陽学園から降りてきた60号線を横切る。南の方に新倉敷駅が見える。
そのまま直進すると左手に長尾郵便局があり、旧高瀬通しの用水は道路の南側(右手)になる。さらに右側に歩道があり、安心して歩ける。
用水上に大きな地蔵尊があり、その先に長尾交差点がある。正面はアサヒメッシュ産業(左写真)。道路の左側で幼稚園の建物工事をしていた。歴史の道調査報告の地図と長尾小学校の位置が微妙に異なるので同校のホームページで調べたら、平成17年に現在位置へ移動したようだ。幼稚園も同じように移動するのかも知れないと思ったがよく分からない。
長尾交差点を左折。表装ばいこく、が角にある。長尾第一歩道橋(中写真)の下をくぐって、用水横に千手観音らしい小さな石仏などが鎮座する道を進む。
玉島往来はこの先、鴨方往来及び高瀬通しから別れて北上する。
資料を読んでも具体的な分岐点が不明だったので、事前に近くの商店に電話したり、当日現地で尋ねて「そうどうざか」だと教えてもらった坂道を登った。長尾交差点から500メートル弱進んだところ(バス停からさらに東へ100メートルほど)の右手に文箭石油店がある。その少し手前左側(石油店の反対側)に軽四輪が通る程度の上り坂が北に向かう(左写真)。これが、玉島往来の騒動坂(注1-4)(注4)だと判断した。川上氏が初めてだったので、少し先の小野邸まで進んでもどってから登った。
ほぼまっすぐ100メートルほど登ると道が二手に分かれていて、右角に上之町公会堂がある(左写真)。ゴミステーション手前には「上之町公会堂」と書かれた石柱が立っている。左に進む。
2~3分歩くと、右手に「善昌寺参道入口」の道標がある(右写真)。
坂の頂点を越えて下り始めると、右に比較的大きな地蔵尊(注5)が鎮座され、遠くに中国職業能力開発大学校が見える。地蔵尊の横の石柱には馬の絵らしいものが彫られ「万鹿毛」という文字が読めた。
東西にやや広い道があるが、玉島往来は、やや狭い真ん中の下る道を北に進む。道の両側にコンクリートの土留めがある(左写真)。
中国職業能力開発大学校へ向かって進んでいく道を下る。両側は畑(右写真)。
広い60号線にぶつかる。北に向かう玉島往来は、60号線と中国職業能力開発大学校で分断されている。60号線手前で左右に分かれる道の左をとり、交差点を渡ってセブン&イレブン前に出る。そこから東(右)に少し進み、そこから左折して、大学校に向かう。
ぶつかった道の大学校前の小川のガードレールの切れ目に「善昌寺参道」と刻まれた小さな道標がある(左写真)。
用水にかかる白い鉄パイプの橋が轟橋だと思う(中写真)。説明板などはなかったが、歴史の道調査報告の写真(p15)と見比べて判断した。
橋を渡った左側に小さくてかわいらしい千手観音があった(右写真)。
長尾にも同じような大きさの千手観音があったが、あとで写真を見比べると表情が少しちがう。
大学校前の道を西に進み、そこから右(北)へ回り込む。曲がり角に[第2玉島公園墓地 0.7Km]と書かれた標識がある。
右手に大学校の運動場を見ながら坂を登る。山陽自動車道の高架の手前で右に折れて急な坂道を登る(左および中写真)。登り切ったところで左に曲がり、自動車道を橋で渡る(右写真)。
港橋の東北詰めにかっての水門の部品(門扉を上に上げるためのものらしい)があったが説明らしいものは何もなかった(左写真)。
明治9年に設置された玉島区裁判所跡、「清龍寺」の本殿があったところと書いてあるが、お寺の本殿が裁判所になったのだろうか?徳富蘆花が下宿した由(建物前の説明碑)(右写真)。
・羽黒神社本殿(中写真)に「子。牛。寅・・・」と円の周囲に書かれた方位板?(右写真)に気をとられていて、六角石灯籠を見るのを忘れた。また、本殿の周囲を一周したがウバメガシは見当たらなかった。
【寄り道2 情報を探しに】
・倉敷市立玉島図書館
少し歩いて、溜川を新橋で渡って倉敷市立玉島図書館へ行く。玉島往来は旧高瀬通し沿いを進み、鴨方往来と合流し、長尾で鴨方往来と高瀬通しから離れることになるのだが、その位置が正確に分からない。他にも歴史の道調査報告だけでは判別できないところがある。参考になる情報が欲しかった。「郷土の歴史探訪(玉島図書館講演会集)」渡辺義明著の一部をコピーしてもらう。
・歴史民俗海洋資料室
玉島歴史民俗海洋資料館は玉島市民交流センターに統合され、歴史民俗海洋資料室となっている(詳しいことが分からずに電話で問い合わせた)。
(2)備中玉嶋湊物語、渡辺義明著。
倉敷市ホームページ、玉島アーカイブへのリンク 2015/09/28確認。
(3)新編 物語藩史 第九巻
児玉幸多[他]編、新人物往来社、1976。
pp97-123松山藩(朝森 要)
(5)長岡ネットミュージアム 塵壺、長岡市立中央図書館、
塵壺へのリンク 2015/09/28確認。
(6)西爽亭倉敷市柚木家住宅、[亭内の配布資料、発行に関する情報はない]。
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