玉島往来 2

2 山陽自動車道~真備町箭田 486号線 -暫定版-

内容の精査をする前の暫定版です。情報の利用はご注意ください。
歩行日 平成27年9月22日(火)
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山陽自動車道から真備町箭田486号線までの略図

 山陽自動車道を北に渡ったあとは、畑の中を進む。道木 峠道 ( だわ )と呼ばれたそうだ。車輪が通るところだけ舗装した道を上っていく。ビニールハウスが右にある。少し行くと左眼下に墓地が見える。玉島第2公園墓地だろうと思う。雑木林を抜ける(左写真)。畑のあいだを過ぎて(中写真)下っていくと墓地からの舗装道路と交差する。交差した道のむこうに御堂がある(右写真)。
 直進だと思って地元の人に尋ねると、その道は「火葬場の方にいく」ということで、広い道(公園墓地から来た道)が穂井田へいく道だと云われた。また、御堂は「大師堂」だということだった。

 御堂を拝み、教えてもらった通り、公園墓地から来た道に戻って下る(左写真)。少し先に左に折れる道があった。廃物が山のようにつまれていて、分かりづらいが(中写真では廃物の陰になってる)、斜めに入る道があったようだ。相談の結果こちらが旧来の道ではないか、ということになった。廃物を避けて左折し(右写真)、その先を右折して下る。

郷土の歴史探訪(注1)の「穂井田地区略図」では玉島往来はグリーンピア瀬戸内(老人ホーム)の西側で農免道と交差し、中田方面へ進む。
 周囲を歩いてみた。グリーンピア瀬戸内の前から中田方面に進む道はあったが、玉島方面からまっすぐ続く道はなかった。また、歴史の道調査報告では中田を通るようになっていない。歴史の道調査報告が指示していると思われる順路をとったが、両者の違いの理由を判断する材料を持っていない。

 やや細い道を下っていくと農免道に出る。農免道を渡って北へ向かう道が見える(左写真)。これが玉島往来だと判断した。

 真谷川方面に行く前に 寒田古 ( さぶた )窯跡を見学するために、農免道を右折。(歴史の道調査報告の地図では「寒古窯跡」と記述されているが、「寒田古窯」が正しいと思われる)。少し進むと先ほど別れた公園墓地からの道が下ってきて農免道と合流する地点がある。その道を上りはじめると東側の雑木林の中に続く階段があり(中写真)、階段を登ると説明板と段差に穴があいた場所がある(右写真)。穴が窯の跡だろうと推測する。
 この寒田瓦窯跡は玉島 ( すえ )窯跡群の一つで、古墳時代の後半ごろ(5~6世紀)から奈良時代(8世紀後半ごろ)にかけて、主に須恵器・瓦などを作ったということである。その後は玉島八島の亀山焼きとして生産されたと云われる(注2-1)

 農免道をもどり、さきほどの北へ向かう道に入る。道なりに進み、カーブミラーのある分岐は左に進み寒田公会堂の前を通る。次の三叉路は右折れで(左写真)、真谷川の方へ向かう。
 信号のない交差点に出て、やや広い(片側一車線)道を越える(中写真)。用水が左側を流道を川に向かって進む。途中で分岐するが、真谷川に向かう道を進む。真谷川の土手道だが、狭い畦道。川の向こうに穂井田憩の家が見える(右写真)。その隣りには保育園。

 道の先にこんもりした木が見える。その下に石仏と常夜燈。常夜燈は文化七年の銘がある。もとはもっと東にあった由(注3)

郷土の歴史探訪(注1)の「穂井田地区略図」ではこの部分は、憩の家や保育園の北側の山裾(より高い位置)を通るようになっている。確認すると山裾に墓があり、その下を通る道があった。また、同じ方が書かれたと思われる「玉島今昔物語 下」で、同じように「真谷川の谷沿いをさけて、細道は山裾の小高いところを縫うようにして、谷の中ほどまでさかのぼる。」と書かれている。歴史の道調査報告に記載されている「文化七年の灯籠」が記載されていないのは後に砂防工事で移設されたからか(注3)

 真谷川を渡る位置を明確にできなかったので、地蔵尊などが鎮座している土手(畦道)を進み、最初の橋を渡った。それから左に曲がりながら山に向かって、札場の徳壽院の下で憩の家などの上を通ってきた「穂井田地区略図」の道と合流する。
 

その道を少しさかのぼってみたが、道の流れから云えば、「穂井田地区略図」の道の方がそれらしい気がする。この後も「郷土の歴史探訪(注1)および「玉島今昔物語」[下](注2)と歴史の道調査報告で数カ所異なる表記がある。
 *歴史の道調査報告6(p16)で「 荒木 ( あろうぎ )川の右岸に出る」とあるのは「真谷川の右岸」のまちがいだと思われる。荒木川はもう少し北にあり、穂井田小学校の北側を流れて、真谷川に流れ込む。

 合流点にある家の車庫らしい建物の角に小さな石碑があった。牛の浮き彫りがあり、万人講の文字が読めた。「まんにんこう」と読むらしい。インターネットで検索したコトバンクの「万人講」の説明に「(前略)農民は大日講,万人講などを結んで金銭を集め,それによって講員の耕牛を順次購入していく方式なども考えて実行していた。(後略)」とあった。
 穂井田小学校に向かって進む(左写真)。左手に荒神社がある(中写真)。穂井田小学校の体育館を右手に見ながら、 荒木 ( あろうぎ )川を渡る。札場の集落を進む。坂道の頂上に吉備四国霊場三十三番の太鼓の堂がある(右写真)。

 坂を下りていく。穂井田小学校の東側を北上して来たやや広い道と合流する右手に君が岩がある(左写真)。真谷川に架かる橋を渡って来た道とも合流する交差点である。
 元和二(1616)年、初代岡田藩主丹後守 伊東長実 ( いとうながつね )が初入国のとき、ここで休憩したということである。庄屋が殿様を背負ったという逸話などもある。(注2-2)
 前に回ると説明の石碑があり、道標がある(右写真)。岩に向かって左側の道標には「右 大谷今守道 左玉島」、電柱の根元の道標には「距玉島二里」とあり、共に旧県道ができた明治24年頃に立てられたもののようだ(注2-2)

歴史の道調査報告では、「君が岩から来たは、真谷川の左の山裾を通るが前後橋の少し北までは、現在の主要地方道倉敷ー美袋線の道路敷がそのまま玉島往来である」と書かれている。一方「岡田の殿様が歩いた道」7(注1)では、「古道は急カーブして君が岩の前から写真右端旧県道の横断標識を渡って民家のすぐ前を通り、谷川へ出る。谷川の土手道を伝い前後の集落へと延びる。」となっている。この表記の通り歩くと、真谷川沿いの土手道を歩くことになる。この違いの理由についても判断する材料を持っていない。

 合流したあと道なりに15分ほど進むと右手に枝分かれする道があり、自然石を積み上げた常夜燈が見える(左写真)。近づくと地神塔も隣りにある。
 常夜燈と地神塔を右に見て、左に曲がる。細い道が家のあいだを通った先で、前後の公会堂にぶつかる(右写真)。

 公会堂の前の道に出て右折。真谷川にかかる橋の手前で左折し、土手道に入る(左写真)。真谷川に沿って土手道を遡上。54号線を横断し、吉則方面を示す看板のある極楽寺橋の西岸の土手道を進む。土手道は全部で10分足らずだが、かなり深い草で道が覆われている区間もあった。ホッタテ地蔵は見当たらなかった。
 その後54号線と合流し、服部札場の信号交差点まで進む。この交差点を右に行き、遠田橋で小田川を渡る経路も明治にはできたようだ。我々は直進する。
右に曲がりながら小田川の土手に向かって上がっていく(中写真)。この先は宮田橋である(右写真)。玉島往来は宮田橋の下流で小田川を渡ったということである。「玉島今昔物語」では、遠田と箭田一里塚付近が川渡りの場所になっている。川幅45メートル水深0.9メートルということである(注2-3)
 渡河地点と推測される場所まで川の南岸を歩いて見たが特に何もなかったので、元にもどって橋を渡る(右写真)。左右の入口の柱(高欄親柱?)が竹の子の形をしている。

 宮田橋を渡ると正面に井原鉄道の高架が見える。そちらに進まず、橋を渡り終えるとすぐに右折する(左写真)。小田川の土手を東に進み、渡河地点まで歩く。迂回したわけである。
 5分ほど歩くと、北(左)側に降りる道がある(中写真)。水田の中を東に向かって進む。途中で、荒神社への分岐などがあるが、そちらに進まず、岡田藩藩老 守屋勘兵衛の墓があるところまで川の並行して(途中折れ曲がるところあり)進む。四つ角の少し前右手の建物の南側に看板と墓がある。この地に埋葬されている守屋勘兵衛は守屋重行で慶安2(1649)年に生れ、享保15(1730)年に亡くなっているようだ。土木巧者で百姓の出ながら中小姓にまで取立てられている。(注4)

 その先の四つ角(右写真)を左折する。右側の青い屋根の家が目印になる。
曲がった先に井原鉄道の高架が見える(右写真)。そのすぐ先が486号線。右に曲がれば吉備真備駅がある。

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(1)郷土の歴史探訪、渡辺義明、玉島図書館講演会資料。倉敷市立玉島図書館所蔵。玉島往来歩きの途中で、寄り道して郷土資料コーナーで閲覧し、複写依頼をした。ページ数、奥付などがないのと、時間の関係で問い合わせなかったので詳細不明。
「君が岩」の道標は同資料の「岡田の殿様が歩いた道 8」からの引用。
(2)玉島今昔物語[下]、陶之翁明義編、渡辺義明発行、1994
(2-1)p180-181,215  なお鴨方往来を歩いたとき神前大明神近辺で「倉敷市指定史跡 亀山焼窯址」という木柱を見た。
(本記録 鴨方往来5-2)
(2-2)p241-244 君が岩物語
(2-3)p261 往来小道と旅 小田川を渡る

(3)岡山県歴史の道調査報告第3集 高瀬通し 玉島往来 倉安川
岡山県教育委員会編集・発行、1992。
(3-1)p16

(4)説明板、真備町教育委員会
 「守屋勘兵衛は名を重行、通称勘兵衛と称し慶安2年(1649)八田村の農家に生れたが藩主より土木技術の才能を認められ、元禄13年(1700)領内方及び普請方を仰せつけられて、美濃国の堤普請に派遣された。宝永元年(1704)藩主長救は、水害の度重なる小田川の大改修を勘兵衛に命じ、彼は小田川河身の変更と堤防新設の大計画を立て(後略)」とある。また、新本騒動(新本義民騒動:享保2(1717)年備中国岡田藩下にあった新本村(現総社市新本)の農民たちが共有山の奪還を目ざして起こした百姓一揆。[岡山県第百科 上、山陽新聞社、1980。による])の解決にも尽力したことが書いてある。
 「岡山県第百科事典 下」にも「守屋勘兵衛」が記載されているが、生没年から見て子か孫であると思われる。代々土木技術者(特に河川工事)の家系のようだ。

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