日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書16

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日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書の16ページめ

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*** 解読文 ***

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今般御謹慎御伺被成置候間、諸事
物静可致候、就右明十七日為伺
御機嫌左之通
殿様諸頭登
城御帳付、尤
御隠居様二ノ丸出来之面々ハ
御同所へ可申上候
組付支配ハ明日明後日両日之内頭之宅へ
可罷出事
嶺泉院様諸頭於
御城殺生御張紙之間
大御所様御附之御留守居へ可申
上尤
御前様御住居出来之面々者
御同所へ可罷出

二月十九日[注①]
一 御趣意左之通被仰出
先般帯刀神戸通行之節、外国人と
行縺之儀有之、終ニ及砲戦候ニ付テは
朝廷へ御引請、御所置被為在候処
其末別紙之通


【注①】ここから、二十三頁『一 右夫々組支配へも申聞候様、小仕置より頭に被申移』までは、二月十六日に出された惣触に続いて藩内に出された通達である。
 前段は、朝廷の命令を受け入れたことの説明である。藩としての考えを示し、岩倉具視および太政官からの通達類を別紙として記載して、岡山藩を取り巻く政治情勢を知らせ、動揺しないように指示している。
 なお、別紙の通達の日付は書かれていないが、復古記および大日本外交文書を参考にすると三通とも二月二日および三日に出されている。
 東久世が京都に引揚げた(一月二十四日)後、伊達宗政が下向してくるまでの期間、事態の進展がなく、英国公使パークスが怒り、折衝に当たっていた外国事務掛を威嚇した。五代才助は伊達宗城や東久世通禧の動きを促すよう伊藤に要請している(二月二日。大日本外交文書第一巻第一冊一二六ページ三〇一)。これらの動きのなかで岩倉は処罰の対象者を早急に出すように硬軟両様の圧力をかけたのではないかと推測する。岡山藩はこれを受けて処断を受け入れることを回答する。ただし、回答書は本文書には転記されていない。 次の解読文へ

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*** 口語文 ***

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この度(殿様が)謹慎の伺いをされているので、何事も物静かにすること。就いては、明日十七日に行う御機嫌伺いは次の通り
殿様、御隠居さま
それぞれの頭は登城し、記帳する。
ただし、二ノ丸に出る者は、その場所へ申上げること。
一 組付支配は明日、明後日の両日のうち、
頭の屋敷へ参上すること。
嶺泉院様、大御前様、御前様
それぞれの頭はお城の殺生御張紙之間お付きの
御留守居へ申上げること。ただし、御住居へ出る者は、
その場へ参上すること。

  [〇岡山藩内の通達]
二月十九日
一 概要を次のように通達された
 先に帯刀が神戸を通行した際、外国人と争いになり、ついに銃撃戦となったことについては朝廷がお引受け、処置されることとなった。
 結果は別紙の通りに


【人物】池田慶政
【補注】御隠居様:岡山藩第十代藩主池田慶政はこの当時隠居していた。
 嶺泉院様、大御前様、御前様:藩主家の夫人。嶺泉院は岡山藩第 九代藩主池田斉敏夫人。以下は推測であるが、大御前様は、十代 藩主慶政夫人、御前様は、当主茂政夫人と思われる。(藩主の代数は、岡山県大百科の記述を基本とした。=池田忠継が初代)
 殺生御張紙之間: 史跡岡山城保存管理計画(岡山市教育委員会文化課編、岡山市教育委員会、平成五年刊)所収の「岡山城誌」(木畑道夫草稿)によれば、『張紙之間』が本丸にある。ここのことか。 次の口語文へ

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