慶応四年神戸事件を考える

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Ⅸ.処 断

1.二月九日(陽暦3月2日)

(4)切腹

 永福寺に、五代才助が来て、今まで瀧の助命交渉をしていたがうまくいかなかったことを報告する。当人は伊達宗城への報告のために去る。そして、外国側検証人と伊藤俊介が到着する。資料によって到着時間は若干異なるが、おおよそ午後十時前後である。(『兵庫一件始末書上』)

 七人の外国側検証人(※1)が休憩のための控室に入ってくる。

 その一人である、イギリス領事館二等書記官のミットフォードは次のように記す。(※2

 儀式はごく内輪に行われることになっていたはずだが、寺の正面の入り口に並んでいた群衆は、皆がこれに少なからぬ関心を持っていることを示していた。大きな篝火(かがりび)の周りにおおぜいの兵士が集まっていたが、その明滅する光が、寺の深い軒先と切り妻の端をゆらゆらと、かすかに照らしていた。
 我々は内部の一室に案内され、そこで儀式の準備ができるまで待つことになった。隣りの部屋には日本の高官が控えていた。かなりの間を置いて、それはその場を支配していた静けさのために倍もの長さに感じられたが、外国事務局の伊藤俊輔がやって来て、我々の名前を書き留め、日本側からは七人の検使(※3)が陪席すると伝えた。彼ともう一人の役人が天皇の代理として、薩摩藩から二人、長州藩から二人、備前侯の代理として一人、合わせて七人となるが、おそらく外国人の立会人と同数にしようとしたのだろう。伊藤俊輔は、我々に罪人に何か尋ねることはないかと聞いたが、一同は何もないと答えた。
 それから、かなり待たされた後で、日本の検使の後に続いて儀式の行われる寺の本堂に案内された。それは印象的な情景だった。広間の高い天井は黒っぽい木の柱で支えられていた。天井からは仏教寺院に特有の金色に輝いた大きな灯籠や飾り付けが垂れ下がっていた。高い祭壇の前の床は、ほかより三、四センチ高くなっていて、奇麗な白い畳が敷いてあり、その上に赤い毛氈(もうせん)が広げてあった。整然と間隔をおいて立てられた燭台から、ほの暗い神秘的な光が、これから行われようとすることがようやく見えるくらいの明るさで照らしていた。日本側の七人の検使は、高座の左側に席を占め、七人の外国人は右側に並んだ。(『英国外交官の見た明治維新』頁128―129)

 検証人が着座して、間もなく青い裃に改めた(※4)瀧善三郎が佐藤佐源次とともに出て来た(※5)。日置家家臣の付き添いも続いた。
 瀧善三郎は、日本側検証人、外国側検証人の両方に会釈して、直ちに仏前中央に着座した。それから、外国人に向かって、大声で言った。(※6

 「去る十一日、神戸通行の節、外国人が無法の行為に及んだので、やむを得ず、武器を持って攻撃し、その時、そのままの勢いで発砲を号令した者は私である。その結果、このたび、王政復古により政治向きが一新され、宇内の公法をもって裁かれることになり、割腹を仰せ付けられた。すなわち、ここに割腹し、謝罪する。とくとご検証いただきたい。」(※7

▽資料・兵庫一件始末書上[八]
段申聞候、同人者直ニ引取申候、猶無程伊藤俊介
外国人同道ニ而罷越候、時既ニ二更、暫時休息致し
旧字より外国人本堂ニ出座、日本検証人引続き
出座、無間も本人改服左源治同道帯刀殿
家来附添罷出ル、本人一応双方江会釈直ニ
座ニ付、大声ニ而各国人江向ひ申陳ふ

去ル十一日神戸通行之節、外異旧字より無法之所
業ニ及候故、無拠加兵刃、即其挙ニ乗し発
砲号令致候者拙者也、然ル処今般御復古
御一新之折柄、宇内之公法を以御所置被
遊割腹被仰付候ニ付、則割腹
致謝罪候間、篤与御検証可被下候[注一]
旧字より篠岡八助白木三宝巻脇指載せ本人前ニ
置、本人座を正し両肌ぬぎ脇指を取り戴き
介借人宮崎慎之輔刀を抜き座を正す、本人
腹撫脱し、左脇旧字より右脇江切留両手を付首を差
延す、介借人直ニ打落す、刀を拭ひ双方へ挨拶致す、控
座ニ付、角田荘吉三宝持本人前ニ至り脇差を取
載す、本座ニ帰る、外国掛伊藤俊介、中堀惣左衛門前ニ来
外国人為引取候段挨拶有之、直ニ外国人退出す
権次郎当席江罷出、日本検証之人ニ向ひ御検証之通
無滞本人落命ニ及候間、御引取可被下苦労之演説仕、就
而跡取片付之義者兼而願置候通り帯刀家来ニ為仕
候段相断候処、勝手次第取斗可申候、御見事感心仕候直ニ

▲たたむ
【永福寺本堂図(切腹の場)】
永福寺本堂図
 参照した『日置帯刀摂州神戸通行之節 外国人江発砲始末書類』の図に日本側検証人の「宇和島侯御使」が記載されていない。

 挨拶が終わると、篠岡八助が白木の三宝に脇差を載せて、瀧の前に置いた。瀧は姿勢を改めて、上半身の服を脱いで、両肌を現した。そして、袖を足の下に折り込み、倒れないようにした。
 脇差を取り頂いた。介錯人宮崎慎之輔が刀を抜いて控えた。瀧が腹を撫でて臍の下まで出し、左から右に切った。それから、両手を前に突いて首を差し伸ばした。宮崎の刀が一閃し、首が落ちた。体が前に倒れ、噴き出す血で周囲は真っ赤に染まった。
 宮崎は刀を拭い、双方に頭を下げて控えの座に戻った。
 角田荘吉が三宝を持って倒れた瀧の前に進み、脇差を取り載せ、元の席に戻った。
 外国掛・伊藤俊介と中堀惣左衛門が外国人検証人の前に出て、挨拶をした。外国人は直ちに退席した。
 澤井権次郎がその場に罷り出、日本側検証人に向かって「御検証の通り、滞りなく本人は落命致しました。お引き取り下さい。」と言った(※8)。(ここまでは『兵庫一件始末書上』をもとに『英国外交官の見た幕末維新』頁129―132、『遠い崖』6、頁292―294を参照して記述した)
 本藩目付・中堀惣左衛門が付き添いなど日置家家臣に「無事終了した。屍体は勝手に始末せよ。」と言ったので、棺に納めた。流血が多く、拭いてもなかなかきれいにできず、駕籠の布団の綿迄取り出して拭いた。それら汚れものを寺院の裏手墓地に埋めた。
 暁三時頃、屍体を擁して永福寺を出立。十日午前七時頃森村に戻った。「瀧善三郎自裁之記」では、兄源六郎が村外れに葬具を用意して待っていたとする。(合掌)
 (この項は『英国外交官の見た明治維新』、『白い崖』6、『神戸一件始末書上』、「瀧善三郎自裁之記」などの記述をサイト管理人が取捨選択して作成した。)

瀧が切腹したことは、午後十一時、伊藤俊介によって伊達宗城に報告された。(『伊達公御日記』頁42)
 『御留日記』には、この時、作った追悼の短歌を記している。(頁46)

第十時過割腹、不堪憫惜存候、一首詠候
瀧善三郎臨死を思て
 ひとすしに思いひきりても瀧のいとの千筋もゝすしそふなみた哉

(5)謝罪文の作成と修正(二月九日~二月十一日)

 伊達宗城から各国公使に対する詫状が出されたが、英国公使パークスから要望があって、翌日出すことになった。(一 五代寺島来政府ヨリ詫書今日差出候処英公使所望有之候故少々直ス明日遣候処ニ決ス『伊達宗城公御日記』二月九日、頁41―42)。

 二月十日に修正した謝罪文を出したが、それに対して十一日午前中に再度修正要求が入り(詫書ニ帯刀と瀧善三郎の名元無之末文モ心付有之候故認替候事」『伊達宗城公御日記』二月十一日、頁50)、さらに修正して午後二時に配布している(同頁53)。
 謝罪文の作成について『御留日記』の九日に記述はなく、十日に「六ヶ国公使へ詫書差出ス」とあり、十一日に訂正し、同日二時に配布したとする。
 この謝罪文は『大日本外交文書』『復古記』では九日に掲載されており、文中の日付も「二月九日」であるが、『伊達宗城公御日記』で修正の経緯を追うと、掲載されているものは、最終版である。
 この文書については、最終版が配布された十一日に記す。

 『御留日記』では、「中島作太郎が来て、岡山藩が(東征軍の)先鋒を命ぜられたので、今夜の処置が終わったら、神戸の守りを引き取りたい、また(岡山藩)京都留守居も兵庫に控えておくべきか、出立しても良いかと、それぞれ問い合わせて来たが、構わないと答えた」とある(頁45―46)。
 岡山藩が東征軍の先鋒を申し付けられ、西宮警衛隊を上京させることは、『史料草案』巻二十二では二月八日に記載されている。これが中島を経由して、九日に伝えられたと考えられる。また留守居の澤井が兵庫を離れることについては、彼の記した『兵庫一件始末書上』では、十日にそのことを伊達に尋ねたとある。
 いずれもどの日付が正しいか、具体的な判定資料を欠くが西宮警衛隊の上京に関しては『史料草案』、留守居の上京に関しては『兵庫一件始末書上』に従った。

 なお、二月九日、新政府は徳川追討の東征大総督府を設置し、先に設置されていた東海道・東山道・北陸道の鎮撫使を改めて、先鋒総督兼鎮撫使とした。(『幕末維新年表』頁198)


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補注

※1.外国側検証人

  1. クリートン:Capt. Creighton。アメリカ軍艦オネイダ号艦長。
  2. ミットホールトspan>:Algernon Bertram Mitford。イギリス公使館二等書記官。
  3. サトウ:Sir Ernest Mason Satow。イギリス公使館日本語書記官。
  4. ハンテルフヲー:Alphones van der Voo。仏蘭西公使館通訳官。
  5. クレーントジース:L.T.Kleintjes。オランダ公使館第一書記官。
  6. サベース:Pietro Savio。サヴィオ。正式な外交官ではなかったが、日本語に堪能で一時期非公式にイタリアの外交関係の仕事に係わった。(参考文献によれば「書記官として本国政府に無断で雇用」)。
  7. ハール:Hare。プロシア。詳細不明。

※2.ミッドフォードの記述
 瀧の切腹を描いた複数の資料のうち、ミッドフォードの回顧録『英国外交官の見た明治維新』(永岡祥三訳)のもの(原著は"Tales of Old Japan"中の記述)が情景が分かりやすい。ただし、「介錯は滝の弟子である」とか「切腹に先立って発砲した者を集めて、自分の罪を正当なものだと認め、今後外国人を襲わないように警告した」などといった伝聞や憶測をそのまま記述している部分がある。
 介錯の宮崎慎之輔が瀧の弟子であるという記述はブラントの回顧録(『ドイツ公使の見た明治維新』、頁147)にも出てくるが、見た範囲の日本側の記録およびサトウの回顧録には、そういった記述はない。
 瀧が切腹に先立って周囲の者に「外国人を襲わないように」とか「外国人に怨みを持つな」という類いのことを言ったという記述はパークスによるスタンレー外相への報告とされるものにも出てくる(『遠い崖』6、頁295)。
 しかし、兵庫一件始末書上、瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写 同人遺書并[並]辞世之歌だけでなく、後になってまとめられたとされる「瀧善三郎自裁之記」など日本側の記録にはない。現在確認できている資料で見る範囲では、瀧がそういったことを周囲に言う状況にはなかったように思える。
 この事件が持つ政治的な色彩がこのような不一致の理由のひとつであるように思える。日本側の記録のなかでも、瀧の辞世の歌のような混乱が見られる。
 なお、"Tales of Old Japan"の切腹に関する記述が、新渡戸稲造の"Bushido: The soul of Japan"に引用されている。

※3.日本側の七人の検使

  1. 伊藤俊介:後の伊藤博文。参与・外国事務掛。
  2. 中嶋作太郎:土佐藩士・海援隊士。明治元年戊辰戦争で東征。
  3. 新納軍八:鹿児島県士族。戊辰戦争に城下七番隊長として出征。
  4. 小倉壮九郎:鹿児島県士族。東郷平八郎の兄。
  5. 深栖多門:萩藩士。吉田松陰兵学の門下。<
  6. 祖式金八郎:萩藩祖式縫殿嫡子。神戸事件のあと、慶応四年閏三月総督府内参謀となり、二カ月で罷免される。
  7. 宇和島侯御使:宇和島藩士須藤但馬か。伊達宗城の股肱の臣

※4.青い裃に改めた
 サトウの日記には「滝は青色の麻の『裃(かみしも)』を身に着け、『介錯』はみな『陣羽織』を着ていた」とする(『白い崖』6、頁292。『英国外交官の見た明治維新』では「金の刺繍で縁取りした陣羽織」とある、頁129)。青色は浅葱色(あさぎいろ)ではなかったかと思う。

※5.瀧善三郎が佐藤佐源次とともに出て来た
 この時の瀧をミットフォードは「年は三十二歳で、背が高く、がっしりとしており、堂々とした態度」と記す。(『英国外交官の見た明治維新』頁129)

※6.外国人に向かって、大声で言った
 『英国外交官の見た明治維新』『白い崖』6、「瀧善三郎自裁之記」などでは、先に脇差を受け取り、手前に置いたあと、訴えを始める。いっぽう、『兵庫一件始末書上』では、先に訴えたあと、脇差を受け取る。『兵庫一件始末書上』が事件直後の報告書であり、著者である澤井権兵衛の日記でも同様の手順となっている。これらのことから後者の記述に従った。前者の手順の可能性も否定できない。

※7.切腹に際しての瀧の発言
 切腹に際し、瀧善三郎が参加者に向かって発言した内容は、資料によって若干異なる。
 ここでは、『兵庫一件始末書上』によった。

※8.澤井権次郎の挨拶
 『兵庫一件始末書上』では「御引取可被下苦労之演説仕」である。「苦労」を挨拶の一部と考え、「御苦労さまです」と言ったとするか、「苦心の挨拶」をしたか検討したが結論がでなかった。