慶応四年神戸事件を考える


Ⅴ.交渉が始まるまでのそれぞれの動き

1.一月十二日(陽暦2月5日)

(1)正親町公董が東久世通禧に国書を付託する。

 一月十二日、新政府は参与兼外国事務掛・東久世通禧に、「大政復古を外国に報する国書」を付託し、神戸に駐在中の外国公使に布告することを命じる。
 この動きは、神戸での衝突の解決とは別の動きであった可能性があるが、結果として東久世が神戸事件に関する最初の交渉を担うこととなったのでここに記す。(※1

(2)神戸での非公式の折衝

日本人二人が、サトウに会いに来る

 サトウの記録には薩摩藩の吉井幸輔と寺島陶蔵(宗則)がサトウを尋ねてきたとある。しかし、『竹亭回顧録』の記述では、長州から今野十郎(原文のママ。片野十郎か)、薩摩から吉井幸輔を派遣し、サトウの意見を探らせたとある。
 どちらの記述が正しいか、明確にできていないが、彼らと短時間面談した英公使パークスは「ただちに京都へ使いをやって、諸外国の代表への通告を持参した御門の使者を当地へ来させるようにしたほうがよい」と忠告した(※2)。サトウはこの後、薩摩藩の兵庫本陣小豆屋へ赴き、鳥羽伏見の戦いの状況について聞いた。(『遠い崖』6、頁199)

 サトウは「行列を断つたは仏国の水夫で全く日本の事情を知らぬものであるに之を砲撃して負傷させ剰さへ外国の居留地へ発砲するはいかゝの訳か日本政府は外国を敵にする心なるや」と恫喝する。それに対し、二人は弁解に追われたようだ。また、パークスの発言は書かれていない。(『竹亭回顧録 維新前後』頁242―243)

 『伊藤公直話』では、伊藤博文(この頃俊介)が、衝突の翌日たまたま神戸に来て、衝突のことを聞いて、パークスに会って話をしたという(頁201)。
 サトウの記述には衝突前後に伊藤の名前が出てこず、『伊藤公直話』の記述も伊藤の役割を過大に語るものである。ただ、「今度の始末に付いては、日本人挙げて悉く攘夷論であるものと認めなければならない」というパークスのものとする言葉は興味深く、今後別の資料を当たりたい。

関連事項  岡山藩士二名、下参与申し付けられる。「土倉修理助、山田市郎左衛門、下参与被仰付候」(『史料草案』巻二十一、明治元年正月十二日)

2.一月十三日(陽暦2月6日)

(1)事件の勃発が岡山藩京都留守居から新政府に報告される。

 一月十二日、京都に到着した日置帯刀は、岡山藩京都藩邸に報告したと思われる。それを受けた留守居が翌十三日に後藤象二郎に報告し、後藤は伊達宗城に報告する。(『伊達宗城在京日記』頁665)。その指示を受けて、岡山藩は議政所に届け出る。
 後者の報告が、「一 同月十三日参与御役所江罷出一昨十一日之始末言上仕候」(『御奉公書上 日置英彦』八)という記述であると推定。「一難事」の発生に、新政府は対応へ動き出した。(『伊達宗城在京日記』頁665―666。『御奉公書上 日置英彦』八、同月十三日)
 帯刀は参与屋敷で、伊達宗城と三條公(三條実美か)に事態を報告し、捕虜となった下田村民が持ち返らされた布告文の写を提出した。
 伊達は後藤の報告で事件の勃発について知り、日置と対面した時は「公法に処断」を決めていたようだ。帯刀にそれで良いかと質すと、帯刀は当然ながら藩内で相談したいと回答した(『伊達宗城在京日記』頁666)。新政府の方針を決める会議の状況などを考えれば伊達宗城にとって「万国公法」に従うということは、外国公使団の要求を丸々受け入れるということであった。

▽資料・伊達宗城在京日記/復古記

(ⅰ)『伊達宗城在京日記』頁六六五
 象次郎報告、只今備前留守居参、同藩家老某兵庫表通行与(と) 英人行違旧字より(より) 開戦端終に砲戦ニ相及候、赴[ママ](趣カ) ニ付、後刻議政所へ出候様、申聞置候由、一難事を生申候

(ⅲ)【復古記 巻十九、明治元年一月十四日(第一冊、頁五五八)
〇池田茂政、日置忠尚、神戸駅争闘ノ事ヲ上申ス。
 此度、西之宮御警衛被仰付候ニ付、人数出張為致候処、去ル十一日、家老日置帯刀同勢召連、摂州神戸町通行之砌、外国人ヨリ理不尽之所業有之候処ヨリ、互ニ及発砲候段申越候、委細之儀ハ帯刀ヨリ可申上候得共、右之趣、不取敢御届申上候、以上。
正月十四日備前少将
[右ニ付、京都詰合之者共太政官代御役員へ此度之事件ニ付、外国人ト応接之義、於当藩取計可申哉之段、奉伺候処、此度ハ於政[朝カ]廷御取扱相成候間、此旨御受致候哉御尋ニ付、早速国元へ申遣候]

『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』及び『吉備群書集成』(五)、「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末一巻」岡山県庁編の第一部(明治五年に岡山県から外務省へ提出したものの控)では、茂政の上申書に続いて、[ ]の追記がある。復古記に収録された茂政の上申書にはないが補足する。

(ⅳ)『伊達宗城在京日記』頁六六六

〇備前家老日置帯刀兵士英との一件三条殿と一席ニ承る、結曲(局)ハ万国公法にて御栽(裁)許相成ても宜しくヤと相尋候処、尚当邸同役と申談度よし申出候事(これに続けて、捕虜・民之助が持ち返らされた布告についての記述があるが省略)。
 (補記を( )で表記するなど、一部表記を改めた。なお[ ]引用資料の補記。)

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(2)東久世通禧、大坂から兵庫に向かう。

 一月十三日「兵庫へ出発、芸州持船飛竜丸小蒸気乗込、潮不順川口一泊」(『東久世通禧日記』頁521)。
 随行者は、岩下佐治右衛門、寺島陶蔵、伊藤俊輔、陸奥陽之助など(『竹亭回顧録 維新前後』頁243)。

(3)池田伊勢御影村、常順寺に着陣

 「一 同十三日摂州御影村常順寺へ一先着陣仕(以下略)」(『御奉公之品書上 池田貞彦』三)

(5)謎の衝突

 夜、外国軍のバリケードに武装した日本人が接近、警備していた兵員と争いになり、兵士二人が負傷した(ファルケンバーグの報告。『神戸事件』頁122)。この件について、相手がわからなかったためか、後の折衝で抗議していないようだ。

3.一月十四日(陽暦2月7日)

(1)東久世通禧、一月十四日十時、兵庫到着。本陣に宿泊

 「十四日 七時揚錨、十時兵庫着、本陣止宿」(『東久世通禧日記』頁521)。 「明治元年正月十四日、東久世前少将命ヲ奉シテ兵庫ニ来リ、神明町旧本陣に止宿ス、参与岩下佐治衛門(方平)・徴士寺嶋陶蔵(宗則)・伊藤俊助(博文)等之ニ従フ」
(『兵庫県史』史料編幕末維新1、頁571)

 岡久渭城は、「北風文書」によるとして、兵庫津の豪商北風家に宿泊したとする(『明治維新神戸事件』頁88)。北風家の拠点は、北浜鍛冶屋町にあった。
二つの記述は異なるが、『北風文書』を確認できていないので、並記する。

 どの時点か不明だが、事前に外国側に会談の申し入れをしていた(『ドイツ公使の見た明治維新』頁138)。

(2)岡山藩主・池田茂政、神戸の事件について新政府に上申する

『復古記』巻十九、明治元年正月十四日(頁558)。後になって藩主名で上申するとき、日付をこの日にした可能性もあるが、前記の状況や内容などから考えて岡山藩の京都藩邸の担当者(留守居)によるものの可能性が高い。
 打出村から、山崎喜兵衛が早追いで岡山に帰着したのが十四日の早暁、津田弘道が京都から同じく早追いでことを知らせたのが、十七日早朝である。仮に、池田伊勢の一隊が大蔵谷から急を知らせても、報告がこの日に間に合うとは思えない。

(3)伊達宗城と転法輪(三条実美か)、神戸での衝突の処置について会談

 伊達と三条は万国公法での処理以外ないと思っていたようだが、備前藩は元来攘夷を主張しており、外国の事情に疎く、西洋の法を用いるとなると、人気(岡山藩などの感情)においてもどうであろうか、などを検討している。また、外国側に提示する布告の国内での公開方についても話題にしている。(『伊達宗城在京日記』頁667―669)

(4)日置帯刀、伊達宗城の宿舎に参上

宗城から再度「公法での処理」を言われる。衝突の状況について報告したであろう日置の言上に耳を傾けた気配はなく、弁解が多く長談義で迷惑だと日記に書く。(訪問については、『御奉公書上 日置英彦』八にもある)。

▽資料・伊達宗城在京日記

『伊達宗城在京日記』頁六六七―六六九)

(ⅱ)〇八過転法輪為御用談来
 △備与英之御処置、万国公法ヲ以被決候外無之、乍然備前等は、元来攘夷主張、彼の情実不弁故、西洋の法ヲ専ら被用候様存候而ハ人気のおり合モ如何、其外議論ヲ可生、なにさま当然公平の條理ヲ以、被決候ト申所ニ御注目相成度候故、宮始へも御話呉候様との事、尤如御心付公法と申候からハ、的当の
[ママ]御座候、尤耳馴ぬ人〳〵ハ疑惑可仕、洋外諸国の法と申事ハ、主張して唱候にも不及畏候旨申置候(以下略)

(ⅲ) 〇備日置帯刀参同席ニ而逢候
△昨日御噂有之候、万国公法ヲ以御処置の処ハ、奉畏候得共、是迄の国情ヲ以考候而ハ、一応備前守へ申聞候故(上カ)御請申上度、其訳ハ償金差出候義、二、三万の事ナラ如何様とも可仕候得共、莫大之義にてハ国力ニ不及、且天朝御為ニ尽力御守抔仕候覚悟の処夫モ疲弊シテハ御免奉願候外無之、左候而ハ外国の事件ニ付き朝廷勤不出来るニ至国内人気動揺仕備前守方ニ而応接仕度と相願可申、赤土ト相成とも不苦等押移り可申ヤ上京の私共ニ而奉畏候而モ右様ニ至候時ハ如何とも仕方無御坐候、重々畏入候義ニ付一応申遣度と申出、尤四日目にハ御請可申上との事三条にて御届相成候
(中略。)乍然何分詰合にて御請不出来候巾ハヽ応接之時ニ至遅延不都合無之様早々可取計候、兎角十日の弁解を専ら申、無益長談、迷惑也

いずれも句読点を入れるなど、体裁を少し改めた。

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▼管見1
 瀧善三郎の切腹の日を岡山藩・澤井権次郎に伝えた際に落涙したり(『兵庫一件始末書上』)、和歌を詠む(『故瀧善三郎殉国事歴』)など人情あふれる様子を見せた伊達宗城であるが、当初日置に対しては皮肉な視線を感じる。
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(5)山崎喜兵衛、岡山に到着し、高須七兵衛に衝突の状況を報告

 「慶応四辰正月十四日暁八ツ時(午前二時)山崎喜兵衛早追ニ而御返御左右申出」(「高須七兵衛聞書」、『御津町史』頁1144)
 この報告が、当事者による岡山藩への第一報であると思われる。

(6)岡山藩澤井宇兵衛、西宮警衛について、参与屋敷へ文書提出

 打出陣屋を十一日に受け取ったこと、長州が到着しないことなどを報告し、西宮砲台の管理や人夫の動員について上申書をあげた。
 なお、この日参与役所が「一条院御里坊」から「九条殿御裡家」に移る(『史料草案』巻二十一、正月十四日)

※熊田恰の玉島帰参をこの日だとしていましたが、『玉島風土記』(森脇正之著、日本文教出版、平成6年)の記述に従い「17日」とします(頁149)。

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補注

※1.国書の付託
 『復古記』は「参与正親町公董(おおぎまち/きんただ)ヲ大坂ニ遣シ、大政復古ヲ外国ニ報スルノ国書ヲ東久世通禧ニ付シ、通禧ヲシテ其コトヲ掌(つかさどら)シム。」と記す(巻十八、明治元年正月十日、頁507―508。( )内はサイト管理者補記)。この国書の日付は十日、日置隊と外国軍が神戸で衝突する前の日である。
 付記によれば、正親町公董は十一日(衝突の日)大坂へ向かっている。「〇公董手記ニ云、十一日国書持参、東久世通禧朝臣へ為郵便、浪華へ下向候事」(同、頁508。原文「東久世通禧、朝臣、」を「東久世通禧朝臣、」と変更した。)
 さらに補記して、「〇通禧履歴書、十三日トス、弁九日外国事務掛ノ條下ニ見ユ、今国書ノ銜日ニ従ヒ、本日ニ収。」とする。
 一方『東久世通禧日記』では、十一日は、一度大坂を出て初項(夜七時から二時間程度)に京都に着いて参内し、夜十二時に淀から船で出ている。
 そして、十二日、十時前に本願寺(※注)に帰着とあり、そこへ正親町公董が国書を持参、また外国御用掛として兵庫表で「各国公使談判応接之義被仰付」とある。
 『復古記』の記述と『東久世通禧日記』では、東久世が「国書」を託された日にちが微妙に異なっている。また、「国書」の日付「十日」が正しければ、衝突の前日に作成されたことになる。
※注
 『東久世通禧日記』では正月十日に「西本願寺掛所本陣」とあるので、西本願寺津村掛所(現北御堂)だと推定。

 衝突の前日の作成が都合がよすぎるということで、後に作成して日付を調整したという説も見る。
 岡山藩留守居から後藤象二郎(新政府参与。『復古記』巻八、慶応三年十二月九日)に報告されたのが十三日(『伊達宗城在京日記』頁665)であるが、十二日には大坂から報告があった可能性もある。それであっても、十二日に「国書」を受け取り、翌十三日に大坂から兵庫へ向けて出発した、という『東久世通禧日記』(頁520―521)の記述を満たすのはかなり難しい。
 東久世が国書を受け取ったのは十五日の前である可能性など、いろいろなパターンが考えられるが、それをいちいち検証することはせず、『復古記』等に記載された「十日」に作成され、「十二日」に東久世に託され、十五日に外国外交団に渡されたとする。岡山藩など当事者にとっては、最も重要なことは十五日に天皇(朝廷)が外交を行うという宣言が外国外交団になされたことである。

※2.パークスの忠告
 『一外交官の見た明治維新』下、頁133では、サトウが提案したと書いているが、原英文は「Just as I got back I met Yoshii and Terashima,who had come down to have a talk. The chief gave them a shot interview,at which he advised them to send off at once and get the Mikado's messengers to come down with their notification to the Foreign Representatives. "A diplomat in Japan,page350」である。
 忠告したのはパークスのようだ。
 なお、この時の吉井と寺島の訪問は、衝突の報を受けた結果だと推測している。