慶応四年神戸事件を考える

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Ⅴ.交渉

1.一月十五日(陽暦2月8日)

(1)東久世第1回会談(場所:神戸運上所)

 東久世は、実際に交渉に当たる前に随従の伊藤らに根回しをさせたようだ(『竹亭回顧録 維新前後』頁242―243)。出席した吉井徳春(友美)の記録によれば、「昨日、勅使御下向、則各国へ御掛合相成候処、今日十二字(時)ヨリ於神戸、御談可申上トノ事ニテ、今日十一字兵庫御発船、各国ヨリ兵庫ヘノ御迎船差上候、神戸御著之処、何レモ御警衛多ク、兵隊繰出、イト厳重ナル事ニ御座候」(『復古記』巻二十、明治元年正月十五日。頁589-590)とある。相手の迎えの船に乗って、神戸に上陸し、運上所へ向かった。

①参加者
【日本側】
 参与外国事務取調掛・東久世通禧、外国事務取調掛・岩下方平(薩摩)、寺島宗則(薩摩)、吉井徳春(薩摩)、伊藤博文(長州)、片野瑜(片野十郎、長州)、陸奥宗光(紀州藩)。
【外国側】
仏国全権公使レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Leon Roches)、英国特派全権公使兼総領事スルハルリー・エス・パークス(Sir Harry Smith Parkes)、伊国特派全権公使コントドラ・トウール(Comte Vittorio Sllier de la Tour)、米国弁理公使アル・ビー・ファルケンボルク(Robert B. Valkenburgh)、孛国代理公使エム・フォン・ブランド(Max August Scipio von Brandt)、蘭国公務代理総領事ドテクラフ・ファンボルスブロック(Dirk de Graeff van Polsbroek)。
 (※1

②内容
a. 外交に関する天皇親政を宣言する布告の通達。
 『復古記』の記録の冒頭は「勅使、曰ク、今日ハ、天皇ヨリ各国へ布告ノ為ニ参リタリ」である。東久世を首班とした日本側交渉団の第一の目的は天皇からの布告書を渡し、王政復古を宣言することであったようだ。『東久世通禧日記』上巻、では、「十五日 神戸運上所御布告外国公使へ相渡」の一条のみがある(頁521)。(※2 国書について
b.天皇の政令が全国に徹底しているか、外国を司る者が既に決まっているのかなどのやりとりがある。この時外国事務掛の姓名を伝えている。
c.徳川慶喜が政権を返すと布告にあるのに、徳川慶喜が反逆云々と勅使が言ったが、内戦中か、との公使団の疑問に対するやりとりがある。

 日本側は、外交権が新政府にあると伝えることが第一の目的である。外国側は、新政府が日本を統治していることを確認する必要があった。次に神戸での衝突の議論に入るが、勃発の原因を議論することはない(議論して記録しないということはないと思われる)。そして、次のような詰問が発せられる。

d.「猥(みだ)リニ各国人へ乱暴云々、以後天皇御親政ノ事ナレハ、必ス政府ニ於テ御処置ニナルヤ」。そして、勅使は「固(もと)ヨリ然リ」と答える。
e.先の布告を本国に伝えるかという日本側の質問に対し、後で答えるとし、「備前藩の乱暴は天皇政府が処置するのか」という詰問に対し、勅使は同じく「固(もと)ヨリ然リ」と答える。
f.さらに「備前乱暴ノ事ニ及テハ、談スルモ怒ニ堪サル次第ナリ、況ヤ、各国公使ニ対シ砲発ノ事情等、全ク文明ノ国ニ於テ有ル可ラサルコトナリ」と、圧力をかける。勅使は答える。「此処置ハ、各国ノ公論ニ任セ、且ツ天皇ノ親裁ヲモ受ク可シ」。そちらのご意見に従います、と答えている。
g.詰問はまだ続く。「自後若シ御違約等ノ事アレハ、大ニ貴国ノ大事ニ及ハン」。勅使はまたも「固ヨリナリ」と答えるが、横浜などはまだ天皇の政令が行われていないことを補足する。

h.その他

 これ以外にも、東久世の逗留を希望し、また(江戸に近い)横浜が政令に従う時期がわからないなど種々の質疑がなされたが、外国側の詰問に対し、日本側が言い訳する展開と言ってよい。
 この日の会議で交渉の方向性が決まってしまったと言える。武力を背景にした百戦錬磨の外国公使団に対し、外国のことを少し知っている程度の公卿や薩長の藩士相手では勝負にならない。
 もっとも、伊達宗城は「万国公法」に基づいて決着つけることを決めており、衝突の是非を論じるつもりはなかったようである(『伊達宗城在京日記』頁666)。東久世も同様であった可能性がある。

談判の内容全体は『復古記』巻二十、明治元年正月十五日参照リンクマーク

③会談後
a.会議に参加していた長州藩・片野十郎が率いる一隊が警備を外国側と交代し、神戸の占領は解除された。(『大日本外交文書』第一巻、第一冊、一〇三。頁254)
b.拿捕された諸藩の船は、返却された(同前)。しかし、船のなかは荒らされ、金品・備品が盗まれていた。拿捕について三角マーク
c.片野十郎の談として、「サトウ等咄ニ、兼テ徳川役人共ヨリ聞及候ニハ、公卿ト申者ハ大抵愚ナリト、然ルニ今日ノ応接ハ、日本へ来リシ已来、始テ如此断然タルヲ観シナリトテ、甚悦ヒ居候由、十郎、談話ニ有之候事」とある(『復古記』頁590―591)。第一回の交渉が無事終わって、また外国公使から褒められたことなどからその夜は「祝酒共酌申候」とある(『大日本外交文書』第一巻、第一冊、一〇三。頁254―255)

▼管見1

 日本で初めて出会った決断力云々というサトウの誉め言葉をそのまま信じて良いものか。東久世は幕府が外国側と交渉した時、様々な形で妨害した公卿の重要な一人であったのではないか。そういった者が居らず、外国嫌いの天皇も亡くなられている。少年の天皇は、少なくとも彼らの邪魔はしない。幕府よりずいぶん楽な状態である。
 何より、ほとんど無条件に外国側の要求を呑んでいる。それは褒めもするだろうと言えば言いすぎか。
 ただし、伊藤・五代・陸奥などイギリス外交官らに知人がいる部下を従えていたにしても、武装した敵陣に少数で乗り込む度胸はすごいと思う。何度も危機を乗り越えて討幕を果たした男の持つ胆力であろう。
 ペリーと幕府(林大学守)とのやりとりの方が交渉らしい(『現代語訳 墨夷応接録』)ともいえるが、この時はまだ幕府は権力を掌握していたが、新政府は累卵の危うさのなかにあった。

▲たたむ

(2)新政府、開国和親の布告を出す。

 外交を「宇内之公法」によって執り行うことを宣している。また、幕府が締結した条約の利害を検討するとある(『大日本外交文書』第一巻第一冊97、頁227―228)。しかし、二十日の布告では、すべてを踏襲すると変わった。外国側の要求も関連していると思われる。
外交ニ関スル布告書(画像)三角マーク

(3)その他関連事項

①明治天皇元服、大赦を実行する

 『史料草案』巻十九、明治元年正月十四日(頁567)。
 この時、天皇の元服の祝いとして「太刀 一腰、馬 一匹、馬代 公卿白銀三枚、 殿上人 同二枚」を献上するよう岡山藩へ「参与役所ヨリ達」があった(『史料草案』巻二十一、正月十五日)。

②日置帯刀、参与屋敷へ参上

 『御奉公書上 日置帯刀』八。


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補注

※1.会議の参加者
 参加者は『復古記』巻二十、明治元年正月十五日、頁583―584による。日本側の参加者のうち、寺島宗則が参与兼外国事務掛となったのは一月二十三日である。この時期、新政府の役職者はめまぐるしく変わり、復古記の記述も後日の役職を書いている場合がある。
 また、外国公使の役職・カタカナ氏名は復古記、欧文綴りは、幕末の駐日外交官・領事館(70-74ページ)による。一部表記を改めた。
 補佐する者として、兵庫代理領事ラウダーや日本語書記官サトウも参加していたと思われるが、復古記には記録がない。ここに記載している出席者は、資料から読み取れる者を記しており、すべての出席者を記載しているわけではない。

※2.国書について

大日本外交文書に掲載された布告の画像
【意訳】
日本国天皇は、各国帝王及びその臣民に告ぐ。さきに将軍徳川慶喜が政権を帰したいと願った。これを許し、内外の政事を親裁することとした。
 それを踏まえて告げる。従来の条約は、将軍の名を用いて締結していたが、以後は、天皇の名前を以て、換えて当てる。
そして、各国との外交業務は、専ら政府役人等に命じる。各国公使は、そのことを承知すべきである。
 慶応四年戊辰正月十日

国書の日付については、文書によって齟齬がある。国書の日付について三角マーク
 なお、大日本外交文書収録の記述では、布告に続けて『王政復古ヲ外国公使ニ通告ノ件・・・』として、文案作成の経緯が記される。

国立国会図書館デジタルコレクションで公開する布告書(大日本外交文書.第1巻 第1冊九九(附属書))はこちらリンクマーク
参考:外務本省の日本外交文書デジタルアーカイブでも公開されている。

幕末維新人名事典、宮崎十三八・安岡昭男編、新人物往来社、1994年。