慶応四年神戸事件を考える

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Ⅴ.交渉

2.一月十六日(陽暦2月9日)

(1)外国公使団、神戸での衝突の処分について問責書を東久世通禧に提出

 要求は次の二点である。
  1. 理由なく外国公使と在留外国人を銃撃したことを天皇陛下の政府から書面で、各国公使へ十分詫びを入れ、今後このような暴行がないように、請け合うこと。そうすれば、それぞれの公使は本国へ報告する。
  2. 外国公使並びに在留諸外国人に発砲するよう命令した士官を死刑にすること、ただし、各国公使館附属士官立合のもとに処断すること
▽資料・復古記

『復古記』巻二十一、明治元年正月十五日。頁六〇四
〇仏、英等公使、書ヲ東久世通禧ニ致シ、神戸争闘処分ノ目ヲ陳論ス。
 去ル十一日、松平備前守家来、神戸町、並外国人居留地通行之節、不意ニ各国公使、並当所在留人民へ対シ致暴発候、昨日御門陛下之使節東久世前少将閣下へ申述候処、右一條、御門陛下へ奉聞被成候間、如何ナル処置ニテ各国公使トモ満足可有之哉、委細書面ニテ可申進旨、閣下ヨリ被申聞候間、則左之通申進候。

一 無故外国公使、竝其人民ヲ襲ヒシ段、御門陛下之政府ヨリ以書面、各国公使公使へ十分詫入、且此以後、御門陛下之領分ニテ、在留スル外国人ニ向テ、決シテ右様之暴行、再度有之間敷段、急度請合可申事、尤公使共ヨリ、夫々国許政府へ通達可有之筈ニ候。
一 外国公使共、竝在留諸外国人ヘ対シ、発砲スル様下知致セシ士官(※1)ハ死罪之事、尤各国公使館附属士官立合ニテ仕置スヘキ事、
右之通、如斯悪行之者共、無遅滞現然ニ罰セサレハ、以後不法之暴行ヲ防カサルノミナラス、双方懇親之交際ヲ全スル仕方無之ニヨリ、御門陛下之政府ニ於テ、右申立之当然タル事ヲ御承知被成候趣、早速各公使共承度候、
右之段為可得貴意、如斯御座候、以上。
正月十六日
仏国公使
レオン、ロッシュ
英国公使
ハルリー、エス、パークス
伊国公使
コントドラトウ―ル
亜国公使
アルヒ―、フヲンファルケンボルク
孛国公使
エム、フォン、ブラント
和蘭公使
ドテクラフ、ファンボルスブロック
東久世前少将
閣下

 この後に、本文は翻訳であるが、月日は西洋の日付を書くべきではないか、別途考証する書もないので、しばらく原文に従う、という補足がある。

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(2)岡山藩、議定副総裁・三條実美に事件の報告書を提出

 「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末」(『吉備群書集成』五、頁118)など、岡山関係の資料では、「正月十六日朝、帯刀持参下坂、元美持参、土肥より三條公へ指上」(読点を一部変更)とある。奉公書によればこの日帯刀は京都を立っている。これらを踏まえて考えれば、帯刀が下坂する前に(成田)元美に提出、それを土肥典膳(岡山藩番頭、明治新政府参与)が三条に「差し上げた」のがこの日(あるいはこの日の近く)であると推測した。(この報告書を、『復古記』での名称に従い、以下「忠尚申状」とする。当サイト「衝突の基本資料」の忠尚申状を参照三角マーク
 当サイトの日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書を参照三角マーク

(3)その他

①日置帯刀、京都出立、大坂泊。
②東久世、希望して、英国鉄船(軍艦オーシャンOcean 4,047トン)見学。(『東久世通禧日記』頁521。『一外交官の見た明治維新』下、頁139)
③フランス公使ロッシュ神戸を離れる。(『遠い崖』6、頁221)

3.一月十七日(陽暦2月10日)

(1)東久世第2回会談

 東久世通禧日記/上に『十七日 運上所に而各国公使談判、備前日置帯刀一件、後藤象次郎出席』とある。また、『一外交官の見た明治維新』下にも、「二月十日に外国公使は、岩下と後藤を帯同した東久世と再び会見した。」(頁140)とあるが、『復古記』『大日本外交文書』ともこの会談の記述はない。
 ただし、サトウの日記をもとに執筆された『遠い崖』6には、この日に「最初の条約(各国との修好通商条約)以降に結ばれた各種の取り決めにおよび、それらも一括して新政権によって承認される必要がある」と外国側が主張したとある。これに対し、東久世は「それらについて何も知らず、またそういう外交文書はすべて旧幕府の役人が持ち返ってしまったと回答したらしい」(頁227)(※2)。
 翌十八日の会談で、幕府が締結した条約の写しを外国側が東久世に渡したようである(同、頁227)。
 後に仁和寺宮嘉彰親王が、各国公使に通達した通達(既に結んだ条約を新政府が遵守すること。『大日本外交文書』第一巻第一冊、一一二)とも呼応する。

(2)新政府において三職七科制の職制が定められる

「職制ヲ定メ、神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度ノ七科ヲ置キ、議定ヲ分督シ、参与之ヲ分掌ス(以下略)」(『復古記』巻二十一、明治元年正月十七日。頁606―612)。
【神戸事件関係者の新しい職階】
三条実美(議定副総裁)、東久世通禧(参与兼外国事務総督)、伊達宗城(議定兼外国事務総督)、岩下方平(参与兼外国事務掛)。

(3)その他

①新政府、外国との和親を国内に通知(『幕末維新史年表』頁198)。
②日置帯刀、大阪泊。伊達宗城の屋敷へ参上(『御奉公書上 日置英彦』八)。
③池田伊勢、御影村常順寺から出立(『御奉公之品書上 池田貞彦』三)。

熊田恰率いる備中松山藩大阪城守備隊、松山藩飛び地の玉島に帰参(一月十七日)。  熊田恰は、備中松山藩士年寄役。松山藩主板倉勝静は鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜に従って江戸に逃れたが、恰は勝静の命により、部下 150余名とともに海路玉島(※)に帰着したが、松山藩が朝敵となっていたため玉島で岡山藩に包囲された。国での謹慎が許されず、首級を要求された恰は、150余人の助命と藩の安泰をはかるため自刃した。同時に玉島を戦火から救った。死後、家老。玉島に熊田神社がある。(『岡山県大百科』上など)
※ 暴風下で、一隊はばらばらに玉島を目指した。17日に全員が玉島に集合。(『玉島風土記』(森脇正之著、日本文教出版、平成6年。頁149)

4.一月十八日(陽暦2月11日)

(1)東久世第3回会談

 復古記、大日本外交文書ともこの会談に関する記述はない。第2回と同じく『東久世通禧日記』上、とサトウの回顧録』下、から類推するが、両書の記述は異なる。
 『東久世通禧日記』上、では十八日に「松山本陣へ移宿」とあり、翌日十九日に「運上所出役」とある。つまり、外国側と運上所で会ったのは十九日であると思われる。
 『一外交官の見た明治維新』下、では、西暦2月10日(慶応四年一月一七日)の第2回会議の翌日(十八日)に東久世がパークスとフォン・ブラントに会いに来ている(これまで公使団を主導しようとしていた仏公使ロッシュは不在)。サトウの日記を基にした『遠い崖』6、を参照すると、今まで幕府と締結された条約類の写しを外国側から東久世に渡したようである。
 日付のずれなど二つの記述の整合性が確認できなかったが、東久世と外国側の交渉過程の一つとして挙げておく。(※3

(2)外国掛神戸事務所を設置。岩下方平・伊藤博文等を駐在させる

 同十八日(慶応四年正月)中嶋作太郎(信行)ヲ以テ外国御用掛ト為ス、此ニ於テ岩下佐治衛門(方平)等四名を命シ、神戸運上所ニ於テ、逓ル々事務ヲ執ラシム
(『兵庫県史 史料編 幕末維新1』頁577。( )の文字は傍書であるが、後ろに記すなど一部表記を改めた。)。上記の他に寺島陶蔵(宗則)。が外国御用掛を命ぜられる。
 このことを、東久世通禧名で各国公使へ通達。
『復古記』巻二十二、明治元年正月十八日に同趣旨の記事があるが、『兵庫県史 史料編 幕末維新1』が判りやすいのでこちらを参照した。

(3)その他

①日置帯刀、十八日、仁和寺宮宿舎参上。
②池田伊勢、十八日に西宮如意庵へ着陣。如意庵について三角マーク


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補注

※1.士官という訳語について
 要望書の英文原文の第二番めの文章は下の通りである。
The sentence to be carried out in the presence of officers from the different Legations.The capital punishment of the officer who gave the order to open fire on the Representatives and the Foreign community generally.
 復古記・大日本外交文書などでこの部分は「外国公使並びに在留諸外国人に発砲するよう命令した士官を死刑にすること、ただし、各国公使館附属士官立合のもとに処断すること。」といった翻訳がされている。文中のofficerはどちらも士官と訳されている。
 しかし、イギリス軍人のofficerは、日本陸軍などから連想する士官よりは、上級者を指すように思える。手元の英和辞典(リーダーズ英和中辞典、研究社、2002年刊)で引いてみると、「将校」という言葉が先頭に来る。
 また、役人のofficerであれば、士官という訳はおかしい。実際、永福寺での瀧善三郎の切腹に立ち会ったofficerのうち、軍人はアメリカ軍艦オネイダ号艦長クリートンだけである。(『兵庫一件始末書上』解読文頁十補注三角マーク
 仮に「命令した将校を死刑にすること、ただし、各国公使館に所属する職員立会いのもと」とするとどうであろう。この要求に対し、この時五人扶持側役の瀧善三郎が該当するか疑問が残る。

※2.そういう外交文書
 『遠い崖』(基本となったサトウの日記)の記述が正しいとして、東久世の反応は外国側には率直だと捉えられたようだが、外交交渉の責任者としてどうだろう。彼に限らず伊達宗城も駆け引きをしたような記述は資料からは読み取れない。本当に知らなかった可能性も高い。
 従来の条約の書類の控えは、幕府だけが専有していたのか。朝廷および各藩に控えはなかったのか。国立公文書館のホームページや国税庁や税務大学校のホームページでは、安政五ヵ国条約の「刊本」の紹介がある。後者の『税大ジャーナル』30号の記事「明治維新と租税の近代化」(今村千文著)では、この刊本が2000部作成されたとある(頁187)。

税大ジャーナル 30 明治維新と租税の近代化リンクマーク
激動幕末 20.五ヶ国条約并税則リンクマーク
(いずれも2020/02/09確認)

※3.第3回会議の記述
イ.『一外交官の見た明治維新』下、
 「十一日[西暦。前回会議の翌日。慶応4年1月18日]東久世は属僚をしたがえて、ハリー卿やフォン・ブラントと会見するために領事館へやって来た。会談は三時間もつづいた。私たちは開港に関するあらゆる条約、仮条約、覚書を彼らに見せた。それはみな外国事務総裁である仁和寺宮(ニンナジノミヤ)により、天皇(ミカド)の名をもって確認されるべきものであった。」(頁142―143。( )内は元の図書のふりがな。)
【参考 『遠い崖』6、の記述】
 この日、各種の取り決め(文久二年のロンドン覚書、慶応二年の改税契書、慶応三年の兵庫、大坂、江戸、新潟の開港・開市の取り決めなど)の写しが、外国側から東久世に手渡された。(頁227)

ロ.『東久世通禧日記』上、
十八日 松山本陣へ移宿
十九日 運上所出役 厨川織部、志筑禎之助、上滝東三郎、喜谷川半助。
 一、条約遵奉趣き仁和寺宮御花押ヲ以各国公使へ申通
 一、中国・四国追討使四条隆謌進軍