慶応四年神戸事件を考える

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Ⅳ.衝突直後

1.一月十一日(陽暦2月4日)

(1)外国軍の反撃の拡大

①居留地周辺の占領

 日置隊が生田川を越えて山中に姿を隠したあと、外国側は公使達の協議の上、居留地周辺の軍事占領と神戸沖の日本側蒸気船の拿捕を決定した(『ドイツ公使の見た明治維新』頁134―135)。前者は即時実行された。その夜、長州兵を敵と見誤ったりするなど、何度か騒ぎがあったが戦闘はなかった。
 ただし、ブラントの回顧録によれば各国公使団は「翌日(五日)、私ども列国代表は外国軍艦の艦長たちに、居留地とできるだけ多くの市街地の占領を要請し、武装した日本人にこの地域を通過させないように頼んだ。」とある(「(五日)」は原訳文のまま。同前、頁136)。これから推測するに、衝突の後の占領は防衛的なもので、翌十二日から意図的に封鎖したともとれる。

居留地周辺 サトウはその回顧録で次のように記す。「わが方は、神戸の本通りに沿うて第一の柵門までずっと歩哨を立て、門に榴弾砲を有する強力な警備隊を配置した。また、平地の北側から東側へかけて、ぐるりと歩哨線を布いた。これらの歩哨はアメリカ人の水兵ないしは海兵隊員(※1)であった(以下略)。」
(『一外交官の見た明治維新』下、頁131―132)

②各藩の蒸気船を拿捕

 衝突の日の夕方、神戸港に停泊していた久留米、越前、宇和島、筑前、肥後、平戸各藩の六隻の蒸気船(※2)が強引に拿捕された。サトウの回顧録によるとこれは「物的保障」(material guarantee)ということであった。(『一外交官の見た明治維新』下、頁132。"A dipolat in Japan",p.349)。

船の拿捕に至る経緯をファルケンバーグは次のように報告する。

 兵庫港には日本政府及び各大名に所属せる数隻の蒸気船ありき。仏、英、蘭、伊、普の各国及び余はただちに会議を開き、これより敵対行動防止のための措置を在港海軍司令官にとらしめることに全員一致同意せり。港内には米国軍艦オネイダ、イロクロス、英国鉄鋼艦オーシャン、砲艦二、仏国コルベート艦ラプラス停泊中なり。(『神戸事件』頁122)。

  『神戸港二於テ備前藩士暴動発砲ノ際外国人二抑留セラレシ筑前藩蒼隼丸船及久留米藩晨風艦(※3)損失救助願一件』中の福岡藩から外務省へ提出された文書(庚午(明治三年)十月廿九日の日付がある)に暴力的な拿捕や、その後の盗難のひどい状況が記されている。
 蒼隼丸が襲撃された最初のところだけを読める範囲で要約すると次の通りである。
  1. 数隻の短艇で襲撃し、無理矢理乗り込んで来て船員を殴りつけて縛った。
     〇「如何成次第ニ候哉、英国兵隊大凡二百人伴小銃相携不意ニ右艦ニ乱入水手ヲ打擲致シ捕縛致置、(以下略)」とある。
  2. 乗り込んで来た兵隊は積み込んでいた器械や荷物、箪笥などの鍵を撃つ壊し、刀剣や金を略奪し、神戸港に着けるように言った。
  3. たまたま幹部が大坂へ行ったり、病気だったりして在船していなかったので段々ひどくなって、乗組員の持ち物を奪い、また杖や薪で打擲し、傷を負わせられた。
  4. 反撃しようとしたが、外国とのことはこの時節重大なことなので、こちらから戦いを仕掛けてはいけない、と年長者が制止したので我慢した。
  5. 沖から蒸気船が来て、舫(もや)いをとって引き、英国船の近くへ繋ぎ置いた

 同書に破壊あるいは強奪された装備や物品の一覧があるが、武器類は分らないことはないが、「商人之金子」の「金八百両壱包」などがなくなるというのは泥棒と同じである。そして、末尾に「朱書ノ分を除キ 両船紛失物品 合計金三千三百三十四両 也」とある。また水手の中には重傷の者も出たようである。他の船の記録は確認できていないが、同様の被害が出た可能性がある。
 参照:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090131500、神戸港二於テ備前藩士暴動発砲ノ際外国人二抑留セラレシ筑前藩蒼隼丸船及久留米藩晨風艦損失救助願一件(外務省外交史料館)

▼管見1
(1)外国兵の質について
 衝突があった夜、イギリス人とアメリカ人の歩哨がドイツ人とアメリカ人の所有するの倉庫を荒らしたとこともあり(『ドイツ公使の見た明治維新』頁135―136)、拿捕した蒸気船から金銭や備品を盗むなど外国側の兵士の質は高くない。それは他国に来て、その国の軍隊の隊列を強引に横切ったキャリエールにも言える。
(2)福岡藩乗組員の我慢について
 福岡藩の船乗りが我慢したことを褒め、暴発した日置隊の愚を責める資料がある。ただし、蒸気船の拿捕は岡山藩と外国兵の衝突があった翌日の出来事であったことを考えると同列に考えるのは少し無理がある。何故だかわからないが、前記(1)のような外国兵の乱暴には言及せず、衝突の理由を岡山藩の攘夷の思想に求める論調を時に目にする。
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③外国公使団、抗議文配布

 『大日本外交文書』第一巻第一冊、明治元年一月十一日、八十七と、翌十二日、八十八の両方に外国公使団の抗議文について書かれている。
原英文ではNo.1がFebruary 4、No.2~4がFebruary 5である。
 布告文は二日に渡って作成、配布(掲示含む)されたことになる。一月十二日にまとめて記載する。

(2)西宮警衛隊の動き

①日置隊

 日置隊は、外国側の襲撃を受けて、帯刀を擁した集団とそれ以外の集団に分散したようだ。「神戸事件当時の見取り図」(『御津町史』頁1152)に、「御先手足軽山ノ手ヲ東ニ指退ク」とある。
 ばらばらになった家臣達は夜間行軍を行い、主君帯刀(主公)を探して、あちこちする。やっと打出村で出会うことができ、山崎喜兵衛達が帯刀に拝謁した頃夜が明けた(『高須七兵衛聞書』)。その後帯刀は上京するが、それは十二日の項で記す。
 なお、岡久喟城は、太田勇治の描いた見取り図に「正月十一日夕十時頃唐戸村晩飯」とあるとする(『明治維新神戸事件』頁59)。

▽資料・高須七兵衛聞書

【高須七兵衛聞書】(『御津町史』頁一一四五―一一四六)
扨(さて)日も暮掛、責合も止候ニ付、主公相尋深江村へ参候処、主公御出無之、[高山寅三郎、京より/帰掛此村へ参居申由(割書き)]此処ニ而承候所、打出村か、西宮ニ御着も可有之頃御様子ニ付、足軽寿太夫今一人両所へ遣し、御様子次第御入込の御場所へ、参るべしと申合せ居り申し候処、本藩河原幸之介今日地利見分ニ外出の処、今日御様子承り候に付、直ニ深江村へ参申候よし、且(かつ)主公ニハ多分打出村ニ可被成御座、打出村ニ不被為成御座候ハ、西宮へ参り候間、足軽私へ御付被下候ハヽ早々御左右可申段申候ニ付、幸之介へ足軽を付遣し置候所、足軽未帰不申内、須々木喜三郎深江村へ罷帰り、主公ハ長州古陣屋か、打出村かへ御着無相違と申候ニ付、直ニ孫兵衛初組士打連罷越拝謁し、直ニ御供仕候

【意訳】
 日没になり撃ち合いも止んだので、主公を探して深江村へ行ったが、そこに主公は居られなかった。
 京都から帰る途中の高山寅三郎(中小姓)と、打出村か西宮へ到着されているかも知れないので、足軽寿太夫ともう一人をそれぞれ派遣し、状況がわかり次第、その場所へ参上しようと相談していたところ、地利見分に出ていた岡山藩士河原幸之介が事件を聞いて急行してきており、主公は多分打出村に居られるだろう、もしおられなければ足軽一人を付けてくだされば、急いで状況をお知らせするというので、河原に足軽を託した。
 足軽が帰らぬうちに、須々木喜三郎(徒目付)が、深江村へ帰ってきて、主公は長州古陣屋(打出陣屋)か、打出村かに到着されているに違いないと言った。それですぐに津田孫兵衛(家老)を始め組士一同が打出村に向かい、拝謁し、直ちに従った。

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【衝突現場模式図2)】
衝突現場模式図2 
  (※衝突現場模式図2について
②池田伊勢隊

 この時、池田伊勢一手人数八百人は日置隊に続き、大蔵谷近辺にいたと思われる。日置隊が衝突したことを知ったのはどの位置だろうか。衝突の報に接してか、神戸西の関門が封鎖されていた所以かはわからないが、彼らは神戸に進行することはなかった。

 池田伊勢の奉公書、『諸事風聞日記』『山田郷土誌』を参照すると、この夜「西国往還付替道」に入り、夜を山田村で過ごしたと思われる。

池田伊勢の奉公書では、このときどう移動したかは触れていない。ただし、一月十三日の項に「摂州御影村常順寺へ一先着陣仕、十七日同所出立」とある。御影村は西国往還付替道(徳川道)の東口である。
 また、『諸事風聞日記』では、「一 備前公新道・山田・唐櫃・有馬越ニテ、十一日・十二日通り候」と記す(頁163)。
 二つの情報を併せて考えると、十一日に大蔵谷から西国往還付け替え道(徳川道)を通り、途中山中(一泊は山田村)池田伊勢隊は、日置隊衝突の情報を入手しおよび副督の水野主計に知らされたと思われる。一隊は大蔵谷から徳川道を通り、御影へ出たと思われる。この経路を下図で示す。

徳川道略図  慶応四年一月十一日に「鎧武者」600人が兵庫県の旧小部村(現神戸市北区)に現われて、一夜の宿を頼んだことが『山田村郷土誌』に記されている(頁115)。村役人は一行の宿割りを決め、できるだけの対応をしたという。これが池田伊勢の本隊であると思われる。
 その口上は「備前岡山藩の御納戸役の一行であるが、此度御用の次第で東上の途中、先発の一隊が神戸にて外国人と衝突の事件が生じた為めに、止むなく神戸を通過することが出来ないため此の裏道を通るのである。日は暮れ行く手は摩耶の山奥と聞く、夜中の行軍も困難である御迷惑ながら一宿の儀御村中で頼むとの事であった。」この後、神戸の衝突の記述があるが、外国人が小刀を出したり、一人を斃したり、いくつか異なる情報が伝わっている。最後に、「幕府が新に造りたる神戸の裏道即ち徳川道を取りて退きたり。」とある。徳川道を通行しなかったことで、岡山藩兵を非難するような文章を時たま目にするが、道だけがあって宿場もなにもない道を通ることが如何に困難かわかる。
 また、十三日に御影村へ着いたとすると、山中で二泊したことになるが、その詳細を確認することはできなかった。

③先行隊による打出陣屋引継

 神戸で衝突が起きたこの日、岡山藩は、西宮警衛のため大洲藩から打出陣屋を引き継いだ(『史料草案』巻二十一、正月十四日。十一日に引き継いだこと、長州藩が未着であることなどを十四日に報告し、併せて砲台の管理などについて上申している)。先行していた岡山藩幹部、藩兵によると思われる。なお、神戸からは四里ほど離れたところの出来事であるが、ここに記す。
打出陣屋について三角マーク

(3)その他

①征討府、薩長に兵庫の警守を命ず

征討大将軍府、鹿児島・萩二藩兵に命じて、兵庫を警守せしむ。
「維新史料綱要』データベース アクセション番号 0000020513 レコードID 021850 (確認 2020/02/21)
 項目題は、『兵庫県史 史料編』幕末維新1(頁569)に従った。

補注

※1.歩哨はアメリカ人の水兵ないしは海兵隊員
 「その晩イギリスとアメリカの歩哨が、ドイツ人とアメリカ人の所有する倉庫を荒らし、ぐでんぐでんに酔っ払ったあげく、大量の品物を盗み出すという事件が起こった。品物はのちに地元の商人の手に渡った。最終的には、この日本人の商人は、その損害賠償金を支払わなければならなくなったが、しかし、この事件によって外国軍隊による防衛に対する信頼は著しく傷つけられたのである。」(『ドイツ公使の見た明治維新』頁135―136)
 アメリカ人だけが歩哨としたのはこのことに触れたくなかったのか。サトウの回顧録ではブラントの悪口を書いたところがある。両方の回顧録を読むと、サトウの方が癖がある。

※2.六隻の蒸気船
 サトウの回顧録では拿捕されたのは四隻、それを『遠い崖』6の筆者萩原延壽は「パークスによれば五隻である」とする(頁197)。
 しかし、『復古記』巻二十、明治元年正月十五日の東久世と外国公使団の協議に関連した「〇通禧報告書束」では、久留米・越前・宇和島・筑前・肥後・平戸六藩船を返すとある(第一冊、頁588)。また、同書の「〇吉井徳春書束」でも、蒸気船六隻とある(同、頁590)。これは日本側の記録が正しいだろう。
 なお、サトウの日記では、大村藩の者が来て、拿捕されている大村藩の船は本来宇和島藩のもので大村藩が借用していたと相談に来たことが記されている(頁201)。

※3.蒼隼丸と晨風艦

 蒼隼丸は長さ22間(約40メートル)、90馬力、肩幅二丈二尺(約6.6メートル)、晨風艦(晨風丸)は長さ18間(約32.7メートル)、幅3間半、100馬力、2本マストの木製蒸気船、祥瑞丸は長さ18間、幅3間半、80トン、50馬力、2本マストである。
 蒼隼丸・晨風艦・祥瑞丸の記述は国立公文書館アジア歴史資料センター公開の「蒸気軍艦届」JACAR:C09090001200(防衛省防衛研究所所蔵)および 「諸藩ニ令シテ所有ノ艦舶ヲ録上セシム」JACAR:A15070868000(国立公文書館所蔵)によった。

幕末維新人名事典、宮崎十三八・安岡昭男編、新人物往来社、1994年。