国境

 西国街道(京都羅城門跡-下関)、長崎街道(大里-長崎)で写真に撮った国境
   
山城国と摂津国の国境石(京都府大山崎町)
「従是東山城國」
横に関神社がある。
摂津国と播磨国 境川(神戸市垂水区と須磨区)
目印らしいものはなかった。
播磨国と備前国の国境石(船坂峠)
「從是西備前國」
碑寸法(メートル)高さ1.8 横幅0.27 幅0.27
元禄十六年建立。県境石の上の崖の中程にある(裏から回ることができる)
備前国と備中国の国境石(岡山市西辛川)
「從是東備前國」
碑寸法(メートル)高さ1.74 横幅0.27 幅0.27
元禄十二年建立。かっては境目川(備前側)に立っていた由。180号線改修にともなって、現在の位置に移設。境目川も暗渠になった
岡山県と広島県の県境碑
高さ(メートル)3.55 横幅0.3 幅0.3
大正8年建立。備前国と備中国との境界でもあるか?
備中国と備後国の国境石(御領)
資料などでは確認できていないが、ネット情報で交通事故で壊れたものが新規に立てられたと読んだ。 資料などとつきあわすと、古い県境碑(広島側)のような気がするが要確認
福山藩と広島藩の藩境石(坊地峠・福山側)
「從是東福山領」
古びた番所の建物が近くの高台に残っていた(平成26年1月現在)。
福山藩と広島藩の藩境石(坊地峠・広島藩側)
「従是西藝州領」
福山側よりかなり大きい
備後国と安芸国の国境石
「從是東 備後/從是西 安藝」
途中で折れて鉄枠をしている。
明治10年と記年(末尾に「再」らしい字が読める)
安芸国と周防国の国境は、小瀬川(両国橋がかかっているが、かっては木野の渡し)
周防国と長門国の国境石
「西 長門國厚狭郡/東 周防國 吉敷郡
高さ(メートル)1.6
長門国と豊前国の間は関門海峡
上の写真は豊前側の大里からの関門海峡。下の写真は関門トンネル内の市境界
豊前国と筑前国の国境石(北九州市八幡東区)
「従是西筑前國」
高さ3.3メートル。小倉藩と福岡藩の境界。
福岡藩が天保五年(1834)に大きく立て替え。竹底彫りという技法を使っている。
筑前国と肥前国の国境(三国峠)
「従是東筑前國」
福岡藩と対馬藩との領界石。肥前入り口の田代宿は対馬藩の飛び地である。 下写真は筑前側からの正面である。肥前側のものと二本が背中をくっつけて立つ。
境界を決めるまで長いあいだ協議されたようだ。
文化4年(1807)建立
筑前国と肥前国の国境(三国峠)
領界石は二本が背中合わせで立てられている。 筑前側「従是東筑前國」
肥前側「従是西肥前國對州領」
他にも高さ3.4メートルの「従是北筑前國」の国境石があり、また筑後を含めた三国境石も近くにある。
佐賀藩と大村藩の領界石(俵坂番所跡)
「従是北佐嘉領」
資料には、俵坂峠にあったものが、近年工事の時に露呈し、番所跡に立てた、と記述。web情報では、高さ2.85メートルで、大村藩側のものと並んでいたという
<佐賀藩と大村藩の領界石(俵坂峠左手の高台)
「大村領」
途中から折れている。web情報では、元禄5年(1962)建立。
※国境は令制国(旧国)の国境を基準としたが、藩境と重なるものもある。
また、佐賀藩と大村藩のように同一の旧国であっても、境界としたものもある。
※旧字(「從」「國」「藝」「對」など)は、石碑に書かれているとおりにした。 その結果、江戸時代であっても「従」と「從」の両方が使われているのに気づいた。
【参考資料】
1)歴史の道調査報告書集成2 近畿地方の歴史の道2 大阪2
海路出版 2005年復刻版。歴史の道調査報告の復刻版。
2)岡山県歴史の道調査報告書 第1集  山陽道
編集と発行 岡山県教育委員会 (平成4年3月発行)
3)西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後編
井上宏司[他]著 中国・地域づくり交流会 西国街道ぶらり旅の会 2010年9月発行
4)歴史の道調査報告書 〔2〕  山陽道 
山口県教育委員会発行 1983年3月発行 
5)長崎街道 (福岡県文化財調査報告書 第184集)
発行 福岡県教育委員会 2003年3月発行
6)長崎街道:肥前佐賀路 (九州文化図録撰書2)
 図書出版のぶ工房 編・発行 2006年(2版)
7)長崎街道:肥前長崎路 (九州文化図録撰書3)
 図書出版のぶ工房 編・発行 2007年(2版)

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