岡山の往来・道の検討

道の検討

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(1)西大寺町から瓦町までの道の検討

 歴史的な街道(往来)を歩き始めたときは、ただ調査報告をなぞるだけであったが、できれば江戸時代の地誌なども参照したいと考えるようになった。官道の記述があり、経路を比較的詳しく記述している吉備温故秘録を基準として、そこに書かれた道を把握するために検討した。

歴史の道調査報告6の記述

 この区間について、調査報告6(金比羅往来と由加往来・鴨方往来)には2ヶ所記述がある。

 まず、鴨方往来p62「城下栄町から庭瀬口まで」で

の三つの道の説明がなされている。

 庭瀬口御門は大雲寺御門のことであると判断した(検討内容)ので、常磐口御門と大雲寺御門を通る2筋である。

 次に金毘羅往来(下津井往来)p3「起点から大供へ」で、江戸時代の経路は記されていないが、現在の岡山市の順路が示されており、この道は常磐口御門を経由する道であると判断できたが、そのあと外堀を渡ったあとの経路がp62の記述と異なるので、別の1筋とした。

 以上計3筋について検討した。

備前藩において「官道」という表現がどういう意味を持つかを説明する史料は未読であるが、通行税を取るのでなければ、通行路を維持・管理することを目的とした定めだと思う。

特にこの区域は江戸時代岡山城下では政治経済上で中心地の一つだと思われ、幾筋もある道も整備が行き届いていたのではないかと思われる。旅する人々は官道だとか、庭瀬往来であるとかにこだわらず、それぞれの都合や好みに沿った道を選んでいたのだろうと思う。調査報告の記述に疑問を感じることもあるが、この区間に関してはそれはない。

常磐口御門を出る道

 まず常磐口御門を通る二筋について検討した。調査報告6での記述はそれぞれ次の通りである。なお、経路がわかりやすいように文章の順番を入れ替えた。([ ]は管理人注)

順路1(調査報告6p62)

[江戸時代の道順] (前略) 江戸時代は紙屋町、西大寺町から西へ向い、常磐口御門を出て外堀を渡る(中略)常磐口御門を西へ向えば尾上町、高砂町を通り、浜田町へ左折し大雲寺町へ出て、大雲寺御門を出た道に合流する。(以下略)

[現在の道順] (前略)今の地形でいえば、京橋から田町へ通じる道路を西へ向い、もとの外堀である柳川筋を越えて、ミゾテビルの角で左折し中央町の交差点へ出る。(以下略)

歩行記録鴨方往来1

順路2(調査報告6p3)

[江戸時代の道順] 記述なし。

[現在の道順] (前略)今の表町アーケード街の千日前に近いところから西大寺町に出て、新西大寺町をまっすぐ西に出て、電車通りを渡り、南におれて、旧国道2号線に出る。ここが大雲寺交差点で、北東の角の新西大寺町側に大雲寺がある。(略)旧国道2号線(現県道岡山・倉敷線)に沿って西に進むと、北側に景福寺がある。(以下略)

歩行記録:新西大寺町を西に出て、電車通りを渡るところまでは順路1と同じ。渡ったところのローソンの正面で左折し、電車通りの西側を大雲寺交差点に向う。右写真は大雲寺交差点。
田町入口 大雲寺交差点

大雲寺御門を出る道

順路3(調査報告6p62)

[江戸時代の道順] 常磐口御門の手前(東)で南に下(さが)り大雲寺御門を出て外堀を渡った。

[現在の道順](前略)大雲寺町御門を出る道は現在の表町三丁目十三番地の浅田文具店の西で左折し天瀬の交差点へ出る道(いわゆる細堀)である「岡山開府四百年記念誌」(後略)

歩行記録:表町三丁目千阿弥橋跡から南下し、時計台のところで西に曲がるところまでは、順路1及び2と同じ。 時計台のところから二つ目の交差点、交差するアーケードのない道から天瀬の交差点までがかっての細堀町であろう(写真左が曲がり角)。道を確認しているとき、お店の人が「あそこが細堀」と教えてくれた。文書や絵図で確認するのとは違って、歴史を実感した。

 目印の左側角にある浅田文具店は閉店になって久しいようだ。千阿弥橋の目印とされている林薬局も閉店されている。調査報告6が1993年に刊行されてから2015年まで22年の年月を感じさせる。岡山市民会館が移転してくれば、この辺もまた活気が出てくるだろうか。

 交差点の対角線のところに長谷川楽器がある。天瀬交差点までまっすぐ南進(右写真)。交差点で右(西)に折れて、大雲寺交差点に向う。
浅田文具 天瀬交差点

 広い旧2号線を西に進む。右手に大雲寺が見える。大雲寺交差点の角に町名碑がある。
(岡山市シティミュージアム岡山城下町探訪[地名由来碑] 大雲寺の町名碑:サイト確認平成28年3月14日)

大雲寺 大雲寺町名碑

道の検討

大雲寺辺の順路 現在の道でまとめると、左図のようになる。

 吉備温故の記述と比較するために、「くらべてみよう・・・」や「岡山城下町・・・」などを参考に、西大寺町や大雲寺辺の町と道路の様子を描いてみた。前者資料と後者資料は年代が異なる(「くらべてみよう・・・」は慶安年間(1648-1651)、「岡山城下町・・・」は文久3年(1863)に作成された「備前岡山地理家宅一枚図」を元にしている。)が、この辺の町の分布や外堀などに大きな変化はないようだ。

「くらべてみよう・・・」をもとに考えると、現在、外堀は埋め立てられて大部分南北の柳川筋(電車通り)になっている。外堀を渡る=柳川筋を渡ることである。

城下の絵図順路1
[現在の岡山の道]では、西大寺町のアーケードを西に進み、柳川筋を渡る。そこからさらに西進し、正覚寺の手前(田町交番のところ)で南に曲がり、中央町をまっすぐ進み、新京橋方面から来た旧2号線に合流している。
[江戸時代の道]でいうと西大寺町を西に進んで常磐町口御門を出て外堀を渡り、常磐町と尾上町のあいだを過ぎて、正覚寺の手前で南下し、高砂町、浜田町を経て、大雲寺町口御門を出て来た道と合流することになる。

[順路2]
[現在の道]では、柳川筋を渡ったあと、すぐに南下し、大雲寺交差点で、旧2号線と合流している。
[江戸時代の道]で考えると、外堀のすぐ西(もしかしたら土手道?)を南下し、大雲寺町口から来た道と合流することになる。

吉備温故
 この部分に関する吉備温故の記述は次の通りである。

「栄町千阿弥橋より 紙屋町。 西大寺町。 天瀬。 東中山下。 西中山下の虎口を経て常磐門を出る。尾上町。 常磐町。 高砂町。 浜田町。 大雲寺町。 瓦町。 西川。 庭瀬口組屋敷/あり。 (全文を見る)(吉備群書集成(七)、p349)

 吉備温故秘録の官道下 「岡山より備中国賀夜郡庭瀬駅に至る二里」の西川までの経路は、現在では順路1の経路である、と判断した。順路2の根拠となる資料は現在のところ未読である。


庭瀬口御門について

歴史の道調査報告6(p62)の記述

[江戸時代] (前略)元禄期の街並図(岡山大学蔵・牙城郭櫓実測図)では外堀が廿日(はつか)堀となっていて郭内に庭瀬口御門があり、千阿弥橋より、紙屋町・西大寺町と南下し、右折して庭瀬口御門にも出た。(後略)
 (管理人注)上記の道順をたどると、常磐口御門への経路と同じである。

その他の資料

「絵図で歩く岡山城下町」p102は大雲寺町についての記述で「外堀を渡った先(東)には大雲寺町口門があった。この門は18世紀初頭頃までは庭瀬口門と呼ばれ、町内の東西の通り筋は庭瀬往来であった。」という。また、大雲寺の町名碑にも同様の記述があり、「岡山市の地名」p153にも同様の記述がある。これらの根拠となった江戸時代の資料は未読だが、吉備温故の瓦町に関する記述などをあわせて類推できる。

 調査報告6p62でいう『郭内』は、外堀内を城郭と捉えた表現だと思われるが、典拠として記載されている「岡山大学蔵・牙城郭櫓実測図」をざっと見た範囲では庭瀬口門についての記述は見えなかった。(岡山大学附属図書館のホームページ[貴重資料・池田家文庫絵図公開データベース]で閲覧可能。今後、時間がある時に詳細に見る)。

庭瀬口について

 『庭瀬口』という言葉は多くの資料で見ることができるが、吉備温故に『瓦町』について「俗呼て庭瀬口といふ。是は備中国庭瀬への海道故に、かくはいふなり。」(群書集成7p273)とあり、また、岡山市の地名p245では『瓦町』の説明に「城下町の出口であったために、一般に庭瀬口と呼ばれた。」とある。同書ではp264で「西川にかかる八ノ橋の周辺を庭瀬口と呼ぶ」としており、少し位置がずれるが、要するに外堀のさらに外の町であると思う。

 庭瀬口御門は城から見て西側の外堀手前にあり、そこから外堀を渡った地域の両側が庭瀬口と呼ばれていた(正式な町名ではない)と思われる。両者とも庭瀬に行くときの出口の『門』、あるいは『庭瀬へ向うときの城下からの出口』の程度の意味で使われおり、厳密な定義はなかったと理解している。前記岡山大学附属図書館のサイトを始めとして、いくつかの城下図などを見たが、この地域にあるのは常磐町口御門以外には見当たらなかった。


天瀬について

 現在の岡山市北区天瀬は新京橋から大雲寺交差点に進む250号線より南の一帯なので混乱した。調べた結果を補足する。

 「岡山市の地名」p151-155では天瀬の地名に[現、表町三丁目・天瀬ほか]と補記している。さらに吉備温故巻之十一 城府上では、「九、天瀬」として「此より以下八町を惣て天瀬といふ。」として、荒神町、可真の町、大雲寺町口門の内町、細堀町、東西の町、紺屋町口門内町、袋町の七町を挙げている(群書集成7p230-232)。

これに関連して、「岡山市の地名」p151-155では(一町不足するが)『「元禄城下絵図」にある荒神町東を加えると八町になる。』と記述している。この両者の記述から、この時代の『天瀬』の領域が現在より北に広がっていることが分かった。


 大人になって岡山に住み始めた管理人にはほとんど土地勘がない。そのため資料を見ただけでは道の概要が飲み込めないことが多い。歩くとかなりのことが腑に落ちるが、それでも判然としないところをいくつかの資料を比較しながら整理したものである。岡山のことを熟知している方にはわかりきったことをくどくどと書いていると思われるかも知れないが、管理人の備忘としてお許し願いたい。

平成28年1月24日

参考文献
鴨方往来1
鴨方往来トップ
岡山の街道を歩く
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