鴨方往来・千阿弥橋から野田茶屋まで

鴨方往来1・千阿弥橋から野田茶屋まで

表町3丁目から野田までの略図

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 歩行日 平成27年1月23日(金) ※順路2は同1月28日、順路3は同12月26日調査のために再歩行 千阿弥橋跡~野田茶屋分岐(順路1) 距離 約 2.9キロ


起 点

(津山往来と一緒です。読み飛ばす場合はここをクリック

 吉備温故で官道の起点とする千阿弥橋があったのは、栄町(千阿弥町)と紙屋町の境界である(調査報告2p4他)。栄町は現在表町二丁目、紙屋町は表町三丁目となっている。南北に延びるアーケードと東西に伸びる道が交わる信号のない交差点が千阿弥橋のあったところである。

 東西に伸びる道は、かっては堀であった。東に目をやれば電車道りを越えてかって大手門があった方向まで見通せる。

 天満屋方面からは表町商店街と県庁筋が交差する信号交差点(天満屋デパートの北東端)からアーケードの下を南(西大寺町方向)に340メートルほど進んだところである。
 西大寺町方面からは、西大寺町の時計台(南時計台)から100メートルほど北(天満屋方面)に進む。

 下の写真は西大寺町を背にして、天満屋方面を向いたときのものである。天満屋方面の角の西にチャコット(Chacatt)岡山店、東にGalley & caffeがある。

千阿弥橋跡
 西大寺町方面の西の「林薬局」(調査報告6p62で目印として紹介している)は、シャッターが閉まったままである。東の角には「古今東西」という骨董品屋さんがある。(平成27年10月02日現在)。
林薬局 古今東西

 江戸時代の栄町は岡山城下町の行政の中心であり、町会所、札場(藩札と貨幣を交換する)、本陣や鐘撞き堂があった。(岡山の町人p11、片山新助著、岡山文庫117、日本文教出版、1985。吉備温故が記す栄町の記事を見る)。
 栄町の南に続く西大寺町(問屋、両替商、銭屋)、紙屋町、北に続く下之町から上之町までも繁栄した町筋であった。しかし、現在はほとんど何もない。この一帯は昭和20年6月29日の岡山空襲で灰燼に帰した。往事を偲ぶものは、いくつかの町名碑、「桃太郎ポケットの鐘撞堂の模型」と「乱投狐」の説明板くらいしかない。
(参考:鐘撞堂について、(乱投狐について)。
鐘撞堂


出発

 千阿弥橋跡から歩き始める。鴨方往来と金毘羅(下津井)往来は、栄町から野田茶屋まで同じ行程である。時計台に向かって南に進む。表町一丁目に新しい時計台ができたのでこちらは南時計台というそうだ。時計台の角を右折。西大寺商店街のアーケードを西に進む。

南時計台 西大寺町商店街

 


 この先、三通りの道を検討した。

 三通りの道を歩いてみたが、順路1を基準として記述する。(道の検討 (1)西大寺町から瓦町まで を参照)。


 アーケードを西に直進する(途中順路3との分岐がある)。アーケードを出てから電車通り(53号線)を横断する。横断が終わったところが順路2との分岐である。順路1は横断して、左写真正面の道を西に進む。左側にローソンがある(左写真)

 最初の信号のない交差点を左折する(右写真)。交差点の西北角には田町派出所がある。交差点を曲がらず少し先まで行くと正覚寺がある。
田町入口 田町

田町出口  中央町の飲み屋街をまっすぐ南に抜けると旧国道2号線の広い道に合流する。ここで三筋の順路が合流する。右(西)に曲がる。

 広い旧2号線の北側がかっての往来である(調査報告は縮尺が大きいので分かりにくい。「くらべてみよう江戸時代と現在のまち」がわかりやすい)。

瓦町町名碑  田町筋からの合流点から100メートルほど西に進むと中央町信号交差点である。そのまま直進すると、北側歩道の左側に旧瓦町の町名碑がある。信号の機器らしい大きな箱の陰に隠れて見落としやすい。季節によっては植え込みも伸びている。 町名碑によればかって瓦師が多く住んでいて、後には畳表を扱う町になった由。(岡山城下町探訪[地名由来碑]19.旧瓦町(岡山シティミュージアムデジタルアーカイブ:サイト確認平成28年3月14日)

瓦町交差点
 瓦町町名碑からさらに100メートルほど西に進めば、西川と遭遇する。交差したところが瓦町信号交差点である。往来はそのまま瓦町交差点を西に進む。 

 西川を渡る信号が「瓦橋」となっている。ここにもとは石橋があった(吉備温故 第二関梁。群書類従(一)p115)。面影は信号名以外残っていない。

 西川を渡らずに、東岸の道を右に曲がれば(角にサークルKがある)、40メートルほどで陰涼寺の門の前である。陰涼寺には、下僕七助が主人水野定之進を弔って建てた供養塔(三重の塔)がある。七助が西川の水を売って資金を貯めたことにより水塔と呼ばれる。[水野定之進と水塚について]

 西川には現在でも多くの橋が架かっているが、江戸時代も同様で、それらに数字をつけてn(数字)の橋と呼んだことが新旧さまざま資料に書いてある。  現在の瓦橋のところに架かっていた橋が「八の橋」というものと「九の橋」というものと二種類の資料があった。 北の方から一番、二番とつけたようだが、橋が増えて「八の橋」が「九の橋」と名称が変わったのではないか、と推測できるが、 どの橋がいつ頃増えた結果なのかは調べがつかなかった。

大供の交差点
 瓦橋を過ぎて、大供交差点もそのまま西に進む。屋上に塔が立っている瀬戸内海放送のあるKSB会館に近づいていく。

大供の分岐点  次の信号(KSB会館の先、日本たばこ産業岡山ビルの前)で道路を南側に渡る。写真は道路の北側から南側を眺めたところ。道路を渡った後は、正面に見えるPの字の看板がある駐車場と左側の6階建てのビルのあいだの道を進んでいく。Pの上にはHIRAKINと書いてある。

 通行量の少ない静かな道を進む。いくつか枝分かれするがまっすぐ道なりに進む。途中で岡山大供郵便局の前を通り、その先で右に広い道が分岐するが直進。さらに進むと右手に鹿田小学校が見える。

石別門神社手前の分岐  その先やや広い道が左に曲がるので迷うが、そのまま細い道を進む。

 道が細くなってからすぐに左手に石門別(いわとわけ)神社がある。かっては戸隠宮とされ、大供村の産土神である(調査報告第6,p62)。 式内社の石門別神社であると推定され、現在の名前になった経緯は岡山県神社庁のホームページ石別門神社 由緒に詳しい(2015/12/30確認)。
 鳥居から入ったところに「日月奉星風」と彫られた石板や鳥の石像などがあったが由来は分からなかった。なお、かってはこの神社のところまで「庭瀬口」と呼ばれた由(調査報告6、p63)
石門別神社鳥居 石門別神社の鳥と石碑

鹿田分岐  元の道に戻って直進すると、「かなみつ」というお店の前で、道が二つに分かれる(写真)。 ここは右に進む。

小田家 庄屋で宿屋もしていたと伝わる「小山家」らしい家(調査報告6、鴨方往来p63)がある。かっては旅館「谷清」を経営していた由(調査報告6、金毘羅往来p4)。

「小山家」から200メートルほど進むと、右手に石塀で囲んだなかに題目石と地水神が建立されている(地水神は壊れた常夜燈の陰に隠れて外からは見えにくい)。

大供の題目石  真ん中の題目碑には正面に「南無妙法蓮華経」、右面(東)には「天保二年歳正月吉日 五百五十遠忌奉謝馬」、左面(西)には「宗門繁栄並村中牛馬安全」と刻んでいる由(調査報告6、金比羅往来p4)。

 この題目石の左右に大正時代の題目碑と地水神碑がある。左の題目碑について、調査報告6、金比羅往来p4には、「明治の題目石」と書いてあるが、碑の背面に「大供表町信者 大正十四年七月十二日 建立」と読めた。

 他に「元此法塔字枝川×××内二 建立セシヲ有×町内信者ニ於テ譲受勧請?シ者也」(×は字があるが読めないもの、?は字があるかどうかもはっきりしないもの)などの文字が刻まれていた。

鹿田最後の交差点 西に向かって民家のあいだをほぼ直線に進む。100メートルくらい進むと、信号のある交差点に出会う。左側に同和エレベータ、右側にローソンがある道を直進する。

 交差点のあとも住宅の間の道を進む。それほど広い道ではない。

 5分足らずで宇野線の高架の下に到着。その手前右側(北)に御堂のようなものと題目碑がある。
宇野線高架 大供の題目石2番目

 宇野線の高架をくぐればそこから西之町である。右角に大供西之町公会堂がある。「小橋鮮魚店」という看板があったが営業はしていないようだった。これが、商人宿だった店だろうか(調査報告6、p63)。

鴨方往来と金比羅往来の分岐 住宅のあいだを西に進む。高架を過ぎてから500メートルほど進むと、信号のある交差点がある。交差点の北西角に「末広商店」がある。ここが鴨方往来と金比羅往来の分岐である。直進すれば鴨方往来を庭瀬を経由して鴨方に向かい、左折して南に下れば下津井へ向かう下津井(金比羅)往来である。  


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