松田氏の足跡をたどる2

松田氏の足跡をたどる2

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  1. 松田氏について
  2. 遺跡を訪ねる


松田氏の遺跡を訪ねる


富山城跡

 戦国初期、松田元隆(元澄)は、この城に拠って勢力を伸張させ、西備前を支配する金川松田氏の事実上の草分けとなった。金川松田氏滅亡以降は、備中に対する前衛基地として、宇喜多直家の弟浮田忠家が守った。(岡山の城めぐりp66-70)。

20年ほど前に機会があって登ったが、その頃は歴史に興味がなかったので採石場しか記憶にない。
 関西高校の裏にある矢坂山に構築された山城で、麓の北側を西国街道(山陽道)が通る。下の写真は、国道180号線、平津橋付近から撮った。
富山城
 位置、現状は下記サイトに詳しい。
7.富山城 岡山市の文化財探訪4 岡山市の城館 (サイト確認:平成28年8月19日)


福岡城跡

 西国街道(山陽道)は備前福岡で吉井川を越えた。東大川とも呼ばれる水路と陸路が交差している福岡は、「福岡千軒」と呼ばれる物資と人が集散する一大商業都市であった。

福岡合戦

 この時代、福岡城を巡る大きな戦いは二度ある。
 第一次「福岡合戦」は応仁の乱の時、山名方(西軍)が守る福岡城(守将、小鴨大和守)を、東軍に属する赤松政則が攻撃した文明元年のことである。この時攻城方が勝ち、赤松氏は播磨・備前・美作の旧領三カ国の守護に返り咲くことができた。
 第二次が松田元成が備前守護の赤松氏に反旗を翻し、備後守護山名氏の支援を取り付けて赤松・浦上軍と戦った文明十五年(1483)十一月から始まった攻防戦である。
 守城方の赤松・浦上軍は、浦上則国ら二千余騎が籠城し、周囲に野武士を配置した。攻城方は松田元成率いる千八百騎、援軍の備中勢一千三百余、さらに山名俊豊率いる援軍三千余騎が加勢する。攻城方は都合六千余になる。備前軍記のなかでは大規模な衝突に入る。
 長い籠城戦の末、翌文明十五年正月二十五日に守城方が城を捨て、攻城方の勝利に終わる。
 応援の備中勢・山名勢は引き上げたが、松田勢はこの勢いにのって三石城を攻め取ろうとそのまま戦いを継続した。そして松田元成は戦死する。
(岡山の城めぐりpp10-15、備前軍記巻第三 群書集成(三)p10-25)

福岡合戦の故地を訪ねる

 暑い盛りの平成28年8月7日、金川城に登ったあと川上氏と二人備前福岡へ行った。
 吉井川大橋の東詰の信号交差点から吉井川の東岸を下る(県道464号線)と右手に河原のゴルフ場がある。その中に福岡合戦が行われた河原(左写真。現地説明板による)と碑がある。石碑はゴルフ場内の小山にある。
福岡合戦河原 福岡城の石碑
 暑さにぼうっとしていて、小山の写真を撮り忘れたので、こちらを参照してください。
福岡城跡の丘[瀬戸内市] おかやまの自然公園 サイト確認:平成28年8月19日。
 近くに、渋染一揆集結の場所の碑もあった。
渋染め一揆石碑

 ゴルフ場内の小山(瀬戸内市)よりは、吉井川西岸、岡山市東区寺山地区の丘が福岡城があった場所だというのが有力な説だというので、西岸の土手を回ったが、上り口が分からなかった。上の吉井川の河原(古戦場)の写真の遠景がその山だと思われる。下の写真は、吉井川西詰からそちらの方向を撮ったもの。
福岡城の遠景

 吉井川の西岸には、備前福岡の古跡があちこちにある。備前福岡郷土館は団体予約の日で、見学できなかったが、落ち着いた外観だった。
常夜燈 郷土館


金川城(玉松城)跡

 松田元成が拠点を富山城(岡山市北区矢坂山)から金川城に移したのは、父元隆の死去した文明5年(1473)のあと、文明12年(1480)だとされるが、福岡合戦が行われた文明15年(1483)には、城として完成の域に達していたと思われる。その後、永禄11年(1568)に落城するまで五代九十年、松田一族はこの城に拠った。その頃金川は西備前の『首都』だったのではないか。
 そのあいだ周囲の旧勢力・新勢力との争いの連続であったことは、元成から元輝までの五人の左近将監(金川松田氏は代々左近将監を名乗っていた)と、次代の将監になったであろう元賢(孫次郎)の六人のうち、四人が戦死していることで想像できる。それが戦国時代なのだ、と思う。

 松田氏の衰退は、松田元勝が天王寺合戦で戦死したことに始まるのではないか。その後尼子氏と結び、勢力を維持しようとしたが、浦上氏とその臣宇喜多直家の台頭により龍ノ口城などの前線基地を落とされた。尼子氏が衰えたことにより、後ろ盾を失ったため宇喜多と婚姻を結んだりしたが、最終的に滅ぼされた。

 備前軍記では、松田氏の日蓮宗への過剰な信仰による士卒・領民の離反に衰退の原因を求める。さらに宇喜多秀家の調略によって、松田家を支えた重臣の離反もあるとする。
 落城した戦いのきっかけは、松田氏の拠点のひとつである虎倉城の城主伊賀久隆の裏切りによる。背後に、宇喜多秀家の調略があった。
 永禄11年(1568)7月5日久隆は金川城道林寺丸に伏兵を忍ばせ、攻撃の火ぶたを切った。ただし、最初は言葉合戦というから口げんかか。
 その最中に当主元輝が撃たれて死ぬ(「搏つ」とある。その前の文章とあわせて鉄砲で撃たれたと解釈した)。おそらく尾根の上の建物間でのことだと思われるが、当主が口げんかの最中に鉄砲で撃たれる(弓で射られても同じ)のは、どこか間抜けな感じがする。
 嫡子元賢が指揮をとるが、結局7日払暁元賢兄弟は城から立ち退いて落ちていった。
 新釈備前軍記p184-189、備前軍記(群書集成(三)p79-81、御津町史などを参考に管理人作成。

 観波橋を渡るとき正面に見える小山が臥龍山(左写真)。国土地理院の地図では「城山」と書かれている。龍が寝ている姿のようだという。右の写真は下田大上踏切から見た臥龍山。本丸などの位置は「郷土史 金川ものがたり」p2を参考にした。
観波橋から臥龍山観波橋から臥龍山

金川城跡(玉松城) おかやま旅ネット。
金川<かながわ>城跡  岡山の中世城館跡 岡山県古代吉備文化財センター (サイト確認:平成28年8月2日)


金川城跡に登る

 平成28年8月7日、川上氏と二人、猛暑のなかを登った。
 「かながわSAKAGURA」の角を西に進んで、妙覚寺を右に見て、津山線のガードをくぐったところに上り口がある(左写真)。車は少し先、左側にある御津郷土歴史資料館の前に置かせてもらった(事前に許可をもらっていた)。

 津山線のガードをくぐって進むと右手に難波抱節旧宅の長屋門がある。
金川城入口 金川城登り口

難波抱節宅 難波抱節
 難波立愿(りゅうげん)。江戸時代末期の医師。抱節は号。日置氏の侍医の家に養子に入る。
 京都へ遊学、産科、内科、外科を学んだのち、金川村で開業。また学塾を設け、門人を教育した。嘉永3年(1850)に足守で除痘館を開いていた緒方洪庵に牛痘苗を分けてもらい、金川地方で種痘を行った。
 安政6年(1859)コレラ流行の際、治療に当たったが自らも罹患し、死亡。
(岡山県大百科下p382を参考にした)

 山陽道を歩いているとき、広島で嘉永2年(1849)に種痘を始めた三宅薫庵のことを知った。ジェンナーが牛痘による種痘法を発表した1798年から日本に伝わるまでと、日本に伝わってから(長崎で行われた1849年を日本の黎明とする)日本国内に伝わる時間を比べると後者の方が圧倒的に短い。医師達の先進性と努力が窺われる。

 ガードのところから15分ほどで、道林寺丸跡に到着。金川松田氏が滅亡した戦いにおいて、虎倉城主伊賀久隆が、ここに兵を忍ばせたという(備前軍記。群書集成(三)p80)。今は道標があるだけで何もない。
 松田氏が設けたという日蓮宗の道場道林房は、尾根をもう少し南に行ったところにあるようだ(頂上の説明板の地図から推測)。
 道林房は、金川城落城の20年後の天正17年に岡山市北区御津中山に再興された。(道林寺・鳴瀧神社
金川城道林寺丸看板 金川城道林寺丸跡

 林の中を登っていく。地上はほとんど見えないが、林が切れているところからの眺めは良い。かっては一望に見渡せたのだろう。
金川城展望

 しばらく登ると本丸跡の広場に出る。右写真は上から「妙」「法」「蓮」「華」基部に「経 松田一族主従之霊」と刻んだ五輪塔。供養塔だと思われる。
金川城本丸01 金川城碑

 近くに玉松城碑がある。裏面には松田姓の名前が並ぶ。戦国時代の山城だから、戦時の防塞で、居住はしてなかったと思うが、それでも松田氏の一族郎党がこの地で戦い死んだところだ。
 本丸から北の丸へ向う途中の石組み。
玉松城碑 金川城石組

 北の丸。その先、堀切。
金川城北の丸 金川城堀切


松田氏以後の金川城

 詳細は不明であるが、宇喜多氏、小早川氏など備前を所領とした武将の支配下にあったようだ(御津町史p161)。松田氏落城のとき、城を焼いたという記述は備前軍記にはない。補修して使えたのかも知れない。

 天正六年(1578)毛利軍が備前に侵攻したとき、宇喜多春家(宇喜多直家の異母弟)が金川城を守り抜いたという記述が備前軍記巻四にある。
 小早川の時代に城の改修が行われ、建部町西原から石材が運ばれた(御津町史p161) 。
 江戸時代に日置氏の管理下にあったことはもちろん推測できるが、日置氏金川二代の日置忠治が、石垣修理について相談(内談)した記録の中に「金川ノ古城ヲ取立テ」という記述があり、その後、一国一城令に基づき石垣を割り崩したことが書いてある(同p189-190)。その辺までは城として形をとどめていたと思われる。

 明治九年、日蓮宗不受不施派の再興が許可された際、旧難波抱節家宅を龍華教院(現妙覚寺)とした際、整備のために金川城の石材を三円五十銭で購入し、使用した(郷土史 金川ものがたりp114)。この時代、幕藩体制は否定され、あちこちで城が壊され、売却された。岡山県内でも津山城が売却され、(岡山県大百科下p225)城郭はほとんど残っていない。廃城になって久しい金川城の部材など問題にもならなかっただろう。
(下は妙覚寺であるが、どの部分に金川城の石垣が使われたかは不明)
妙国寺


松田氏を供養する石碑

松田元成・大村盛恒墓所

 金川松田氏の中興の祖、松田元成は文明16年(1484)福岡合戦の後勢いをかって三石城を攻めた。しかし、東天王原(福岡城より吉井川の上流)の戦いで深手を負い、金川まで帰ることができず、磐梨郡矢上村(現在の岡山市東区瀬戸町塩納)の山の池で自害。そこへ行きあった家臣大村守恒もその場で腹を切って死んだ。
 松田元成の嫡男元勝が、その地に大乗寺を興し、墓碑を建てた。
大乗寺は寛文の寺院整理で廃寺となった。

松田元成、大村盛恒墓所 観光・文化・イベント 岡山市のホームページ サイト確認:平成28年7月31日)


 福岡城跡を見学したあと、カーナビを頼りに岡山市東区瀬戸町塩納まで行った。8月7日のことである。塩納では、道路工事中で道が分からなかった。工事中のトンネルに向う道路の左側を登る。道は狭い。
 現地につくと案内板があった。ここも工事中だったので最後は民家の横を通った。工事が完成したら、普通に道を通っていけるかも知れない。向って右が元成の墓(無縫塔というらしい:説明板)、左の五輪塔が守恒の墓である(同前)。
松田元成墓所

 単に力尽きた場所というよりは小さな砦くらいあったのかも知れない。現地説明板にも山の池は東備前の拠点とあった。また、大村出雲が「行きあった」という表現は、偶然行きあったというより、尼子家に用事で出向いていてその結果を報告に来たと考える。

 近くに平野神社がある(左写真)。路傍に小さな五輪塔があった。さらに地図にあった参拾番神社は竹林の中にあった。地元の人に尋ねてやっと分かった。
平野神社 五輪塔


妙国院の供養塔

 松田氏を供養する石碑が二基、SAKAGURAの向いの妙国院にある。
 管理人達は金川城跡を見るために臥龍山に登った後、妙国院へ参った(平成28年8月27日)。前庭にある五輪塔(左写真)は元和二年(1616)に松田氏供養のために建立され、見谷から妙国院が移転したのに伴い移された。(御津町史p805)。
 左奥にある松田氏供養塔(右写真)については、御津町史[(6)石造美術]の項に記述がないが、「郷土史 金川ものがたり」p77-78に「寛政十二年(1798)玉松城主十三代の供養塔」とある。
松田氏供養塔 妙国院五輪塔


妙国寺

 妙国寺は金川松田氏の菩提寺で、松田氏の力を背景に備前と美作の法華宗寺院を統制していたようだ。妙国とは松田元成の法号であり、同じく松田氏の法号を寺名とした妙善寺(元隆:元成の父)、道林寺(元方:元隆の祖父)と連携をとっていたと想像するが、それがいつまで続いたか、寛文の寺院整理のときに道林寺が廃寺を逃れていたので、疑問が残る。
 傘下の寺院は岡山市史では50余、御津町史では末寺120余とする。(塔頭などの数え方の差だと思うが、寛文元年妙国寺本末誓約書に掲載された「不受不施の義」を守る誓約書に関連して掲載された寺房は100を越える。御津町史p325)。
 この頃、金川の山屋敷にあったようだ。妙国寺の南(後の侍屋敷地)2町に末寺10寺が建っていたという。2町に10のお寺というと、1寺はかなり狭いと思う。また、山屋敷近辺の地形などを考えて、妙国寺そのものもそれほど巨刹ではなかった、と想像する。

 永禄十一年(1568)金川城の落城で松田氏が滅亡したあとも、その地位は変わらなかったようだが(前記誓約書が出されたのは、1661年。松田氏滅亡後93年後である)、落城時焼けたとされる寺院の建物などがどうであったか、慶安元年(1648)に見谷に再建されるまではっきりしない。

 この時代、不受不施に対する圧力は強まっていたと思われるが、本寺末寺一同に不受不施を堅固しよう、という誓約書をとりまとめている。
 しかし、再建の19年後、寛文六年(1666)の寺院整理により、妙善寺及び多数の末寺とともに廃寺となった。この時廃寺となった多くの寺と同じく、その後再建はされなかったようだ。(金川に妙国院があり、松田氏の供養塔などを見谷から移設しているようだが御津町史では、関係に触れていない。また備前市の妙国寺は別系統のお寺であるようだ)。
 「岡山市史(昭和43年版)・宗教教育編」p133-134、「御津町史」p323-327から管理人がまとめた。

 備前法華の核のひとつであった妙国寺につながるものとして、妙国寺文書と呼ばれる古文書が金川妙覚寺に伝わっている。しかし、一般に見学できる建造物や碑はほとんどない。
 同寺が廃寺になった跡に建てられた陣屋の石垣(左写真)が残るが、これが陣屋として新しく構築されたのか、妙国寺から引き継いだものかは不明である。
 また、現在御津こども園や金川病院のあるところの西(津山線の西)にある墓地(右写真)の辺が妙国寺が再興なった「見谷」だと地元の人が教えてくれた。墓地に行ったが、「郷土史金川ものがたり」p77-78にある妙国寺歴代の墓塔は未確認である。
金川陣屋石垣 見谷


七曲神社

 七曲神社は、金川にあるもと村社である。松田氏が相模国から勧請したといわれる。岡山県御津郡誌p121では「一説に尾張七曲神社を移し祀れるもの」という。金川城落城後、宇垣郷佐波(さば)に移され衰退し、日置氏により寛文九年に元の位置に戻され、再興された。現在の七曲神社と松田氏の関連が把握できていないので、日置氏との関連で記述した。
日置氏の時代の七曲神社

七曲神社 岡山県の神社 岡山県神社庁(サイト確認:平成28年8月20日)

一応確認していますが、混乱しているためまだまちがいがあるかも知れません。今後追加修正の可能性があります。



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