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往来に関係したものは津山往来03-2 観波橋から中吉端に記載した。往来歩行時に割愛したり見落としたものを後日散策し、以下の記録にまとめた。
岡山県御津郡誌p315はいう。『今の男爵日置家は池田藩国老の一にして禄高一萬六千石金川を采地とし。岡山に本邸ありて常住としたれとも金川にも邸宅あり、(今の小学校地)家臣は岡山金川両地に従せり。』
左写真は現在の「岡山市北区御津支所」の石垣。この石垣の上の道路際角に金川小学校跡の石碑がある。

岡山県御津郡誌p315では、明治二年の日置家の家老三人のうち、最も知行が高い津田孫右衛門は岡山詰である。さらに上位の武士のうち物頭8人中6人、横目3人全員が岡山詰である。
家臣も岡山詰の者がかなりいたと推測できる。神戸事件に関連して、「瀧善三郎自裁之記」を書いた篠岡八郎は、金川の本宅に当主である父が居住し、当人は榎馬場の日置邸に住んでいた、と書かれている。中央政府の変革期であることの影響も大きいとは思うが、日置家の当主の活動が岡山城下中心であったことを示している。
そのことは、当主の墓所にも現れている。金川を知行とされたあとも同地に墓所があるのは日置忠治だけであり、他の当主の多くは岡山の寺院松琴寺が墓所である(岡山県通史下p311-316)。
また、日置氏の菩提寺は大光院という京都の寺で、これは明治二年の侍帳(前記資料p317)によると150石50俵を支給している。こちらにも墓碑がある。(「神戸事件瀧善三郎正信の京師大光院跡収骨之碑確認報告 」、御津町瀧善三郎を偲ぶ会、1989)
陣屋町というのはどんなものかと、金川の町についていろいろ調べているうちに、支店みたいなものだなあ、という結論に達した。
藩とか時代によって異なるだろうが、池田光政の治政中に実施された藩主(=藩庁)への権力の集中化の結果、家老の知行地であっても知行主が領民を支配する力はそれほど強くなかったようだ。
知行地の年貢(物成)は知行を受けている知行主(給人)に納められ、知行主の受け取り分以外は藩庫へ搬入していた(「岡山藩」p.116。以下同書)が、税率(免)は藩が一元的に決定する(p76)。基本的に裁判権もない(P79)。飢饉の時の救済も藩が行う(同前)。
基本的な方針の決定権は本社にあり、人事権や懲罰権も基本的に本社が持っている。なおかつ独立採算ではなく、損益は会社全体で見る。そういう感じかも知れないなあ、と思ったのである。
そういう意味で言えば、知行家の家来を除けば、知行主に対する畏敬の念はそれほど大きくないかも知れない。かって鴨方往来を歩いたときに「庭瀬城」の看板ばかりで「庭瀬陣屋」の看板がなかったこともこれと関係があるかも知れない、と妄想は次々に広がっていく。
臥龍山の中腹に向って、階段を上る。左写真は祭りのときなので、階段沿いに子供が描いたぼんぼりが並ぶ。
階段を上り詰めたところにある随神門(寺院の門は山門、神社の門はこう呼ぶらしい)にも注連縄が渡されている。

拝殿(左写真)には提灯が下げられている。神事が終わって神輿や獅子舞は氏子の町へ巡行に出払っている。前にある椅子のようなものは神輿の馬か。
その奥の本殿を備前焼きの狛犬が守る。

右側にある社務所。
社務所入口の屋根は武仙殿のものである。武仙殿は今はなく、「大倭武選三十六仙の図」は現在は神社(拝殿か?)にあると地元の人に聞いた。通常は拝観できないようだ。
時間的には下の写真が先。東町?新船町?を巡っている。鳴り物は鉦が中心でやや寂しいが、唄が面白かった。
旋律は備前太鼓唄で、一番の「備前岡山 西大寺町 大火事に 今屋が火元で五十五軒・・・」だけはそのまま歌い、二番から宇甘川などを読み込んでいく。聞きながら思わず笑った。『おまえの××が大きいとて、こまいとて』(ああ、こりゃこりゃ)『千石船の帆柱にはなりゃすまい』(なりゃすまい)以下ここには書けない。作者を尋ねたが不詳。

獅子舞は基本二人遣い。家々を回って演舞する。お祓いなのかも知れない。七曲神社獅子舞保存会がある。

日置忠俊の母、慶授院保室妙裕大姉の供養のために、日置忠明が宝永三年(1706)に建立(ここまで御津町史p807)。側面に『花園正法派下[枯]木衆人誌之』([ ]は推測)と刻んである。背面にも漢文が刻んである。御津郷土資料館の方に教えていただいて、墓所のある場所へ行ってみた。結局は断念したが、その記録を以下に綴る。
御津高津大谷への経路はいくつか教えてもらったが、国道53号線からは御津スポーツパークを目ざして行くのがわかりやすいと思う。
県道31号線で宇甘川沿いに進み、箕地橋で宇甘川を渡る。しばらく行くと右側にあるスポーツパークの駐車場から南を見たとき、目の前の山の中に墓所がある。
スポーツパークの南側を東西に走る県道31号線のもう一筋南側の山際を農業道が走る。徒歩で行くなら、JAから少し西に県道を進んだところに南に向う細い道に入る。車であれば、県道をスポーツパークから200メートルほど走る(途中左側にヤマザキYショップがある)と右に入る鋭角の分岐に入って、しばらく戻る。ただし、駐車する場所はない。
山の中に入る道は何本かあるらしいが、入り口に看板などがないので(前は立てていた由)これも教えていただいたなかで一番わかりやすい道。山際に大谷宝篋印塔の案内板がある(山際を東に行くと『大谷五輪塔』の案内板がある。それと間違えないように)。
その少し西側に墓地へ入る階段、その横に山に入る道がある。墓地経由でも同じ道だが、右の山道に入る。この道自体は宝篋印塔へ行く道であるが先で合流する由。

森の中を進み、道が下がぬかるんでいて運動靴がどろどろになった。猪の掘り返した跡もある。最近は猪がよく出る。昼日中、峠道で車の横を大きい猪が併走した経験を持ちなおかつ夕暮れ時親子連れや単独の猪に遭遇した経験を持つ管理人は『猪は夜行性だから昼は大丈夫』という説を半分しか信じてはいない。
目の前に猪のワナ(檻式:中に餌を入れて猪が入ると入口が閉まる)を目にした時、得物も持ってないし一人じゃちょっと怖いね、と判断して引き返した。御津の公民館が数年前に歩行会をやったようだ。この次の機会を待つことにした。ちなみに、江戸時代初期に山狩りをすると猪より鹿などが多かった由(出典失念)。
右写真が該当の山である。東側の県道沿いから撮った。標高はたいしたことないが、山が続く。入口は山波が低くなったところ。ちょうど電信柱が重なっているあたりだと思う。その先に狩の野立所があった。
藩主など狩りの中心となる者がここで待ち、大勢の勢子が周囲からそこへ獣を追って来る。勢子は数百、数千人(※)になることがあり、多くの農民が動員された。若干の日当は出されたようだ。田畑を荒らす鹿や猪を減らすことができるし、名誉に感じる者もいたとは思うが、動員される側の苦労は大きいと思う。
※ 延宝八年(1680)2月18日、池田光政が行った狩猟の総勢2,279名。勢子だけでなく全参加者と思われる。(御津町史p1013)

岡山の墓所については上記参照松琴寺
『日蓮宗(不受不施)』は、江戸時代のほとんどの期間を禁教だった。宗門に関する届けに関しても切支丹、不受不施ではない、と証明する必要があった。
しかし、千葉県や岡山県には隠れた信徒が数多くいた。彼らは隠密の組織を通じて、代々信仰を維持した。
(以下は岡山県大百科下p932より) 幕末から釈日正により日蓮宗不受不施派再興運動がおこされ、明治9年(1876年)4月10日、日蓮宗不受不施派公許が公布された。同年6月、日正は金川の蘭医難波抱節邸を買収し、<龍華教院>と名づけ同派の拠点とした。明治12年(1879)龍華教院の本堂が建立落成し、明治15年(1882)には龍華山妙覚寺の公称が許可され、明治17年(1884)9月に同寺が同派の本山となった。妙覚寺の寺号は、寛永7(1630)京都妙覚寺が身延派の手に渡るとき、妙覚寺僧侶であった日船らが出寺に際し、同寺宗徒と不受不施同心の連署をして、時至らば妙覚寺を再興すると誓書をしたことに由来すると言われている。(以下略。和暦と西暦とを入れ替え、句読点を変更した)。
正面の門は開いている。拝観の許可をもらおうと思ったが、どなたもいない。

右写真の梵鐘は、建長4年(1252)に鋳造され、その後妙覚寺に収まるまで転々としたので六遷の鐘と呼ばれる。また、豊臣秀吉の高松城攻めの陣鐘であった(御津町史p776)。岡山県指定重要文化財である。

また、備前法華の中心的役割を果たした妙国寺に関する古文書もある。この地の庄屋であった江田氏の家に伝えられていたものである。
背後の山裾に石碑が並ぶ。墓碑か?

本覚寺は国道53号線沿いにある。日蓮宗不受不施講門派は明治15年(1882)に再興が許可され、明治21年に本堂を建立、明治23年に山号が許可された。現在の建物は再建。ここにも多数の古文書が保管されている。(岡山県大百科下p786)