津山往来3-2 観波(みなみ)橋から中吉橋(建部町)

 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
 地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。

辛香峠から中吉橋(建部)までの略図 二、作州福渡に至る惣計六里八町十間。 (略)金川驛。建部上村に至る二里。此金川は老臣日置家の在所なり、古城跡あ/り。臥龍山といふ、松田家代々居城なり。
宇甘川。下田村。一里塚。みのぢの嵶。西原村。中田村。(太字でないところは割書)
吉備温故巻之十七


 歩行日 平成27年10月9日(金) 距離 約 6.7キロ(観波橋南詰から中吉橋からのまで)


観波橋を渡る 観波橋を渡る。吉備温故によれば、金川から出石町まで4里6町(16.4キロ)である。
 正面に見えるのは「臥龍(がりゅう)山」。戦国時代の備前守護代であった松田氏が、5代90年に渡って居を構えた。
松田氏の足跡をたどる
 左下が、かっての船着場の跡のようだ。

 金川の町は、ただ通ればなんということのない田舎であるが、調べながら歩くと、複層的な歴史の町である。この時はとにかく『箕地峠』という難所を越えることが大きな課題だったので、道路元標や船着場を探しただけだったが、後日金川探訪をした。(金川歴史散歩

宇甘川の船着場  観波橋を渡ってすぐの土手道を右手に曲がって、50メートルほど進んだところにある階段で川原に降りる。その辺が現存する舟着き場である、ということだが、中段の石垣がその名残だろうか。左写真は、川原から振り返って観波橋方面を撮った。左側が宇甘川。調査報告2の地図には2カ所の記載があったが、もう一カ所については後述。なお、説明板等は見つけることができなかった。

 実際は、観波橋を渡ったあと、舟着場の場所を尋ねながら進み、「かながわSAKAGURA(酒蔵)」まで歩いていた。尋ねた範囲では地元の人も分からずに、結局SAKAGURAの人に教えてもらって後戻りした。時系列で記述すると混乱しそうなので、順番にいけるよう若干修正した。

 舟着き場を探す過程で、宇甘川のあいだの北岸を東に進んで、御津高校の東南端で題目石、常夜燈、小さな石碑に出会った(左写真。背後は御津高校)。さらに、まちがえて53号線を越えて旭川河畔(右写真、左側は旭川)まで行った。

 調査報告2には記載されていなかったが、御津町史p283に「東町旭川岸の川戸」の写真(昭和10年頃)が掲載されている。また、金川町史に掲載されている金川古地図などを見ても、旭川沿いに川港(川戸)が整備され、高瀬船らしいものが停泊している。現在53号線が通っている辺りが川戸だったようだ。旭川の改修や道路整備の影響で、跡形もないが、雰囲気は感じられる。
ただし、写真の舟は単なる川船で、実際の高瀬舟はもっと大きい。
常夜燈 旭川河原

 元の道に戻る。観波橋を渡って北に進み、最初の信号交差点(御津高西)。左角に旧商家風の建物「かながわSAKAGURA」がある。津山往来はSAKAGURAの角を左折して西へ向かう。
御津校西交差点 かながわSAKAGURA

 正面の道は、北区役所御津支所の前を通って、53号線と合流する。支所の石垣は、かっての陣屋の遺構である。「江戸時代初期金川古地図」によれば、この辺から侍屋敷の区域だった。

 曲がり角、SAKAGURAの塀の奥に道路元標がある。「金川町」という文字が読める。
SAKAGURAの建物の正面に「東武藤家 邸宅、酒場跡」の石碑がある。SAKAGURAのホームページ(サイト確認:2015/10/27)によると、西武藤と呼ばれる本家から独立して酒造業を興したのが東武藤だった。「竹の露」という酒を販売していたが、平成5(1993)年に廃業し(営業はだいぶ前から行っていなかったようだ)、現在のSAKAGUAに改修された由。西武藤は現在の岡山市御津郷土歴史資料館(以下歴史資料館)のところにあっと聞いた。
道路元標 東武藤

 後日、臥龍山に登ったとき、登山後、個人宅に保管されている嘉永二年(1849)の道標を拝見することができた。

金川の道標「(正面)右をか山 板くらみや内 (右側面)左作州道 (左側面)嘉永二年己酉八月」と記され、現交差点である旧往来の曲がり角に建っていた。(調査報告2p11:同書には氏名が掲載されていたがインターネットサイトであることを考慮して伏せた。)

 宇甘川に並行して道が西に延びる。江戸時代は両側に商家が並んでいた。高瀬舟が川を行き交い、人々や馬が往来を歩いていたことだろう。しばらく進むと右手に七曲神社の鳥居が見える。七曲神社はその奥の山腹にある。左写真、上の方に小さく写っている。
 鳥居がある広場の奥に神戸事件で切腹したの瀧善三郎の「義烈碑」がある。 七曲神社の鳥居 瀧善三郎記念碑

 鳥居の次に妙覚寺がある。竜華山妙覚寺は日蓮宗不受不施派の祖山である(御津町史、p246。岡山県大百科下p932では「本山」と書かれている。機能としては本山であるが、名称はそれぞれが相応しいと思うものを名乗るものと解釈している)。不受不施派は長い禁教のあと、明治9年再興を許可された。
妙覚寺前の道

 この日は七曲神社、妙覚寺、難波抱節居宅跡は見学せずに過ぎる。このあと通行可否が不明な箕地峠を通過しないといけないのに、舟着場を探してかなり時間を消費したためだ。(後日見学した。記録:金川歴史散歩。上記と同じ内容である。)

 津山線のガードをくぐる。この辺はかっての陣屋町の西山下口の由。
 その先左手に歴史資料館がある。
津山線のガード 歴史資料館

船着場 歴史資料館で舟着き場について尋ね、観波橋より上流(御津高のところのは旭川の出口手前)の舟着き場を教えてもらう。歴史資料館裏を流れる宇甘川を少し下ったところに石垣があった。その後、歴史資料館で昼食(許可をもらって空きスペースで)。

 歴史資料館から200メートルほど進むと町外れになり、宇甘川側の高くなったところに「文化十二年六月十四日」と書かれた常夜燈と地蔵尊を祀った祠がある。御津町史p809から推測すれば、これは水神を祀る「西町灯籠」だろう。
金川西町 西町常夜燈

 調査報告2p11では町の西門のところから一度宇甘川を南に渡り、山際を回って再び宇甘川を北に渡って西に向うとなっている。こんなややこしいことをするのは、攻撃に対する町(ひいては備前藩)の防御のためだという。そのため、宇甘川を渡るのはいつでも落とせる板橋だった。
 金川の町中江見商店のところを宇甘川に向けて曲がると、板橋がある。地元の人に尋ねると、金川から宇甘川を渡った板橋はこの前後にあったのではないか、ということだった。
板橋への分岐 板橋

 板橋を渡ってみた。山沿いを歩いていたと思われるが、道がないので土手道をしばらく歩くと、山の方に向って道があったが、その先は墓地で行き止まりだった。
行き止まりの道

 結局、宇甘川を渡り戻した地点は分からなかった。歴史資料館のボランティアの方は「金川の町のはずれの道鏡辺、山が迫っているところの西ではないか、と推測している」といわれた。
 県道は山を削って通しているので、かっては小さな峠になっていたのか、などと想像したが、結論は出ていない。(写真は対岸から撮っている)
箕地峠へ向う

 郷土史かながわものがたり、p111の「西町砲台絵図」では、河原を渡って菅村の方まで往来が延びている。そこで分岐して、津山往来は箕地峠へ向う。
 絵図を見たいと思い、御津図書館のカウンターの方にお尋ねした。参考調査として編者に電話をして下さったが、個人蔵のものを参考にしており、現在は閲覧は困難である、という回答をいただいた。

幕末の慶応二年(1866)、第二回長州征討に際し、道鏡に大砲を置いた(御津町史p1029年表及び郷土史金川ものがたりp111)。岡山藩が設置したと思われるが、イギリス製のモルチール砲だという。詳細は省くが、幕末のある時点から岡山藩は勤王になり、あちこちに兵を派遣したり、周囲を説得したりしていたようだ。

 さらに、御津町史p949によれば、ここに道境狐という狐がいて、川の中に人間を引っ張りこんだ、という伝説がある。栄町の乱投狐に次いで、津山往来で聞く二匹目の狐の話であるが、少し凶悪である。

 いろんな逸話がある道鏡付近も今は県道が西に延びているだけである。調査報告2の地図では、箕地橋まで高梁へ行く道と重なる。宇甘川の横をゆるく曲がりながら西に延びる。途中で御津工業団地へ向かう道が宇甘川を橋で渡るが、往来は箕地橋に向かって直進。

 宇甘川に沿いながらJR津山線に近づいていく。左に大きく曲がって宇甘川を越える橋が箕地橋である(左写真)。津山線は宇甘川を渡らず、箕地橋の手前で右に曲がりながら山の中に入っていく。津山往来も津山線に従って、宇甘川の北岸をそのまま直進する。
 分岐を入ってすぐ右手に文字がはげかけた看板がある。南北朝の刀工雲生の居宅跡についての説明である。鵜飼派という刀鍛冶の流派があった由。初代雲生をはじめとして雲次、雲重など御津町史p116や岡山県大百科上p221などの資料に載っている刀鍛冶の名前にはみな“雲”という字がある。
箕地橋前 ”宇甘刀の看板"

 箕地橋の分岐から200~300メートル進むと道はさらに二つに分かれる。
 分岐点に道標があった。高さは30センチほど「右 たけべ道」「左 なかいずみ」と刻んである。この表記は「岡山の街道」p55に掲載されている写真の道標と同じである。
 文字を確認するため強く触ったら動いた。埋めているのではなくただ置いているのだった。経緯は分からない。
箕地峠への分岐 道標

 右側の緩やかな細い上り道に進む。軽トラが通るくらいの幅だ。いよいよ箕地峠へ向かう。吉備温故 官道下でいう「みのぢの嵶(たわ)。」である。

は「たお」あるいは「たわ」と読む。峠を意味する。方言文字と呼ばれるもので、国字。(参考:漢字文化資料館。サイト確認:2015/10/27)

 軽トラの轍がある土の道をしばらく進むと右側に一里塚跡の説明板がある。それによると箕地峠を越える津山往来は、明治二〇年頃旭川沿いの県道(今の国道53号線)が整備されてからさびれたそうだ。旧御津町内に一里塚はここ以外に野々口と富谷にあった。
箕地峠への道 一里塚看板

 道は津山線の西側を寄り添うようにゆっくり上っていく。草道ではあるが通るのにそれほど不自由はない。

 道標のあった分岐から15分(一里塚の説明板からは10分)ほど進むと、左手に高い電話のアンテナ?がある。その先は、草の壁(左写真)。ただし、人の背ほどの高さなので先日の辛香峠よりは組みやすしと考え進むことにした。
 鎌が威力を発揮。10分ほど進む(右写真)。
藪に突入 藪の中

 右を行く津山線に対して道がだんだん高くなるので、落ちないように気をつける。そして、津山線はトンネルの中に姿を消す。クサコギが続く。ときどき野茨がある。
 藪(中心は笹ではなく雑木、草、茨)の中に道の痕跡(下藪が何となく薄い)が続き、しばらくして分岐がある。

 最初右に行ってみるが、雑木が増えてとても進めた状況ではなくなったので、高いところに上って確認すると、左側に側溝(中は草ボウボウ)と電信柱が見えた。それが往来かどうかはともかく、電信柱があれば管理のために人が来ているはずだと考え、さっきの分岐にもどり、壊れそうな小さな板橋(溝に板を置いたという感じ)を渡って左に進む。(この辺は余裕がなく写真を撮っていない)。電柱からは少し離れた溝の横にうっすら道があり、そのうち鎌がなくても、歩けるようになった。漆よけや蛇よけに木の杖を振り回しながら進んだ。

 左写真はヤブコギに突入してから30分を経過したころ。隙間がだいぶ増えた。前に比べれば歩きやすい道になってから、もう一度分岐があり、右か左か迷った。(右は上り、左は右に曲がりながら、平行に進む。)「調査報告2の地図から判断して、この辺から上るはずはない」という指摘があり左の方へ進んだ。
 突入してから40分くらいヤブのなかを歩き続けると、草ぼうぼうだけど歩くのにそれほど支障ない道になった。そして普通の山道となり(右写真)。箕地峠を越えたことを確認した。
箕地峠北 土の道に出た

 普通の山道を歩き始めてすぐに右に折れる細い道があり、その角にハイキングなどでよく見る矢印型の道標があり(左写真)、「延命地蔵」を示す。津山往来は延命地蔵の前を通る。
 箕地延命地蔵尊は、元徳2(1330)年の刻銘がある中世の地蔵尊であり、岡山市の重要文化財である。
 参考:平成22年度指定の岡山市重要文化財(1)(岡山市のホームページ:サイト確認 2015/10/27)には「花崗岩製で、高さ1.2m、幅0.5m」であると記述している。
延命地蔵道標 延命地蔵尊

 金川町史、p39 5.ミノヂドウの石佛によれば、

(前略)今から三十年程前に土中から掘出された由である。地名から見て古くは堂が立てられていたと思われる。
 鎌倉時代末、元徳二(1330)年の銘のある作品であるが、岡山県金石史にも載せられている。当時のこの付近の宗教を語る史料であって、後世日蓮宗が全盛を極め土中に埋められたものと思われる。

 とある。また、建部町史 地区誌・史料編p537には、昭和52(1977)年堂が建立されたこと、銘が判読できなくなっていることなどが記述されている。

 ゆるやかに土の道をさがっていくと舗装道路に出会い一時的に合流するが、ぐるっと曲がる舗装道路からすぐに離れて、まっすぐ細い土の道を下る。この日は木が倒れていた。
下りる道

 降りきって左右に分かれる道(写真の左、木の下に道がある)の左へ進む。
分岐

 100メートルほどで、さきほどの舗装道路に合流するので、しばらく下がって行く(途中の分岐は左)。片側一車線の自動車が通る道に出会う。そこにも「延命地蔵」への矢印型の道標がある。
 足元の石にも何か刻んであったが、判読できなかった。

 そのまま片側一車線の道を下がっても良いと思ったが、少し下ったところに左に入る細い道があった。道の流れではそちらの方が自然だということになり、細い道に入る。
建部への道

 50メートルばかりで元の片側一車線の道に合流し、そのまま坂を下っていく。途中左に分岐する道があったが、そちらに行くと落合橋方向には行かない。
 坂を下りきった西原地内で右から来る道(宮部・鹿瀬線)と交差する。
建部への道2

 降りる途中にあるという「1メートル四方の台石」「古宮様と呼ばれる小祠」(調査報告2 p13)には気がつかなかった。

 馬橋川を落合橋で渡る。右手(西)に旭川が流れているはずだが、土手と畑、竹林が続き見えない。
 200~300メートルほど進み、旭川に近づいたところで土手に上がる。舟着場跡がある。金川の舟着場跡より石組みがはっきり分かった。この辺にも蔵や商家があったのか、それとも単に倉庫があって、町の中心まで運んだのか手持ちの資料では判断できないので、そのうち調べようと思う。
殿市の川戸

 後日「建部町史(地区誌・史料編)」を見ると、舟置場をここ「殿市」に置き、陣屋への物資の搬入出は中田地区の「大手の市」としたと記述されていた。(p531)。

 その後旭川に沿って北上。舗装された道と土手上の道が旭川に沿って北上するが、土手道を歩いた。200メートル足らず歩いたところで舗装された道から分岐した道が上ってきて土手道と合流し、重蔵橋を渡る。
重蔵橋

 渡ったところは変形T字路である。Tの左側は、西北に進むほぼ直角に折れる道、右側の道は二本に分かれながら、ゆっくり北に方向を変える道である。右側(西)に折れる。ゆっくり北に方向を変える二本の道のうち、下の道を進む。
重蔵橋からの道

 しばらく行くと左手に神社が見える。厳島神社である。左折して鳥居の前に立つ。次回の出発は往来からは少しそれるがここにしようと決めて、元の道にもどる。

 厳島大明神としていたが、厳島神社に修正。yahoo地図では大明神となっていたが、建部町史(地区誌・史料編)p532で厳島神社となっていた(2015/11/02)。

 少し北上し、中吉橋から来る高架の下をくぐって今日の到達点とした。

 高架の下をくぐってすぐ左折。田園風景の中を真っ直ぐ進み、建部駅に向かう。開業以来の木造駅舎で、平成18年国登録有形文化財(建造物)に指定された。
参考:レトロな木造駅舎(岡山市のホームページ。サイト確認:平成29年1月16日)
建部駅


箕地峠の踏破について

 津山往来を歩き始める前に①辛香峠が踏破できるか、②箕地峠が踏破できるか、というのが最初の問題だった。いくつかの資料に当たり、何人かに尋ねたが、通れない、という情報の方が多かった。yahoo地図の航空写真では道らしい茶色が写っていたが、撮影時期によって状況が異なるので通行可能の保証にはならなかった(実際、あの写真よりは草木が多かったと思う)。

 道が荒れて分からないという噂の高い西国街道の松子山峠もほぼ同じメンバーで歩いたが、もっと情報があった。また街道歩きの人のための目印もあった。岡山県内の往来にはそれが少ないので、慎重に対応することが必要だが、逆に難所の区間が短いので簡単に諦める必要もないかもしれない。

 振り返ってみると、ほとんど道に迷わなかったが、何カ所かまちがいそうなときもあった。最初にまちがった時は、高いところから周囲を見渡して人工物(電信柱と側溝)を見つけたことで修正できた。次にまちがった時は、地図上の高低差と道の曲がり方(右に曲がるのはもっと峠を下ってから)との関連を認識していた者がいて修正できた。参考のために記録しておく。

 木や笹、背の高い草が少なくなってからは、赤い小さなクイ(土地の測量だと思う)や火の用心と書いた小さな板をつけたクイなどが目印(これがあれば道だと判断できた)となった。また、藪がありそうな時は、管理人は自作の頑丈な杖を持参することが多いが、茨などが繁茂している場合は、後続の人が助かる鎌の方が有用だった。
   目印 目印-拡大


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