津山往来 3-1 辛香峠から観波橋

 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。

辛香峠から観波橋までの略図

二、作州福渡に至る惣計六里八町十間

(略)中山村。一里塚。野々口村。小山村。岩子(いはご)竹村。
 原
谷内村/枝。一里塚富谷村の川裾にあり、これよ/り金川驛まで、六町なり。
宇甘(うかい)川。金川驛。
  (太字でないところは割書)
吉備温故巻之十七
 


 歩行日 平成27年10月9日(金) 距離 約 6.4キロ(辛香峠北側:「交流会館入口」バス停から観波橋まで)


 岡山駅発免許センター行きのバス(中鉄バスと岡電バスのどちらも止まる)で辛香トンネルを過ぎた最初のバス停「交流会館入口」で下車。
 前回の草道の終了地点から推測した出口(岡山理科大学御津国際交流会館)を確認し、出発。
交流会館バス停 御津交流会館

 国道53号線に出るとき右手に辛香トンネルの出口が見える(左写真)。津山往来はトンネルと反対側(左)に曲がって辛香峠を下る。
 国道53号線はトラックなどの交通量が多いので、東側の歩道を通る道が安全である(ただし、歩道を通ると下記の分岐に気づきにくいし、国道を渡らないといけない)。左手に岡山ラーメンや二番館がある。
辛香トンネル 岡山ラーメン

 調査報告2には、先ほど53号線に合流したところから「中山口の信号の地点までは、旧往来と現国道は一致している」とあるが、我々は途中、中山口信号の20メートルほど手前で左に分かれていく小道に入った。
中山信号前の分岐


 この時、道林寺に参詣したが、往来を歩くだけであれば53号線を20メートルほど北に進んだところで、右(=西)に分岐する小橋を渡る。帰宅後、yahoo地図で確認したが、道林寺へ向かう道だけでなく、分岐するこの道とのつながりからも、我々が進んだ道の方が流れが素直な感じがする。
 根拠があるわけではないので、あくまで趣味の世界である。

 ゆるく右に曲がってすぐに、中山口の信号のところで53号線と再度合流する。

 中山信号交差点を東側に渡る。渡ってすぐ右側を見れば、ガードレールや信号の柱の陰に常夜燈と道標がある。左写真は岡山方面に向いて撮った。道標の北面には「左妙見道」と書いている。金川方面から来る人を想定している。常夜燈には「妙見大菩薩」と刻んである。
 なお、妙見というのは「道林寺」のことのようだ。妙見大菩薩を祀った妙見堂がある。 参考:日蓮宗のサイト 臥龍山 道林寺 (サイト確認:平成28年7月12日)
妙見の道標1 妙見の道標2

寄り道して道林寺を参詣する 道林寺・鳴瀧神社参詣記録

 道林寺を出て、中山信号で53号線に戻る(左写真)。北に20メートルほど進んで最初に右に分岐する小橋を渡る。
 橋を渡ってすぐ左折。川の東岸を進む。舗装されていない道が山裾を北に進む(右写真)。53号線が左に見える。
橋を渡る 用水横の道

 山裾の木陰道を500メートルほど進むと、木陰が切れて明るくなる。土の道が舗装道に変わるところの右手に「旧津山街道野々口一里塚之跡」(御津町教育委員会が昭和45年建立)の石柱がある。
山裾道 道標

 右前に広がる。虫名(むじな)池に向かって進む。鴨がいる。
 池の角で二つに分かれる。右側が津山往来である。

 池を過ぎて100メートルほど進んで左手に少しそれると、川に近づく道に「修斉小学校跡地」という石柱が立っている。
修斎小学校この小学校は、石柱の記述によれば明治12年から同26年頃までこの地にあったようだ。

 もとの道に戻って数分進むと右手に笠塔婆型の「題目塔」がある。
野々口の題目塔01  道から見て
正面「南無妙法蓮華経 日蓮」、右面「天下泰平妙法廣布」、背面「天保十五甲辰仲春建焉 千部」、左面「村中安全五穀成就」、背面台座に「八源」とそれぞれ刻んでいる。
右面、泰の字が恭に似ているが恭平という言葉を思いつかないので泰と解釈した。また正面の字体などは日蓮さんの文字に似せたのではないかと推測。

 山陽道を歩いたとき自然石の題目碑に出会った。これが題目碑との初めての遭遇だった。それからいくつもの題目碑を見た。題目碑について

 さらに少し進むと道の右側に「弘智尋常小学校分教場跡」という石柱がある。  弘智尋常小学校碑 「弘智尋常小学校」は前記の「修斉小学校」などをあわせて、現在の「御津南小学校」に統合されている。分教場の統廃合については分からなかった。

 小学校の統廃合については御津町史p832-833及び 御津南小学校ホームページを参考にした。(サイト確認:2015/10/24)

 道は次第に川に近づく。川の名前を示したものがなかったので地元の人に尋ねると「野々口川」と教えてくれた。火の見櫓を左に見ながら直進。

 その先の分岐で道なりに左に進み、(右は家のあいだに進む)、川沿いに国道53号線に向かう。右側に御津南地区コミュニティハウスが見える。

 調査報告2の地図では住宅街を直進する点線があるが、通り抜けはできないので、コミュニティハウスの南側を野々口川に沿って進み、橋を渡って53号線に合流する。合流点の右斜め前に笠塔婆型の題目塔がある。(交通量が多いので、少し先の信号のところで渡る方がお薦め。その場合、題目塔まで戻ることになる)。

  野々口の題目塔02 先ほどの題目塔に比べたらかなり文字が薄く判読は難しい。正面の「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」以外ちゃんと確認できなかった。(左面は「法」がかろじて推測できた。「讃」と読める字もあった。右面は「保二」「十月十三日建之」と見えた。調査報告2p10によれば「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 享保二酉年十月十三日建立」と書いている由。調べると享保12年は1716年である。先の天保十五年(1844)よりかなり古い。風化が進んでいるはずだ。


 53号線を岡山方面に160メートルほど戻ると吉尾口の信号があり、そこから西に進むと、日典聖人生誕の地があり、題目石がある。また、八百屋お七の墓がある。 寄り道する

 53号線を100メートルほど進むと左手に分岐がある。「野々口駅」を示す道路標識に従って左折(左写真)。
 調査報告2の地図では、今入った道ではなくそこからさらに山よりの所に線が入っている。そして御津南小学校の校庭にぶつかる。
 yahoo地図と見比べると、その道は途中に何軒か家が建ち、分断されているように見えたが念のために上ってみた(右写真)。やはり、家や畑があり、道としてはつながっていなかった。
野々口駅への分岐 旧道

 もとの道にもどって北に進む。この道は旧国道である。53号線との分岐から300メートルほど進んだところに野々口駅に向かって右に分岐する道が見える(左写真)。
 分岐の北東角に小さな道路元標がある。。下部が埋まっているが、野々口駅に向う道に向いた面に「道路元」、津山往来に沿った面に「宇垣村」と読める。
 御津町史p427によれば、野々口村が宇垣村、河内村と合併し、宇垣村になったのは明治22年6月1日のことだから、この道路元標はそれ以降に設置されたものだ。
野々口駅前 道路元標


前記の野々口駅へ向う道が分岐する角の手前2~3メートル左側にカーブミラーがあり、山に登る方向に分岐する道がある。
 登り坂を少し進んだところに「風水害一週年記念」と刻まれた石柱がある(週の字はそのまま)。

水害記念碑 「昭和十年九月二十一日 小山氏子中」と日付と建立者名が刻んである。昭和九年室戸台風による被害であり、宇垣村と周辺の町村だけでなく、西日本一帯に甚大な被害をなした。
 岡山県大百科下p966によると、岡山県下の死者145名、全壊・流出家屋1935戸、さらに近畿、四国、中国地方での死者は2866人、傷者1万5361名に及んでいる。


 元の道の道を進むと、しばらくして御津南小学校の東側を通る。その後野々口踏切を渡って53号線に合流する(左写真)。

 53号線を北上する。左(西)側に津山線、右(東)側を旭川が流れる。かっては津山線の線路はなく、津山往来を人が行き来し、旭川を高瀬舟が行き来したのか。
野々口踏切 旭川

 原三谷橋信号の手前で三谷川を渡る。この先観波橋までの道は確定していないようだが調査報告2の地図に従って53号線を北上する。
 左側の田圃の中にこんもりした森が見える。
三谷橋の先の森


 古墳のようで気になったので後日行ってみたら、てっぺんに題目石があった。「南無妙法蓮華経」の下に大きな文字で「八大龍王」と刻んである。左右に刻まれた言葉はよくわからない。「雨」とか「四方」とかいう文字が読み取れた。草がかなり深く、通りがかりに寄ったので短パンに運動靴だったので足を踏み入れることがためらわれた。そのため、背面などは見ていない。御津町史p56-58によるとこの辺にも古墳があるようだが、明確にできなかった。
 道を隔てたところに神社があった。鳥居の額には八幡宮とあった。御津町史p722によると宇垣地区には八幡宮が5社ある。p921の記述(竜王)などを参照し、原の八幡宮ではないか、と推測している。なお、旧御津町一帯には竜王碑があちこちにあるようだ。
宇垣の題目碑 宇垣の八幡宮


左手に御津公民館や御津図書館がある。さらに西に分岐する道の角にザグザグやガソリンスタンドがある。直進。

金川分岐その先、宇垣北信号で「金川病院」を示す道路標識に従って斜め左に分岐する道に進む。金川駅もこの方角で、津山線に沿って進むことになる。
 ここで旭川とお別れ。次に出会うのは建部。53号線ともお別れ。次に出会うのは福渡。

 右手に御津郵便局があり、その先左側に金川駅がある。その先ガソリンスタンドの先にスズキ自動車の看板がある。そこで道は二つに分かれる。
 現在は左の道の方が幹線であるが、右の道の方が歴史がありそうだ、ということで協議の結果右を進むことにする。
観波橋前

観波橋への進入は左の道の方がまっすぐだが、観波橋は野々口の水害記念碑にあった昭和9年の台風の時流されて掛け替えられている(大正5年にも流されて掛け替えられている。いずれも御津町史p564)ので、あまりこだわらなかった。

 スズキ自動車の看板のある道を右に入るとすぐに右手に岡山信用金庫金川支店がある。裏道のような感じで車通りも少ない。中国銀行の裏側を左に見ながら進むと金川病院の前でもとの道に合流し、そのまま観波(みなみ)橋に向かう。
観波橋

【寄り道】観波橋の南詰、宇甘川の土手道を西に進むと御津金川認定こども園がある。その西側を周り込むと広い墓地がある。
 見谷 この辺一帯が見谷(けんだに)で、金川城の落城の後、妙国寺が再建されたところと思われる。妙国寺については松田氏のページで簡単に触れた。
 参照:妙国寺

 帰宅後、明治28年測量大日本帝国陸地測量部の二万分の一地図で見ると、記されている道は我々が歩かなかった方の道(右に分岐せず、そのまままっすぐ行ってグランドマートの前を通る道)の方が形が似ている。また観波橋への角度もまっすぐ進入している。ただし、これは明治に整備された県道の可能性が高く、どちらが津山往来かどうかの結論は出ていない。


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