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「七曲神社旧事の書」に「松田此地に来りし時に菅村に居住して玉松の城ならびに金川の郷を取立て移住・・・」とある。(中略)菅には殿屋敷の地名があって、近くの正八旛宮は中世の砦があったのか、西側には空濠(堀切)が見られる。(以下略)
所在地は御津高津であるが、かっては菅村であり、日置氏の知行地であった。
鳥居をくぐると、300段近い急な階段がある。
拝殿は愛想がない。入ると本殿への廊下がある。その先に木製の扉。
子供神輿が1基。獅子が一頭。ただし、一頭を4、5人で遣う。
笛、太鼓、鉦、すべて揃っている。まず、子供神輿が神社を三周したあと拝殿の前で拝礼(神輿を挙げる。大人が手伝う)。
獅子舞。最初は大幣を持っているので奉納の要素が強いのだろう。それから、「寝獅子」長く伸びて、時々頭だけを動かす。
しばらくその動きを繰り返したあとで立ち上がり、拝殿の前で舞う。そのあと拝殿に入っていく。
渡り廊下を本殿の前まで走り、その前で戻ってくる。拝殿の外へ出て、ひとしきり舞う。何度目かに渡り廊下を渡ったあとには本殿の周りをぐるっと回る。
外に出て、神社の周囲をぐるりと回る。迂回路から参道の途中に出て、急な階段(手すりを持たないと少し怖い)を駆け上る。
子供や見物人の頭を獅子頭で咬む(?)とみんな逃げ回る。二段の獅子は見せ場。何度かやった。
30分ほど舞ったあと、神主さんのお祓い。氏子はみな神社のなかに入って行ったので、管理人は退散。
上右(管理人作成)及び下は、『津高郡奥 寛文年中亡所仕古寺書上帳 亥ノ八月 津高郡宇甘村組』の妙安寺に関する記述を抜粋、読下したもの。(池田家文庫に原文、マイクロフィルムからの複写可。翻字したものが岡山市立図書館に所蔵されている)。
一 古寺之跡壱ヶ所 同郡菅村吉住山 妙安寺
右ハ日蓮宗同郡金川村妙国寺末寺ニて御座候 寛文六年ニ住寺還俗仕俗家ニ罷成候寺株田地山藪共不残還俗人清左衛門ニ被遣候只今養子長三郎作仕居申候
上記調査書の池田家文庫での表題は『寛文年中亡所仕古寺書上帳』(注記:津高郡奥宇甘村組)、岡山市立図書館本での全体の書名は『寛文六年亡所仕古寺書上帳』である。
各地域の村役人が調査・報告したもので、宇甘村分は「肝煎宇甘上村 長太夫」の記名・捺印がある。調査日は、津高郡下賀茂村組の報告に「宝永四年亥ノ八月」とあるので、同じく宝永四年(1707)であると思う。寛文六年(1666)より、41年後である。
光政の宗教政策は、すでに指摘されているように、神社淘汰・寺院寺僧淘汰・神職請の実施という三つの大きな柱からなる。光政は、寛文四年(1664)十一月の幕府の宗門改め実施令を受けて、翌年一月十五日にこれを領内に触れ、寛文六年帰国早々の五月十八日には、山伏・神子らによる領民を誑(たぶら)かす行為を封じ込めるという大義名分のもとに「淫祠」一万一一〇〇余を潰し、その上で五〇〇〇石に一社の割合で寄宮を建てることを令達している。「淫祠」の淘汰は吉田家と結んで行われ、翌年二月晦日の段階で氏宮六〇一社を除いて一万五二七社が取りつぶされた。そして村代官の支配ごとに一社の寄宮が創建されていったのである。
一方仏僧については寛文六年春ごろより還俗が勧められ、領民には七月半ばごろから離壇、神儒へおもむくことが積極的に奨励された。すなわち、光政は寛文六年七月、邑久郡・和気郡・赤坂郡・磐梨(岩生)郡などを巡回し、神道・儒学の興起に力を尽くした神官や村の有力の者たちに社領・鳥目・時服などを給し、神儒を護持する立場を領内に明確にしている。(以下略)
寺院の淘汰は具体的には以下の通りである。
藩内寺院数 | 僧侶数 | 寺領 | |
---|---|---|---|
淘汰前 | 1,044ヵ寺 | 1,957名 | 2,078石 |
廃寺数 | 563ヵ寺 | 847名 | 140石 |
残 り | 481ヵ寺 | 1,110名 | 1,938石 |
光政は仏教を批難して、「坊主たるもの多くは有欲・有我にしてけんどん邪見なり。己が不律破戒の言わけには、各我如きの凡夫は善行なすことならず、欲悪ながら阿弥陀を頼み極楽に生ず。題目だに唱えれば成仏すと云。是人に悪を教ゆる也。自今以後如此の邪法を説て人心をそこない風俗を不可乱事」と言っている。(「岡山藩」p220-221。「池田家履歴略記」より管理人作表)
先に書いたように神社及び寺院の淘汰に関する記念碑を見たのは、これが初めてであるが、全般に神社・寺院の淘汰に関して、批判的な意見をあまり聞かない。
むしろ僧侶が堕落して、女犯などが頻繁に起こり、また信徒が狼藉をすることにより訴訟が頻発したからだ、という資料を見たこともある。名君池田光政がやることだから、という信仰に近いものがあるのかも知れない。
機会があれば調べてみたいが、現在のところ管理人には本当のところが分からない。ただ、小さいお寺=地域に密着したお寺が潰されているな、とか、光政が批難している「阿弥陀を頼み極楽に生ず」というのは浄土宗や浄土真宗の発想だと思うが、寺院淘汰で一番被害を受けているのは日蓮宗ではないか、ということは感じている。
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