津山往来・金川歴史散歩02

津山往来・金川歴史散歩02

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金川全図


金川歴史散歩02 目次

その他の遺跡
死事工夫之墓
正八幡宮
妙安寺跡

その他の遺跡

死事工夫之墓

 グランドマートと金川病院のあいだの細い道を進むと、右手に利国神社、左手に『死事工夫之墓』があった。これについての資料は未見であるが、側面の記述などから中国鉄道線(現津山線)の敷設工事に伴う慰霊塔であると判断した。
 線路を背に立っている。[正面]死事工夫之墓(表現としては少し違和感があるが、他の読み方ができない) [右側面] 明治31年12月建之 千葉県安房郡平郡村 土建請負業 今村組 今村 正□ 新潟県南魚沼郡浦佐村 今村組工事部長 今村政五郎
 中国鉄道線の開業は明治31年12月21日である。
 左側面の文字はやや小さく、判読が難しいが、おそらく亡くなった7人の工夫の出身地や名前が書かれていると思われる。5人が広島、1人が島根ではないか、と思う。残りの1人は推測できなかった。
工夫の墓 工夫の墓


正八幡宮

 御津町史p160に次の記述がある。

「七曲神社旧事の書」に「松田此地に来りし時に菅村に居住して玉松の城ならびに金川の郷を取立て移住・・・」とある。(中略)菅には殿屋敷の地名があって、近くの正八旛宮は中世の砦があったのか、西側には空濠(堀切)が見られる。(以下略)

 所在地は御津高津であるが、かっては菅村であり、日置氏の知行地であった。
 鳥居をくぐると、300段近い急な階段がある。
正八幡宮 正八幡宮

 拝殿は愛想がない。入ると本殿への廊下がある。その先に木製の扉。

正八幡宮 正八幡宮

正八幡宮 本殿の形は三間社流造という造りで、様式及び再建時の棟札から寛永十八年(1641)の建設と考えられている。岡山市の指定重要文化財である。一部新しい部分もあるようだ。狛犬は室町時代のものであったが盗難にあったということだ。
 再建札によって竣工開眼師は金川妙国寺の十世日航であったことが分かる(御津町史p785-788及び境内説明板)。これも神仏混淆の一例か。
 また、「岡山の絵馬と扁額-岡山文庫66」(脇田秀太郎著、日本文教出版、昭和50年)p120-123、御津町史p810-812によれば明暦元年(1655)の羅漢図(奉納者 船着町 高屋宗十郎)、寛文元年(1661)の鷲の図(奉納者 大田一太郎)、寛文十年(1670)の羅生門図(奉納者津田三八郎慰)など県下では古い時代に属する絵馬があるという。
 ただし、現在も同社にあるかどうか確認していない。
 西側の堀切はそれらしい雰囲気はあるが、木が生い茂っていてよく分からなかった。

正八旛宮 神社紹介 岡山県神社庁(地図あり。サイト確認:平成28年10月17日)

正八幡宮の秋祭り

 宇甘川沿いの神社はみな同じ日に祭りをすると地元の人に聞いた。総社宮の加茂大祭にそろえているとも聞いたが、特に資料的な確認はしていない。
 正八幡宮の祭りも七曲神社と同じ日ただし、こちらは午後から。
正八幡宮 正八幡宮

 子供神輿が1基。獅子が一頭。ただし、一頭を4、5人で遣う。
笛、太鼓、鉦、すべて揃っている。まず、子供神輿が神社を三周したあと拝殿の前で拝礼(神輿を挙げる。大人が手伝う)。
子供神輿

 獅子舞。最初は大幣を持っているので奉納の要素が強いのだろう。それから、「寝獅子」長く伸びて、時々頭だけを動かす。
獅子舞 獅子舞

 しばらくその動きを繰り返したあとで立ち上がり、拝殿の前で舞う。そのあと拝殿に入っていく。
獅子舞 獅子舞

渡り廊下を本殿の前まで走り、その前で戻ってくる。拝殿の外へ出て、ひとしきり舞う。何度目かに渡り廊下を渡ったあとには本殿の周りをぐるっと回る。
獅子舞 獅子舞

外に出て、神社の周囲をぐるりと回る。迂回路から参道の途中に出て、急な階段(手すりを持たないと少し怖い)を駆け上る。
獅子舞 獅子舞

子供や見物人の頭を獅子頭で咬む(?)とみんな逃げ回る。二段の獅子は見せ場。何度かやった。
獅子舞 獅子舞

 30分ほど舞ったあと、神主さんのお祓い。氏子はみな神社のなかに入って行ったので、管理人は退散。


妙安寺跡

 正八幡神社の鳥居に向って左側の畑の端に『妙安寺 寛文廃寺 址』という石柱がある(左写真)。妙安寺は、金川妙国寺の末寺で、池田光政が行った『寛文の寺院淘汰』により廃寺となった。この時、岡山藩全体で563ヵ寺が廃寺になったという。岡山県内で廃寺に関する石碑を見るのは初めてである。
妙安寺 古寺書上

 上右(管理人作成)及び下は、『津高郡奥 寛文年中亡所仕古寺書上帳 亥ノ八月 津高郡宇甘村組』の妙安寺に関する記述を抜粋、読下したもの。(池田家文庫に原文、マイクロフィルムからの複写可。翻字したものが岡山市立図書館に所蔵されている)。

一 古寺之跡壱ヶ所 同郡菅村吉住山 妙安寺
 右ハ日蓮宗同郡金川村妙国寺末寺ニて御座候 寛文六年ニ住寺還俗仕俗家ニ罷成候寺株田地山藪共不残還俗人清左衛門ニ被遣候只今養子長三郎作仕居申候

 上記調査書の池田家文庫での表題は『寛文年中亡所仕古寺書上帳』(注記:津高郡奥宇甘村組)、岡山市立図書館本での全体の書名は『寛文六年亡所仕古寺書上帳』である。
 各地域の村役人が調査・報告したもので、宇甘村分は「肝煎宇甘上村 長太夫」の記名・捺印がある。調査日は、津高郡下賀茂村組の報告に「宝永四年亥ノ八月」とあるので、同じく宝永四年(1707)であると思う。寛文六年(1666)より、41年後である。

 妙安寺の表記について
 岡山県通史下 ○備前寺院淘汰関係資料(其一)p785-795では撮要録二十九からの抄録として、廃寺の一覧がある。p789に「菅村 妙安福寺」として福に(マゝ)のふりがながある。撮要録も同様な表記なので、撮要録にまとめるときに使用した資料で疑問がある表記があったと思われる。
 一次資料である『津高郡奥 寛文年中亡所仕古寺書上帳 亥ノ八月 津高郡宇甘村組』では素人でも読める文字で「妙安寺」と記載している。また、『備前国金川日向山妙国寺奉賀縁起之事』(御津町史p1215)を始めとした妙国寺文書のいくつかに「菅村 妙安寺」の記述がある。
 以上のことから妙安寺が正しいと判断した。

寺院淘汰について

 『「名君」の支配論理と藩社会-池田光政とその時代』(上原謙善著、清文堂、2012)p191より池田光政の宗教政策について下記に引用する。なお( )内は管理人。

 光政の宗教政策は、すでに指摘されているように、神社淘汰・寺院寺僧淘汰・神職請の実施という三つの大きな柱からなる。光政は、寛文四年(1664)十一月の幕府の宗門改め実施令を受けて、翌年一月十五日にこれを領内に触れ、寛文六年帰国早々の五月十八日には、山伏・神子らによる領民を誑(たぶら)かす行為を封じ込めるという大義名分のもとに「淫祠」一万一一〇〇余を潰し、その上で五〇〇〇石に一社の割合で寄宮を建てることを令達している。「淫祠」の淘汰は吉田家と結んで行われ、翌年二月晦日の段階で氏宮六〇一社を除いて一万五二七社が取りつぶされた。そして村代官の支配ごとに一社の寄宮が創建されていったのである。
 一方仏僧については寛文六年春ごろより還俗が勧められ、領民には七月半ばごろから離壇、神儒へおもむくことが積極的に奨励された。すなわち、光政は寛文六年七月、邑久郡・和気郡・赤坂郡・磐梨(岩生)郡などを巡回し、神道・儒学の興起に力を尽くした神官や村の有力の者たちに社領・鳥目・時服などを給し、神儒を護持する立場を領内に明確にしている。(以下略)

 寺院の淘汰は具体的には以下の通りである。

藩内寺院数僧侶数 寺領
淘汰前1,044ヵ寺1,957名2,078石
廃寺数 563ヵ寺 847名 140石
残 り 481ヵ寺1,110名1,938石
 岡山県の歴史-県史33(藤井学[他]著、山川出版、2000)p242、岡山藩p222による。

 光政は仏教を批難して、「坊主たるもの多くは有欲・有我にしてけんどん邪見なり。己が不律破戒の言わけには、各我如きの凡夫は善行なすことならず、欲悪ながら阿弥陀を頼み極楽に生ず。題目だに唱えれば成仏すと云。是人に悪を教ゆる也。自今以後如此の邪法を説て人心をそこない風俗を不可乱事」と言っている。(「岡山藩」p220-221。「池田家履歴略記」より管理人作表)

 先に書いたように神社及び寺院の淘汰に関する記念碑を見たのは、これが初めてであるが、全般に神社・寺院の淘汰に関して、批判的な意見をあまり聞かない。
 むしろ僧侶が堕落して、女犯などが頻繁に起こり、また信徒が狼藉をすることにより訴訟が頻発したからだ、という資料を見たこともある。名君池田光政がやることだから、という信仰に近いものがあるのかも知れない。
 機会があれば調べてみたいが、現在のところ管理人には本当のところが分からない。ただ、小さいお寺=地域に密着したお寺が潰されているな、とか、光政が批難している「阿弥陀を頼み極楽に生ず」というのは浄土宗や浄土真宗の発想だと思うが、寺院淘汰で一番被害を受けているのは日蓮宗ではないか、ということは感じている。


【金川歴史散歩を作成してみて】
 小さな町の歴史を感じてみたいと思い、金川というかっての陣屋町を歩き回ってみた。歩くたびに何か発見があった。資料を読むたびに腑に落ちることがあった。
 まだまだ興味深いことがあるが、そろそろ次の往来を歩き始めており、この辺でまとめることにした。
 陣屋町に着目したために、武士に関するものが少し多かったのが反省点である。農民に関することも興味があるが、隣村との境界争いなどは調べる余裕がなかった。また、高瀬船の運行や日蓮宗(不受不施)のことはもう少し広い範囲で考えたい。

金川歴史散歩1
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