散策日 平成28年10月23日(日)、同12月~平成29年1月中。
28年10月23日は、牛窓秋祭り。10月31日に牛窓に到達したあと、道や周囲の風物の再調査に何度か細切れに行った。その都度何カ所かを見物した。個々の日付は煩雑なので略す。
拝殿の正面上に木彫の天狗がにらみをきかせていた。 天神社の由来は菅原道真が太宰府に左遷されるとき、牛窓の此の地に立ち寄って腰をかけた石の跡に、道真を祀って尊崇した、とある(牛窓風土物語p178-179)。
「磯山の峰の松風通い来て 浪や引くらん唐琴の迫戸」という菅原道真の歌を以て、この神社と道真の縁を推測している。境内にその歌碑がある。(この歌碑は石碑だが、境内には白塗りの木柱に芭蕉や定家などの歌を書いたものも立っていた)。 境内にあった「牛窓天神山古墳」の説明板によると、「牛窓天神社の背後の天神山山頂尾根を加工して築造された墳長約八五mの前方後円墳」であり、「円筒埴輪や壺方埴輪の破片」が見つかっている。また、「竪穴式石槨の一部と思われる板状の割石」も露出している。さらに「牛窓湾を取り囲むように分布している五基の前方後円墳のうち最初に築造された古墳である」。
さらに天神山は、応永の頃の「牛窓の領主石原但馬守の古城跡」と伝えられる(牛窓風土物語p138。同書p153によると石原氏の墓所は本蓮寺境内にあると伝えられている)。
牛窓の神社やお寺は牛窓湾を見渡せるところが多く、大方景色が良い。天神山もその一つくらいに感じていたが古代からの歴史に富んだところだった。
なお、天神山は日本の夕日百景に選ばれた三つの地点の一つである(瀬戸内市観光協会のホームページなど:サイト確認 平成29年1月29日)。
写真は夕日時ではないが、展望は良い。まん中のぽっこりした島が中の小島、右側の小さな島が端の小島。中の小島の左側は黒島。その向こうは豊島(てしま)か。

金比羅宮は、漁業不振と海難事故が続いたために、讃岐の金比羅大権現を荒神社の地に勧請したことによる(境内の説明板)。

藤原定家の歌碑もあったが、写真が逆光で何も読めないので割愛。刻まれている歌は、「忘れぬは 波路の月に 愁へつつ 身を牛窓に 泊まる船人」とある。意味は微妙に分らない。もしかして、都を思って、といういつものパターン?

五香宮という神社名は聞き慣れない。その辺りのことと神功皇后が着用されたという甲冑(町史民俗編p831)について「牛窓を歩く」p19-20より引用する。(一部改行を施した)
神功皇后奉納品として伝来する神宝の、黒韋威大鎧と冑の鍬形(県重文)は中世の貴重なもの。また、馬具は中世以前の全国でも稀な遺品で、祭礼のとき神馬を飾った三懸(面繋、鞅、鞦)と手綱の四点(県重文)。この手綱が神功皇后の御腹帯といわれ、明治時代末頃までは切片を安産のお守りに授けていたため、かなり短くなったそうだ。
管理人注:三懸(さんがい)=面繋(おもがい)、鞅(むながい)、鞦(しりがい)は、いずれも馬具。面繋は、くつわの保持のため馬の頭部につけ、鞅は胸から鞍、鞦は鞍から尻にかけてつける。(コトバンクを参考にした。サイト確認:平成29年1月30日)
牛窓町史通史編p619では、この『神宝』は、寛文六年(1666)に池田光政の命により、牛窓八幡宮より移されたとしている。
左写真は境内から眺める唐琴瀬戸。燈籠堂が風景を引き締めて、絶景である。夜、灯りがある時見たいものだ。
五香宮は拝殿も本殿も塀に囲まれている。鍵がかかっていて入れなかった。外側で拝礼して、隣接する海岸山妙福寺観音院(東寺)へ回った。

妙福寺観音院へ向う階段の手前、井戸の横に「朝鮮場様」と書かれた道標がある。右手は妙福寺観音院へ向う階段、左手の細い道を進むと、石垣の手前に右を指示する道標がある。

その先畑の中に小さい祠が鎮座されている。
説明板などはない。

東原弥右衛門は、牛窓町の年寄役を勤めて、航海の術に長じ、文禄元年秀吉の朝鮮征伐には、宇喜多秀家に従って出陣(以下略)
牛窓風土物語p57-59。原文は「よくよく」をひらがなの繰り返し記号(踊り字)で表現している。また、上記由来記は、東原家秘蔵のものとする。
参道とも言える海岸沿いの道。右側の浜は夏は海水浴場になる。
鳥居の近く、海を背にして歌碑がある。万葉集に収められている柿本人麻呂作だと伝わっているらしい(説明板から)。
牛窓の 波の潮さゐ 島響(とよ)み 寄さえし君に 逢わずかもあらむ
手持ちの「万葉秀歌」(斎藤茂吉著、岩波新書)には載ってなかったので、ネットで調べた。その範囲では詠み人知らずとされている。

亀山公園の林の中の道を進む。展望台『望洋亭』の東屋がある。そこから210mで牛窓神社と書いた道標がある。
二番目の鳥居を過ぎて、階段を上がれば随身門がある。
神様が基準になるので、写真右側(随身門に向って右)が左大臣、左が右大臣。

拝殿(左写真)。
その奥の本殿は、本殿は文化九年(1812)に再建。瀬戸内市指定重要文化財である(瀬戸内市のホームページより:サイト確認 平成29年1月30日)

拝殿の中には絵馬や提灯がたくさん奉納されている。牛窓町史民俗編p835でも触れてあるが、絵馬以外にも家族写真などが多数納められていて、地域との結びつきの深さが窺われる。
岡山県重要有形文化財の「おかげ参りの図」は有料公開ということだが(おかやまの文化財。サイト確認:平成29年1月30日)、拝殿で普通に拝見することができる絵馬にも「伊勢参宮道中(二見ヶ浦の図)」と書かれたものがあった。

本殿と拝殿とのあいだの玉垣。
願主は「当所問屋中」。それぞれの紋(屋号紋)の下に屋号と名前が書いてある。下津井の祇園神社は、遊女や湯女らしい女性名があったが、さすがにそれはない。
本堂は瀬戸内市指定重要文化財である。創建は天平勝宝年間(749~756)。現在の建物は鬼瓦の銘により延享三年(1746)に再建とされている。(説明板より)
境内の少し高くなったところに、石碑がある。
左端の大きなものには藤原音吉以下三名の名前の下に碑と書いてある。詳細は不明。

その右横、三基の石碑(それほど大きくない)にはそれぞれ「海亀供養塔」と刻まれている。何らかの理由で海亀を供養したのだろが、それが三基もあるというのが興味深い。インターネットで検索したところ、千葉県銚子市の川口神社に亀の墓がある、というブログ(カメタロウのブログ:サイト確認 平成29年1月30日)を見付けた。管理人は銚子に住んでいたことがあり、川口神社は何度か行ったことがある。不思議な縁を感じるが、その時は関心がなかったので覚えていない。
【余録】
寛文六年の寺院淘汰全体で廃寺になったのは圧倒的に日蓮宗(法華)が多いが、この地域では真言宗が圧倒的に多い。それだけ真言宗が多かったのだろう。
この枠内の記述は、牛窓風土物語p186-186,206-208によった。
関町の荒神社から西向きに見た一文字波戸。

海遊文化館東端の常夜燈。県道から見た法蓮寺の多宝塔と鐘楼。

平成29年1月12日、再調査に行ったとき、海遊文化館のところで会った巡礼。
全体を回るのではなく寒行として、周辺を回るという。東寺か西寺かどちらかのお寺の檀家だという。写真撮影の許可を貰いがてら、いろいろ質問していると「5月21日が御大師様の日で、お接待もあるからおいで」と云われた。
猫たち

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