野崎家から祇園社(下津井)まで

下津井往来6・旧野崎邸から祇園神社(下津井)まで

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歩行日 平成27年12月18日(金) 13時00分--15時20分 旧野崎邸から祇園神社(下津井)まで 距離 約 5.4キロ(千阿弥橋跡から累計 35.9キロ)


旧野崎邸から新庄八幡宮まで

野崎邸

 野崎邸の前の庭で昼食を摂った。このときは中に入らなかったが、再調査の時に見学した。きれいに整備されている。金持ちにあこがれることはあまりないが、この家の当主になってみたいと思った。左写真は蔵群、右写真は表書院。
野崎邸の蔵群 野崎邸表書院
台所。右写真は塩田がある浜との通信に使った旗竿。通信設備ができてからは干物を作った由。
野崎邸の台所 野崎旗竿
 入館料500円は少し高めだけど管理人は十分楽しめた。


 

旧野崎邸から祇園神社(下津井)までの順路図 旧野崎邸を出て歩く道は児島ジーンズストリートである。ジーンズの店が並ぶ。右側に注意。
奥の院入口
 左側から道が来て、T字に見える分岐の右側に二つの建物のあいだに入る路地がある。その奥に、「第二十六番 奥之院」がある。二十六番札所は持寶院であるが、その奥の院のようだ。(参考:持宝院奥之院 児島八十八か所巡礼 第26番その2: サイト確認平成28年6月4日)
  持寶寺奥の院
 団塊の世代が若者だった頃、多くの人がジーンズをはきはじめた。管理人もそのひとり。
ジーンズの表示

 ジーンズストリートを進む。右側に天満宮の額がある鳥居がある。神社としては天神宮であるらしい。(参考:岡山県神社庁、岡山県の神社 神社紹介。サイト確認:平成28年6月4日。)
 左写真は拝殿。常夜燈には天保十五辰(推測の部分もあり)の銘がある。
天満宮の鳥居 天神宮拝殿
横にも鳥居があり亀の形の水盤、五角柱の地神塔、自然石に竜王宮と刻んだ石碑がある。地神の下がかなり大きい。祀っている神さまは一般的な五神。
竜王宮碑 天神宮の地神

 その先に持寶院。児島八十八ヶ所霊場、第二十六番札所である。(参考:児島八十八か所巡礼 第26番 持宝院。 児島八十八か所巡礼 サイト確認:平成28年6月5日)。中は整備されている。薬師如来を祀っている建物が本堂かな。扉が少し開いていたが、中は厨子の扉が閉まっていた。そのほか十一面観音を祀った観音堂などがある。
持寶院山門 持寶院内庭

 その先野崎記念塔(野崎武左衛門翁旌徳碑)がある。(参考:野崎武左衛門翁旌徳碑ほか 倉敷市のホームページ サイト確認:平成28年6月5日)。
野崎記念塔

そこから少し行くと、右に分岐する道の角に大小二つの道標が立つ。左側には「朝日山西国霊場並 善光寺如来安置 道」と刻んである。右の小さい方には「[右の指矢印] へんろ道」とある。

西国霊場道標

 朝日山西国霊場も善光寺如来安置も意味するところがよく分からなかったので、道標に従って進んでみた。
 路地を進むとT字の形でぶつかる。そこから左に行き、坂道を上りながら右に行くと(途中で「霊場」について尋ねた地元の人が「霊場かどうか分からないがお地蔵さんやお堂ならある」と教えてくれた道を辿った)左右に分岐する道の右側に大師堂らしいお堂があった。正面の額には「真言山」と書いてある。左右には梵字の下に「奉為弘法大師一千百五十年・・・」「奉唱般若心経壱百万遍」などと書いた石柱や常夜燈、托鉢をする弘法大師のような石像が並ぶ。敷地入口にある1メートル弱の石柱は真ん中から折れているが「此之上可ん□ん」と書いているように思える(推測あり)。
 分岐点の正面には「右 観□音佛道」と書いた遍路道標がある。□は古という字にも思える。帰宅してネットで調べると「観古音」という表現は少ないがあるようだ。ただし詳細は不明。その先まで登ってみたが、キリスト教会があった。時間の関係もあり、そこで元の道にもどった。
児島の大師堂 遍路道標
もどるとき先ほどのT字路のところ、お堂と反対側にお地蔵さんを見つけた。

分岐横の地蔵尊  結局「朝日山西国霊場」などについてははっきり分からないまま、元の地点に戻った。児島八十八ヶ所霊場とは別の霊場参拝の遍路道だろうと推測している。


 しばらく行くと、交差点を右に少し入ったところに祠があり、地蔵尊が祀られている。「八平地蔵」である(調査報告6p16)。
八平地蔵前の分岐 八平地蔵

 それからかっての往来らしいまっすぐな道。少し行くと下津井電鉄軌道跡とくっつきながら並行に進み、その先で交差する。
 交差するところは変則的な交差点。かっては踏切だったようで、それらしい施設も残っている。
 交差点を中心に並べてみると、左から来て右に進む道、真っ直ぐ進んで来て、まっすぐ抜けていく下津井電鉄軌道跡(自転車道路)、右から進んで来て左に進む旧下津井往来といったややこしい交差点だ。左右に分かれる道もある(左側を遠望すると砂走信号が見える)から実際はもう少し複雑だ。向って左側、斜めに南に進む道を選ぶ。
 その先も往来らしい一直線の道。国道430号線まで、分岐を意識する必要はない。
砂走近くの交差点 一直線の道

 途中片道一車線の道と交差したとき左に斜めに分岐する道(ゴミステーションがあり、左側に用水がある道)があり、少し悩んだ。正解はそちらではない。真っ直ぐ(分岐としては右側)進んで、少し行くと右側の家のあいだに、かっての下津井電鉄「備前赤崎駅跡」が見える。自転車道路用に「風の道 びぜんあかさき」の駅名標がある。
赤崎の駅名表示

 下左の写真を横切る道は国道430号線、そこへ到達する途中右側に古い郵便局の建物(今は使われていない)がある。交差点左側手前角にどっしりした和風の邸宅がある。
 片側2車線の国道430号線を渡る(左側に扇の嵶(おぎのたわ)口交差点がある)。
 渡り終えるとそのまま進む。40メートル足らずで行き止まり。道は左右に分かれる。右写真正面、車が写っているところは民家の軒先。
国道430線前 国道430線
 分岐点右側(上右写真の草のところ)に七丁と書かれた小さな丁石がある。高さは40センチほど、側面に指矢印(調査報告6p16)。これは児島八十八ヶ所霊場の二十九番札所、天祥院への里程を示す(同前)。
丁石

 目の前にある家などの向こう(直線で100メートルくらい)に分断された往来が続くが、通れないので左に曲がって迂回する。
 児島インターへ向う広い道路(片側2車線)に出てから、60メートルほど登る。最初歩いた時は冬だったが、再調査のためにもう一度歩いたのは初夏(6月2日)だったので、角の縫製工場が窓を開けて、複数の裁縫用の器械が動いているのが見えた。児島だなあ、と思った。

 次の分岐で、一度広い道から分岐を右に入り、分断された往来に戻る。手順としては、50メートルほど先にソーラーパネルが並んでいる路地に入っていく。右から来た道と合流するまで進み、ソーラーパネルが並ぶ角を左に折れる(左写真)。これで迂回終了である。
 170メートルほど進むと、先ほど離れた児島インターへ向う広い道に再度合流する。ここからは広い道の坂を登る。
迂回路 合流点

 山の上に鷲羽山ハイランドの観覧車が見える。児島インターの出口の交差点で左に渡る。その先、児島インター入口がある。信号機の先を左に入ると目の先に新庄八幡宮の鳥居がある。
観覧車 新庄八幡宮の鳥居

 坂を上って新庄八幡宮に参拝する。


 調査報告6p16によれば、、天保十一年(1804)の銘がある鳥居に「新荘八幡宮」と刻まれているという(年号は確認したが、神社名は失念)。また「金毘羅往来名所図会 金一ノ四十七」でも新荘八幡宮と表記し、赤崎味野等の産土神と記している。

 長い坂道と階段を上って拝観した。境内にいくつも祠があり、木柱の地神塔もあった。書かれている神名は標準的な五神である。
鎮座する山は赤崎新庄八幡宮遺跡に指定されている(参考:新庄八幡宮ホームページ サイト確認:平成28年6月5日)。
新庄八幡宮本殿 木製の地神塔

境内からの眺望はすばらしい。中央に見えるのは鯨島(堅場島)。右側がおにぎり島(大槌島)。四国も見える。
新庄八幡宮からの眺望


新庄八幡宮から祇園社(下津井)まで

 

新庄八幡宮から祇園神社(下津井)までの順路図  高速道路の高架の下を通り抜ける。右側に歩道があるのだが、旧道の入口を探すために左側を通った。旧往来は、ここから東に登り、尾根筋の道になるという(調査報告6p16)。その入口が分からない。
下写真が第一の候補。左側のコンクリートの土留めの上に(戻る形に)進む道がある。
扇の嵶01
 最初歩いたときも、二回目の調査のときも少しだけ進んで後退。高速道路の管理のための網柵の横を少し進める(道ではなく竹や雑木がまばらというだけ。さらに高速道路側に進むので逆向き)が、その後は道がない。
 ヤブコギしながら闇雲に進むには、地理不案内で方向が分からないし、予測される距離(600メートル)が長すぎるためである。写真は2回目の時のもの。藪、伸びすぎた竹の子。テレビのようなものが捨ててある。
  扇の嵶02

 次に鷲羽山ハイランドの看板があるところが第二の候補。ここも入ってみたが、先に進めなかった。
 この先に第三の候補。左側に進入路があり、その先に階段がある。期待を持って進んだ。
扇の嵶03 扇の嵶04

 墓地があった。そこから南に進もうと藪の薄いところに突入したが、すぐに道があるようなないような状態になる。これ以上の進入を止めてもとの舗装道路に戻った。
扇の嵶の墓地 扇の嵶05

 右側に鷲羽山ハイランドのボーリング場がある。1階はゲームセンター、2階はボーリング場とお好み焼き屋。2回目再調査の時は、お好み焼きを食べた。

 さらに進むと、「新扇の嵶(おぎのたわ)トンネル」の入口が見える。
その先、左側に旧道が出てくる(右写真)。これは「扇の嵶隧道」へ進む道。どちらも側道があるが、「扇の嵶隧道」の方が交通量が少ない。
扇の嵶トンネル 扇の嵶隧道入口

 車道より高くなった歩道がないトンネルは非常に危険である(津山往来の辛香トンネルがそうだ)。土地勘のない地域で事前に交通量が分からなかった。グーグルのストリートビューで予備調査し、最初「新扇の嵶トンネル」を通ることにした。ストリートビューでは「扇の嵶隧道」の情報が得られなかったからである。しかし実際に歩いてみると後者の方にも歩道がちゃんとあり、交通量も少なく快適だった。一緒に歩いた皆さん、ゴメンナサイ。

 トンネルを抜けると扇の嵶南信号である。目の前に瀬戸内海が広がり、瀬戸大橋が見える。
 横を見ると、銅像があり「星島二郎」と書いてある。吉田内閣で商工相になり、またサンフランシスコ講和会議に全権委員として出席した。衆議院議長にもなった政治家である(岡山県大百科下p770 項目の著者/安田誠一 より一部要約)。米寿記念で建てたということだった。
扇の嵶トンネル出口 星島二郎銅像

 左折して県道393号線を下る。
 県道を120メートルほど進むと、左側に神道山テレビ塔への道がある。最初は時間も遅かったので調べなかったが、再調査の時は扇の嵶の道を調べるためにテレビ塔(正確には児島中継局というようだ。ウィキペディア:サイト確認平成28年6月6日)まで行ってみた。
県道353号線 神道山入口


 かなり急な坂道を登ること15分ほどで頂上に到着。その先に道はなかった。途中から一緒に歩いてくれた地元の方も、この先に道はない、と言われた。また、その方(七十代か?)が子どもの頃今通った登山道一帯は畑で、峠を越えるのは別の道だったと言われた。
 管理人としても、連山でもなく深い谷もなさそうな状況で峠として頂上を越えるのは違和感があった。

 また、国立国会図書館のレファレンス共同データベースの『倉敷市児島の地名「扇の嵶」の地名由来を知りたい。』という質問の回答の中に山陽新聞の記事として、神道山の頂上が「扇の嶺」と呼ばれたという説について紹介している。これも、神道山の頂上が「扇の嵶」であるとの説の否定材料のような気がする。

 しかし、明治二十二年に県道ルートができた(調査報告6p16)ということなので、帝国陸地測量部の地図での確認もできないし、手持ちの情報も少ない。とりあえず保留しておくことにした。
神道山登山道 神道山テレビ塔
県道に戻る。


 県道の右側に下津井中学校がある。中学校へ入って行く道の先、県道が左に曲がるところで細い道を下に入る(左写真)。民家の軒先の駐車場を通るような道で気兼ねしながら通った(一応断りを入れた)。正しいかどうか迷ったが、調査報告6の地図の経路に一番近い道筋だと判断した(ただし、真っ直ぐ下りることができず家を周り込むようになる)。
 中学校の運動場の下を通る道に出る。県道393号線から分岐して来た道である。
県道から下へ 下津井中学校下の道"

 下津井電鉄の軌道跡である自転車道が並行する。自転車道のための「東下津井駅」の駅名表示がある。二度とも写真を取り損ねたのでこちらからどうぞ。(児島駅~下津井駅(風の道) 倉敷観光WEB 倉敷市公式観光サイト。サイト確認:平成28年6月6日。
 ※後日撮りました。⇒下津井散歩

 広い道に出てから120メートルほど進んで坂を下りる分岐に進む。吹上港へ向う道である。
県道から下へ

 150メートルほど下りると右に分岐する道の右角(向かい側)に石柱の題目碑がある。
 彫りが浅いのか風化のせいか読みにくいが「南無妙法蓮華経」は分かった。だから題目碑だと推測した。前面に天保三壬辰年 十月二?と刻んでいる(?は不明)。裏面に明のように見える文字がある。頼みの調査報告にも載っていない。つまりは、全体としてはよく分からない。
下津井の題目碑 下津井の題目碑2

 そこから曲がりながら下りると右手に赤い鳥居がある。前に回ると鳥居の額に神力稲荷大明神とある。由緒などは不明。
 その先カーブミラーの下に思わせぶりな石があるので何だろう?とためつすがめつ見たが何も刻んでない。由加道標はどこだと思案しながら進んでいく。道は狭いが真っ直ぐなので遠くが見える。
神力稲荷大明神の道 下津井中学校下の道"

 石垣を過ぎて右から来る道を見れば、そこに道標があった。

由加山西参道90丁  吹上港方面から来る旅人に向いて「従是瑜伽山江九十町」、その横に「ゆ可山江九十丁」、裏面に「おかやまへ九里」と刻んでいる。

 西側の小高い丘に神社が見える。
四柱神社


 寄り道して登ってみた。神社が見えているのでそちらに向って路地を進む。真下につくと階段の急勾配が目について少し怖い。鳥居の額に「四柱神社」とある。「よはしら」と読むらしい。さらに柱に[文政四辛巳歳]と刻んである(文政四年=1821年)。
 門はお寺の山門のような形。拝殿が新しい(右写真)。
  四柱神社真下 四柱神社拝殿

文化二年の銘がある常夜燈もあり、寄進者が紀伊國屋利右衛門とあった。これはあとで別の神社でも見た。
 怖い思いをして急階段を上がったご褒美。目の前に吹上港と瀬戸大橋が広がる。
四柱神社常夜燈 瀬戸大橋

 階段横にある説明碑を読むと御祭神は住吉三神(ソコツツノオノミコト・ナカツツノオノミコト・ウワツツノオノミコト)とオキナガタラシヒメノミコト(神宮皇后)の四柱である。
 前の三神はイザナギの大神が黄泉の国から帰って、筑紫でみそぎをされた時誕生された。古事記では「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」と書く(講談社学術文庫、古事記(上)全訳注、次田真幸による)。
 日本の神様読み解き事典p149では、「ツツ」は星を指し、星と航海との関連から海神とされる説を紹介している。典拠は忘れたが「三神はそれぞれオリオンの三つ星を指す」という説を目にしたことがある。豊かな想像の世界だ。

 説明碑には『航海・漁業・農業の神様であるとともに平安以降には和歌・連歌・俳諧の神としても信仰されるようになった。当神社にも「奉納一千句集・秀吟五十句(文政十一年・一八二八年)の横額が奉納されている。下津井吹上の守護神である。』ともある。
(参考:岡山県神社庁のホームページ 神社紹介 サイト確認:平成28年6月6日)。

 もとの道に戻る


 坂を下りきると、歴史のあるどっしりとした家が両側にある交差点に出る。東西に走るのは県道21号線である。
 目の先に吹上港が見える。港としては地図にないがバス停がある。現在は漁港であるようだ。金比羅参詣名所図会には「田之浦、吹上、下津井、小下津井」が下津井であるとしている。
 この辺になると一帯が下津井の港なので、どう行っても良いと思うが、調査報告6の地図に従っては右折して、県道21号線を西に向う(左に曲がれば、児島八十八ヶ所霊場 32番札所 観音寺がある)。
 中国銀行下津井支店の先で道は左(南)に九十度曲がる。
下津井港前 県道21

 100メートルほど行くと、下津井郵便局の看板が見えるが、その手前T字路のところに「倉敷市下津井市民サービスコーナー」がある。調査報告6p17では出張所とある。その駐車場の西側に、下津井町が大正九年(1920)に建てた道路元標がある。
 道は郵便局の前で緩やかに右に曲がる。古い町並みが残る道を進むと、左側に小さな鳥居と祠がある。鳥居に額がなく、説明らしいものもなかったので詳細は不明。ただ鳥居の足元に「紀伊國屋 □」と書かれた背の低い(下が埋まっている)石柱があった。紀伊國屋は四柱神社でも見た。何かの寄進者だと思う。もしかしたらこの神社は四柱神社と関係があるかも知れない。
下津井町道路元標 道横の神社

   児島八十八ヶ所霊場三十三番札所平松庵と書かれた案内板が右側路地に入るブロック塀に張ってあったが、残念ながら寄らずに進む。 ※後日拝観しました。⇒下津井散歩

 歴史を感じさせる建物の合田商店に続いて「むかし下津井回船問屋」がある。明治時代の回船問屋を修理・復元した資料館である。見学し、土産に干物を買った。(参考:むかし下津井回船問屋 倉敷観光コンベンションセンター サイト確認:平成28年6月7日)。
むかし下津井回船問屋 道横の神社

 地元の人に教えてもらったが、「むかし下津井回船問屋」の前が旧下津井港で、船は回船問屋の前に着けられたという。
 それを聞いて、「金毘羅往来名所図会」金一ノ四十七「下津井ノ浦」の図と説明が腑に落ちた。現在の下津井港は、祇園神社の西にあり、吹上からかなり離れている。それに歴史的な遺物はほとんど現在陸地である「むかし下津井回船問屋」の海側周辺にあるからである。

 また調査報告6ではその資料の性格上、金比羅往来の港町としての下津井の繁栄が説明されるが、「北前船と下津井港」(角田直一著、手帖舎、1992)などの資料を読むと、北前船がもたらす収益の大きさが分かる。

 県道21号線の左右に歴史がある建物が続く。左側にたこ料理で有名な保乃屋がある。サラリーマンだった頃友人と来て食べたことがある。

 その先右手のカーブミラーに「鶴井戸・亀井戸」の案内板が留められている。右に折れるとすぐ鶴井戸の屋根が見える。右写真は鶴井戸。
(参考:下津井共同井戸群 倉敷市ホームページ サイト確認:平成28年6月7日) 鶴井戸亀井戸入口 鶴井戸
鶴井戸の横に地蔵尊が祀られている(左写真)。身投げした遊女の霊をなぐさめるためだという(調査報告6p17)。下津井の遊女については「北前船と下津井港」p164-170に詳しい。遊郭や遊女を何かと美化する文章に出会うこともあるが、基本的には悲惨である。
 その奥の亀井戸は屋根の形に蓋がある。「亀井」の文字と享保三年の銘が読める。
鶴井戸横の地蔵尊 亀井戸

 道は左に曲がりながら進む。正面に見える森が祇園神社である。この社叢は岡山県の郷土記念物であり、ウバメガシなどの海岸性植物が茂っている(調査報告6p18)。
(参考:下津井祇園神社の社叢 岡山の自然公園 サイト確認:平成28年6月12日。)

 鳥居がある。文政十三年庚寅二月吉日の銘がある。
祇園神社の鳥居 祇園神社

(参考:岡山県神社庁のホームページ 神社紹介) 

 下津井の祇園神社は江戸時代後半に長浜宮と祇園宮を合祀した神社である。本殿は二つある。また境内に二社の名前を記した額らしい石板があった。
祇園神社本殿 祇園神社額

 「旧長浜記」をはじめとした「下津井祇園文書」は北前船で栄えた下津井の記録として倉敷市の重要文化財とされている(参考:下津井祇園文書 倉敷市ホームページ サイト確認:平成28年6月7日)。

 さらに備前藩の御座船「白鴎丸」も収蔵されている(参考:御座船模型 倉敷市のホームページ:サイト確認平成28年6月8日)。

 「北前船と下津井港」p73によると、越後や加賀、能登の北前船の名が、同社の「玉垣勧進帳」に残っている。他にも加賀の北前船の船主から寄贈された燈籠などもある。

  遊女が寄贈した玉垣は比較的有名である。

祇園神社の玉垣  太い柱に[入船湯]という文字が刻まれ、その左右の手すり(?)の下の石柱に[入船内 小繁]、[川高内 小美可]、[三長内 小三]、[島津内 玉一]など数名は読めた。「北前船と下津井港」p167-168には、17名の名が上げられている。
 話を聞いた地元の人に芸者ではなく湯女ではないか、と言われた。確かに入船湯は下津井の銭湯であったようだが(「北前船と下津井港」p160)「入船=入船湯」かどうか不明だし、他は銭湯ではないようだ。おおむね遊女か芸者だったのではないだろうか。

 新旧が交差する絶景である。
祇園神社からの瀬戸大橋

 境内はそれほど広くないが、歌碑などもあり、下津井が繁栄していたころの歴史がぎゅっと詰まっている。下津井の繁栄は「吉備温故秘録」や「金毘羅往来名所図会」を読んでも伺い知れる。機会があれば下津井をゆっくり散策してみたい。
(平成28年6月10日に実行 下津井散歩

 そのあと「まだかな橋」(遊女などが北前船の来るのを「まだかな」と見た橋。説明板と親柱があった)の跡などを見た。
 左写真は道標。「三十番[指矢印右]大し道」「ゆか岡山道」「町内安全」と書いてある。
まだかな橋跡 下津井港の道標

 下津井電鉄バスは1時間に1本。最終は18時台が最終で(平成28年6月現在も)、それ以降公共交通機関はない。児島をぐるっと回って児島駅より帰岡。

 とりあえず下津井往来としては終点に到着した。今、下津井から丸亀に渡る船はない。この後どうするか。


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