兵庫日記の最初にもどる兵庫日記 口語訳 5まえにもどる

兵庫日記の5番目のページ

伊藤俊介と中堀惣左衛門の二人が前に出て、外国人に退席するように言った。外国人は退出した。
 その席に私権次郎は罷り出て、伊藤に向って「ご検証の通り、善三郎は滞りなく落命しました。お引き取りください。」と申し述べた。伊藤は「お見事でございました。直ちに帰り、宇和島公に御報告申上げる。」と言って帰って行った。次に薩長の隊長にも同様に申し述べた。
 死体は、先般願い出た通り、日置帯刀の家来の者に取り片付けさせて良いかと断ったところ、勝手次第取りはからってよろしい、と答えて退出した。
 介錯人および介添えの者に「見事であった」と声をかけてから退出した。
 警固の一隊と善三郎の死体はその夜のうちに西宮に帰った。時はすでに午前一時であった。
 翌十日は大雨だった。朝、永福寺へ銀二十枚を挨拶とした。岩下、五代、寺嶋へ鳥二羽を進物とした。中島、伊藤の二人に対しても同様にした。

 午後に宇和島公の御本陣に行き、待機しておかなければならないか、お尋ねしたところ、須藤但馬が面会し、もう別段の御用もないのでそちらの都合で出発して構わない、長々とご苦労であったとのご沙汰があったことを申し伝えられた。
 帰路、五代才助に面会し、礼を言った。辞去して神戸に行き、伊藤に面会し、同じく礼を言った。午後八時頃宿に帰って、出発の用意をした。


 十二日、朝八時前、兵庫表を立って、西宮へ午後三時頃到着し、帯刀殿及び大目付に一通り経緯を報告した。下宿で支度をし、すぐに山崎路を通って、京都に帰った。

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注記と補足

【事物と地名】
山崎路

【補足】
(一)『午前一時』と訳したが、原文は『時既九ツ半』、「兵庫一件始末書上」では、『時既ニ三更』とある。これらを検討して午前一時とした。永福寺を出た時間であると思われる。
 なお「瀧善三郎自裁之記」では、十日午前七時頃に「森村の本営に帰着す」とある。
(二)『鳥二羽』は、「神戸一件始末書上」では、『鶏一双』とある。切腹への立会いへの礼に鶏を贈るという感覚が理解できなかったので、類似の例を探したが未見。

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