日置隊を構成する小隊について具体的に記した資料は未確認である。傍証的な資料をもとに神戸での衝突を分析するのに必要な「小銃隊」と「大砲隊」について検討した。
小銃隊
①隊員数
二月になって、物頭・狩野伝左衛門(日置家臣・一八〇石)が銃卒二十名を引き連れて森村の本陣(日置帯刀以下が宿営していた)に駆けつけている(「瀧善三郎自裁之記」)。
また、事件後に編成された金川小銃隊一小隊の構成員は三十三人から四十人である(『御津町史』頁一一四〇―一一四四)。
同じく慶応四年七月以降編成された岡山藩の銃卒(足軽)三大隊の一小隊は平均二二名、平士銃隊の一小隊は二四名である(『岡山県史 第九巻』頁九九)。
これらから、鉄砲隊一小隊は、物頭(部隊長)の下に二〇―三〇名前後の戦闘員(銃手)が配置され、三小隊で六〇―九〇名前後の銃手がいたと推測した(いずれも目安としての大まかな数である)。また、『軍役之定』の記述などから小銃隊以外の隊員も銃を携行していた可能性がある。
②銃種
津田孫兵衛による国許への手紙「津田孫兵衛書簡 辰正月二十日西の宮より早朝達」で「岡山藩の「ミニニ銃」を二〇丁取り寄せる相談」をしている(『御津町史』頁一一四七―一一四八)。
遊奇隊(この当時は耕戦隊、同じく西宮警衛に従軍した)は『「ミニン銃」「ヤルト銃」の併用』であったようだ(『備前遊奇隊東征記』頁六)。
岡山藩が所持している洋式銃を慶応三年二月に記録した『新流御鉄砲并御小道具寄帳』(池田家文庫H4-14)には将軍から拝領した七発込銃(スペンサー銃と推測)以下一五三丁が記載されている。
このうち、銃の型式が推測できるのはヤーゲル銃と思われる銃が三五丁、スナイドル銃と思われる銃二七丁、ミニエー銃と思われる銃が二二丁である(※一)。
ヤーゲル銃とミニエー銃はライフリングを施した前装銃、スナイドル銃はエンフィールド銃(ミニエー銃の改良型)を改造した後装銃である。日置隊の装備していた銃もこの三種のうちのどれかであろうと思われる。また、一種類ではなく複数種類も考えられるが、ライフリングのある銃であれば、照準をあわせて狙うという行動が可能である。
同書は慶応三年の岡山藩の状況であるが、藩政の中枢にいる家老の一人である日置氏の家臣団であること、また岡山藩に銃隊が整備されたのと同じ時期(慶応四年閏に銃隊を組織していることなどから考えて、岡山藩での銃所持状況に準じていたと考える。
外国側は衝突時の日置隊の銃をどう記録しているかを見ると、アメリカ公使ファルケンバーグによる国務長官への報告では「エンフィールド銃」である(『神戸事件』頁一二〇)。
陸軍中尉で退官したドイツ公使フォン・ブラントは、回顧録で「連発銃」だったと書く(『ドイツ公使の見た明治維新』頁一三四)。
以下「マスケット銃」(ブラント。『ある英国外交官の明治維新』頁一一二。※二)、「後装銃」(パークス。前同、頁一〇八)、「元込銃」(サトウ。『一外交官の見た明治維新 下』頁一三〇。原文は「breech-loaders」,A Diplomat in Japan,page347)とさまざまであるが、後装銃が多い。
日本側の傍証、外国側の記述を併せて考えると後装(元込)の単発銃の可能性が高い。ただし、銃隊としての成立が早いと思われる耕戦隊より新しい型の銃を装備したとするのは疑問が残る。その辺も含めて今後、調べる必要がある。
前記耕戦隊の装備、『新流御鉄砲并御小道具寄帳』の銃の保有状況、銃撃戦での山崎喜兵衛の感想「此方ハ古流ニ而」(「高須七兵衛聞書」)などを踏まえて、連発銃が装備銃の中心であった可能性は低いと判断した。
【補注】
※一「ミニニ銃」「ミニン銃」「ミニー銃」は「ミニエー銃」、「スエツ銃」はスナイドル銃、「ヤアルト銃」「ヤアケル銃」はヤーゲル銃と推測した。
※二『ある英国外交官の明治維新』(原著『Mitford's Japan』。以下資料A)は、英国外交官ミットフォードの『回想録』(『Memories, by Lord Redesdale』。邦題『英国外交官の見た幕末維新』として刊行されている。以下資料B))などをもとに駐英国大使であったヒュー・コ―タッツイが著したものである。
資料A頁一一二の日置隊の最初の発砲に関する記述は、神戸での衝突についてのロングフォードの記述に反論するために、ブラントの回顧録『ドイツ公使の見た明治維新』(以下資料C)からミットフォードが資料Bに引用したものを、資料Aで再掲したものである。
三書の日置隊の発砲時の記述の原文はすべて資料Cであるので、邦訳も一致するはずであるが、微妙に異なる。
邦訳では、資料Aは「マスケット銃の鋭い射撃音」(頁一一二)、資料Bは「小銃を連射する音」、資料Cでは「一斉射撃が起こり」とする。
少しあとの箇所で銃撃について書いた部分は、資料C「彼らは連発銃で武装していた」(頁一三四)とする。それを引用した資料B「連発銃を装備」(頁一二二)、資料A「連発銃を装備」(頁一一二)である。この部分の表現は一致している。
マスケット銃はライフリングをしていない前装銃で、この時代では古い銃である。いっぽう連発銃は当時としては新しい銃であり、資料Aの記述は矛盾する。
資料Bの原文『Memories, by Lord Redesdale』を参照すると、この部分の原文は下記の通りである。ここで使われているmusketryという単語は、「小銃射撃」という意味で使われることことや、衝突時の状況(特に外国側の記述)および『新流御鉄砲并御小道具寄帳』の記述などから、日置隊の銃装備の中心が旧式のマスケット銃とあったと推定するのは無理がある。資料Aの「マスケット銃」は資料BとCの訳文である「小銃射撃」であると解した。
『英国外交官の見た幕末維新』の原文
All of a sudden I saw the soldiers halt,front,and immediaterly I heard the rattle of a volley of musketry and the whistling, of bullets mostly over our heads.
【出典】
"Memories, by Lord Redesdale: with two photogravure plates and 16 other illustrations" / Redesdal,Algernon Bertram Freeman-Mitford,E.P.Dutton and Company,1915.vol.2,page431.
閲覧はインターネットアーカイブのOpen Libraryによった(2018/06/07)。
Memories, by Lord Redesdale
『ドイツ公使の見た明治維新』(原題:Dreiunddreissig Jahre in Ost-Asien Erinnerungen eines deutschen Diplomaten=東アジアにおける三十三年―あるドイツ外交官の思い出)も閲覧できた。ヒゲ文字(フラクトゥール)のドイツ語はほとんど判読できなかったが、前記"Memories, by Lord Redesdale"を検討することで、推定に必要な情報を得ることはできた。
【参考】
前記の耕戦隊のように数種類の銃が装備されている例も多く、日置隊も同様であった可能性がある。なお、徴用された猟師などは火縄銃を所持していたと思われ、また銃隊以外にも、銃を装備していた可能性もある。
この時代、新旧多様な銃が外国商人によって大量に売りさばかれた。慶応三年長崎と横浜で輸入された銃砲は、一六万七七〇〇挺という(大砲と銃『復刻版 NHK歴史への招待⑭』頁二七)。
慶応二年に軍令を出し、従来の弓・槍・剣の戦闘から銃と大砲による戦闘へ比重を移そうとしていた岡山藩もかなりの量の銃を購入したと思われ、『新流御鉄砲并御小道具寄帳』の状況からは大きく変わっていたと思われる。
慶応三年から四年初頭にかけては、これらの状況が加速をつけながら変わっていく過程である。より具体的な推定をするには詳細な検討を要すると思われるが、神戸での衝突時の日置隊の装備銃として「ライフリングのある単発銃」を基礎にすることは大きくまちがっていないと思われる。
『新流御鉄砲并御小道具寄帳』で見る範囲では、銃の購入は江戸や長崎で行っている。
岡山県立記録資料館に所蔵されている『本段留守居当番宛側詰当番書状』には、日置帯刀にゲベール銃をお下げ渡しになり、所持して下馬門を通るので宜しく取り計らうように、と書いてある(松田家文書)。日付などは分らないが、ゲベール銃はライフリングのない前装単発銃で、やや古い。