西宮警衛 日置隊の編成(検討)- ⅲ -【調査途中 


大砲隊
①隊員数と編成
 編成単位としては、小銃隊一小隊と同じ程度ではないかと推定。
『瀧善三郎神戸一件書』(池田家文庫S6-119)では、片上で隊列を変更したときのこととして「即刻軍令ヲ示シ、進行之列ヲ変シ、先隊トシ而、砲兵一小隊、砲門三門砲長瀧源六郎同善三郎、小銃隊二小隊丹羽勘右衛門、角田平左衛門卒長タリ、士隊一小隊津田孫十郎」と記述する。
 この記述と、「瀧善三郎自裁之記」の記述を合わせて検討すると、大砲隊は砲三門を擁する一小隊であり、その責任者は瀧源六郎であると推定できる。
さらに「高須七兵衛聞書」の「先手丹羽勘右衛門、家老組、大砲方 一、瀧源六郎 二、浜田虎介 三、瀧善三郎」という記述を合わせて、砲三門のそれぞれに担当者(責任者)がいると推定した。
 小隊内の編成は次の通りになる。

大砲隊(隊長)瀧源六郎(横目格、一〇〇石)
第一砲、瀧源六郎
第二砲、浜田虎介(中小姓、十五俵二人扶持)
第三砲、瀧善三郎(側役、五人扶持 ※一)
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※一 瀧善三郎の職・扶持は『先祖[並]御奉公之品書上 瀧成太郎』(池田家文庫D3-1591)によった。
【補注】
大砲が六門であったとする資料がある。前記「編成(一)」で述べたことを再掲する。
【「瀧善三郎自裁之記」には「野戦砲六門」、『瀧善三郎神戸一件書』では「砲門三門」とある。アメリカ代理公使ファルケンバーグの国務長官への報告に、日本側が放置した物のなかに「三門の真鍮製大砲」という記述がある(『神戸事件』頁一二二)ことなどから、大砲は三門だとした。】


『瀧善三郎神戸一件書』では、砲長として瀧源六郎と瀧善三郎を並べてあげている(但し、罫紙の上部に「源六郎善三郎兄弟ニテ両人別ニ禄ヲ受■■ 此条取調フベシ」と付箋がある。文書を受け取った者か、あるいは記録方か不明だが、この記述に何らかの疑問を持ったようである)。
 単純に考えても、一つの隊、それも小隊に隊長が二人いるのはおかしい。指揮系統が混乱するだけである。
 この問題を解決するために、瀧善三郎を第三砲隊長と解釈する資料も見受けられる。この名称は大げさな印象を受けるので、その権限を確認しておく。

 小銃隊をはじめ各隊の隊長の役職および石高を見ると、皆日置家の幹部である。
 大砲隊では、瀧源六郎が横目格一〇〇石でそれにふさわしい。
 しかし、その弟の瀧善三郎はこの時、前述のように五人扶持で兄源六郎方へ住んでいた。一家を構えているとはいいがたい。なお、善三郎が日置家中で百石を下賜され、馬廻りとされるのは二月七日である。
 また、二番めに浜田虎介の名があるが、彼は中小姓で十五俵二人扶持であり、この者も隊長の格とはいえない。
 これらを踏まえて、瀧源六郎が大砲隊の隊長で、第一砲の担当(大砲方)を兼ね、浜田虎介は第二砲の担当、瀧善三郎が第三砲の担当と考える方が自然であると思う。
 これにそれぞれ数人の足軽や雑役夫が配置されたと思われるので(『軍役之定』)、班程度の規模の責任者(班長=砲長)であったと思われるが、それを越えた(例えば戦闘開始を告げる「発砲」を号令するような)権限はなかったと考えるのが妥当ではないか。

②砲種など
 調べた資料の大砲に関する記述は次のとおりである。


 日置隊は砲三門を運搬しながら西国街道を東上してきた。吉井川の川渡し、難所船坂峠越えなどもある。この全行程を、砲車に乗せてごろごろと曳いたとするのは違和感がある。
 行軍用の箱型容器によって運搬された可能性もある(『特別展 動乱と変革の中で』、岡山県立博物館編・発行、二〇〇四に掲載された口絵写真四一「行軍台大砲 江戸時代後期 閑谷学校資料館」を見ての連想)。そうであれば、 という記述も大砲について書いたものである可能性が出てくる。

 前述の通り岡山藩はこの時期兵制改革を企図していた。元治元年(一八六四)以降、新流大砲隊が結成され、また慶応二年(一八六六)日置氏の知行地、金川西町に洋式砲が設置される(『御津町史』頁一〇二九)など潮流は西洋流砲術に向かっていたが、実態は新旧混交の時代であった。
 瀧家は初代助六郎正臣の代から「大筒役」を勤めていた(『先祖書 瀧源六郎』池田家文庫D3-1603)。伝統的な砲術には精通していたと思われるが、源六郎が洋式大砲をどの程度習得していたか不明である。同人の奉公書(前述)では洋式砲術の学習の記述はない。

 砲種の特定はできていないが、洋式ではなく、従来型の「小型の真鍮砲」ではないか、と推測している。


(三)その他

徒士隊、士隊についての装備は未調査。『軍役之定』に「諸士成るだけ鉄砲持つべき」とあるので、徒士、士であっても銃を持っていた(鉄砲持ちに持たせていた)可能性が高い。

服装について
 着衣
 長州征伐に際して、岡山藩池田貢(小仕置 千石)から、金川家老宛ての文書に「着服」についての通達が出されている(『御津町史』頁三七七)。また、『軍役之定』にも着衣についての規定がある。
 前者には「筒袖並袖なし割羽織、襠高踏込、伊賀袴等取交着用苦しからず。平袴、丸羽織無用之事」とある。
 この時代の服装に関する知識がないので詳細は分からないが、筒袖とズボンのように両足に分かれた野袴の類を推奨していると思われる。
 戊辰戦争後のものとして、筒袖・ズボンの半洋装の写真を見ることが多い。戊辰戦争に従軍した池田伊勢配下、布施虎夫(中老。銃隊の記述がある)の写真では、筒袖・ズボンを着用している。
 これらから考えるに、士隊や徒士隊はともかく小銃隊と大砲隊は作業性を考えれば筒袖だったのではないか。また、衝突後、二月になって切腹する瀧善三郎を護送する岡山藩兵が「野服」であったことから(『兵庫一件始末書上』池田家文庫S6-128。)、下は野袴あるいは同様の服装であったと推測している。
 相印
 『軍役之定』末尾に「冑前立并袖印等兼て定めの通りなるべき事」とある。また、前記、池田貢からの文書に「法被を着るか相印をつける」ことが定められている。加えて、岡山藩の東征軍の一翼を担った農兵隊(耕戦隊)の「農兵隊法則」にも釘貫を相印として着用することと記されている(『備前遊奇隊東征記』頁八)。
 岡山藩の紋は本紋の蝶以外の替紋の一つとして釘抜(『岡山県通史 下』頁三〇〇)がある。


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