慶応四年神戸事件を考える

書きかけマーク

Ⅱ.岡山藩兵の出撃

1.慶応四年一月一日から同五日

 結局、力で決着をつけるしかなかった。かろうじて保たれていた平穏は崩壊し、内戦への道をひた走る。
 岡山藩は、朝廷の命により、兵を送る。慶応四年正月初頭、諸役を含めた総勢三千名の藩兵が西宮を目指して出発した。

一月一日(陽暦1月25日)

◎徳川慶喜、討薩の表を発し、旧幕府軍へ京都への出撃を命じる。
★岡山藩西宮警衛隊、雀部次郎兵衛上下五人出発。(※1
 岡久渭城は雀部以下は、「途上の交渉」をするためとする(『明治維新 神戸事件』頁22)。
岡山藩兵の目的地  岡山藩は、神戸での衝突が起きた正月十一日に「西ノ宮御警衛所付御陣屋」を大洲藩から受け取っている。(参与役所への報告は同十四日。『史料草案 巻之二十一』)。
 受け取ったのは日置隊の前に出発した隊か京都から向かった先遣隊であると思われる。
 西宮警衛隊の目指したのはこの「西ノ宮御警衛所付御陣屋」であると思われる。また、この周囲に池田伊勢、日置帯刀などの隊が分散して、宿営していた。
【打出陣屋について】
 この陣屋は、摂海警備を命ぜられた長州藩によって文久元年(1861)に打出村字広野に設けられた。その後、久留米藩、龍野藩、勢州藩、慶応元年に加賀大聖寺藩、翌二年伊予大洲藩と変わり、岡山藩がそれを引き継いだ。この後、二月に久留米藩、四月に尼崎藩へ引き継がれ、明治二年三月撤去された。(『新修芦屋市史 本編』頁578―582)。
★日置帯刀、金川(日置氏陣屋町)の七曲神社へ西宮へ出撃することの成功を祈って願文を出す。(願文の日付は正月。『七曲神社と金川』頁105)

一月二日(陽暦1月26日)

◎旧幕府軍討薩表を掲げて、大坂を出発。本営とする淀に宿営。
★岡山藩西宮警衛隊、御鉄砲頭三人、人数上下百二十二人出発。
岡山藩兵の編成について

[兵数と構成]
 慶応二年の『軍役之定』(池田家文庫、資料番号H2―36)の「戦兵并雑人覚」では、日置氏の家禄、一万六千石では、兵力は「戦兵 百六拾人 雑人 百六拾人」と定められている。合計すると三二〇名であるが、これはあくまで基本なので、新政府に届け出た三四〇名(『史料草案 巻之二十一』)が出撃数であったと思われる。
 『軍役之定』を参考にすれば、約半数が雑人であった。「慶応四年侍帳」(『御津町史』頁1129―1135)で氏名が確認できる日置氏の家臣は坊主や医者を含めて一八九名である。日置家家臣団のかなりの部分が動員され、また、侍帳に載っていない足軽や雇人に加えて、猟師や農民を臨時の足軽や雑人として徴発していたと思われる。

【補注】
 慶応二年の軍令では、「雑人は銘々知行所より定之人数を仮出(かりだす)事」とある(『岡山県史 第九巻頁六九』)。
 ペリー来航時に非常対応のため、日置氏の知行地内の徴発対象となる人足、猟師、大工、名主を確認している(『御津町史』頁三七四―三七七、資料一)。実際に徴発されたかどうかは記されていないが、知行地に対するこのような支配権は存続していたようだ。
 安房・上総の海防警備で岡山藩が派遣した軍勢一一〇〇人余のうち士分は一一〇人余で、残りは徒・足軽や農民から臨時に徴発された郷足軽だったとする資料もある(『岡山県の歴史』頁二五六)。
 西宮警衛隊でも、下田村の民之介が神戸での衝突のあと捕虜となって尋問書を持ち帰らされ(『瀧善三郎神戸事件日置氏家記ノ写 同人遺書並辞世ノ歌』ほか。サトウなど外国側の回顧録にも記述されている)、赤坂郡山口村の万三郎と善介、豆田村の者二人、富田村の者二人が、衝突のとき外国兵に銃撃され、山中で一夜をあかしたあと、六人で国に逃げ帰った(『岡山県の歴史』頁二七一―二七二)。これらの村はすべて日置氏の知行地である(『御津町史』頁一九五)。

一月三日(陽暦1月27日)

◎夕方、鳥羽街道で旧幕府軍と薩摩軍(新政府軍)との間に戦端が開かれる。続いて伏見でも市街戦となり、鳥羽伏見の戦いが始まる。戊辰戦争の始まりである。
◇岡山藩土倉修理(※2、新政府に呼び出され、仮建にて、大坂から上京してきた幕兵を追討することを告げられ、それに協力すること、西宮は以前にも増して要衝の地となったので、守衛に尽力することを命ぜられた。(『史料草案』巻之二十一、正月三日。「(前略)坂兵伏見表出張、開兵端、反逆之色顕然ニ付、追討之兵差向られ候間(以下略)」。『復古記』によれば、開戦の通知は鳥取藩などへも伝えている(巻十五、明治元年正月三日、第一冊。頁四三〇)。
◇「目下之形勢御注進」のため、高木右門組大組・河崎栄次岡山に向けて急輿で出発。
【鳥羽伏見の戦い】
鳥羽伏見の戦い
 『絵本通俗近世史略』より。国立国会図書館デジタルコレクション。(保護期間満了)
★岡山藩西宮警衛隊、御番頭 二隊、人数上下二百八十五人出発。

一月四日(陽暦1月28日)

◎阿波沖海戦。早朝、阿波沖で旧幕府海軍・開陽、幡龍(いずれも神戸開港の日に外国艦隊の祝砲に対し、応砲した艦である。『日載』十、十二月七日)が薩摩藩軍艦・春日、翔凰を砲撃、海戦となる。翔凰は阿波由岐浦に座礁、自焼。(『戊辰戦争』頁75―77)
◎鳥羽伏見の戦いが続く。錦旗登場する。
◇仮建(京都御所内の建物)に呼び出され、「西ノ宮御警衛之義長州ト申合、早々人数差出厳重ニ相守るべく旨」口頭で達せられた。
◇夜、呼び出され(仮建か)大津表警衛を命ぜられ、夜出撃。詳細未確認(『史料草案』巻二十一では「出張ハ番頭池田造酒一手」以下の頭注がある)。
★岡山藩西宮警衛隊、日置帯刀一手人数三百四十人出発。西国道東上、藤井宿営。
★同耕戦隊六小隊、人数二百四十人出発。旭川河口の福島湊より出港。
(『備前遊奇隊東征記』では、六小隊二百十二人。(頁37))
★同大砲隊二十五人、人数上下百十五人出発。
【西国街道等神戸事件経路図】
西国街道等神戸事件経路図

【補注】街道・往来の名称や起終点は捉え方によって異なるが、当サイトでは、下関から広島・岡山・兵庫・西宮を経由して京都への道を「西国街道」、西宮から大坂へ向かう道を「中国路」とする。

一月五日(陽暦1月29日)

◎鳥羽伏見の戦いが続く。
★岡山藩西宮警衛隊、池田伊勢一手人数八百人出発。(同人奉公書では、一月六日出立)
★日置隊、藤井出発、片上宿営。
片上逗留について 【鳥羽伏見開戦の報告】
『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』によれば、この日岡山藩士・山田陽三郎等と遭遇している。このあと片上に逗留していることなどから考えて、ここで鳥羽伏見の戦いの情報が日置隊に伝わったと推測される。
 しかし、伝えたのが山田陽三郎であるとすること、あるいはここで山田陽三郎と遭遇したことには、疑問がある。
 山田陽三郎は、岡山藩士山田市郎(市郎左衛門)のことと思われるが、同人の奉公書(池田家文庫 資料番号D3―2689)によれば、慶応三年に長州へ使者として趣き、同四年正月元日に宮市宿を出て、翌二日に三田尻から薩摩藩の蒸気船で岡山に帰っており、帰着は四日とある。四日に長州の返答等を上申し、五日に伏見での戦闘の報を受けて、京都に帰るよう仰せつけられている。そして、六日に中条権左衛門を同道して、出発。これが正しければ、五日に片上で日置隊と会ったのが山田である可能性は低い。
 『史料草案』巻弐拾壱(池田家文庫 資料番号A7―34)正月三日によれば、「同日、目下之形勢為御注進河崎栄次 [高木右門/組大組] 急輿御国江出立」とある。彼が陸路を通れば、五日に片上で日置隊に鳥羽伏見の第一報を伝え、その日のうちに岡山に帰着して情報を伝えることは不可能ではない。
【片上逗留】
 日置隊はこの後、七日まで片上に逗留している。片上宿は自領であり、また瀬戸内東部有数の港である。ここで、京阪の情報を収集し、計画を見直していたと思われる。
 この先、難所の有年峠は帰趨の判明しない赤穂藩の領地であり、新政府側の龍野領の先の姫路藩は、老中酒井忠惇の領地であった。
 なお、『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』では、大砲の追加手配のために、瀧善三郎を国許に遣わしている。

補注

※1出撃状況  西宮警衛隊の出撃については、『史料草案』巻二十一の記述によって記す。この記述は、予定の可能性が高いが、ほぼ同じ動きをしたと推測。池田伊勢の出立は同人奉公書では一月六日と、『史料草案』と異なる。

※2土倉修理  土倉正彦。岡山藩家老。この時は、新政府参与として出仕。戊辰戦争では、仁和寺宮に従って軍艦として会津の戦いに参加した。なお、岡山藩からの参与は、土倉と土肥典膳の二人。(『岡山県大百科』下、頁300他)