『日載』十、によれば、柴田剛中は、開港の翌日八日に英米艦のアドミラール(海軍将官。提督か)や各国の公使・岡士(コンスル。領事)と会い、英領事と会談している。九日には雪がちらついたようだ。十日には、森山多吉郎など部下に鶏卵一籠を送り、慰労している。
大政奉還は、策略家徳川慶喜が乾坤一擲放った戦術と理解され幕臣はそれほど大きな不安を持っていなかったようだ。何より実務を自分たちが司っているという自信があったのだろう。しかし、彼らが思っている以上に敵対勢力は執拗だった。

【復古記 巻十一、慶応三年十二月二十日】(第一冊、頁三三二)
〇池田茂政ノ召命ヲ止メ、加藤秦秋ニ代テ、西ノ宮ヲ守衛セシメ、中川久昭ノ請ヲ充シテ、京都市中巡羅ヲ罷ム。
昨十九日、上京之儀、御沙汰ニ相成候得共、深思召之旨モ被為在候ニ付、在国ニテ彌可奉公、更ニ被仰出候事
但、西宮札之辻固之儀、是迄大洲へ被被仰置候処、此度御免相成候間、其跡可相替御沙汰候事。
【史料草案巻二十、慶応三年十二月】(池田家文庫、資料番号A7―71)
廿日
参与御役所へ御呼出ニ而御渡
備前少将
昨十九日、上京之儀、御沙汰ニ者相成候
得共、深思召之旨も被為在候ニ付、在国
ニ而彌可奉公、更ニ被仰出候事
但、西之宮札之辻固之義、是迄大洲へ被
仰付置候処、此度御免相成候間、其跡
可相替御沙汰候事。
闕字は詰め、句読点を付した。以下、特に断りがない限り同じ。解読・文責はサイト運用者にある。
政府の史書『復古記』と池田家の史書『史料草案』は、どちらも明治になって既刊の史料をもとに、編纂されている。
神戸事件について書かれた部分で重複している場合も多い。その場合、特に必要な場合を除き、以降はどちらか一つを引用する。また、史料草案は同内容のものが二種あるが、相互に比較は行わず、資料番号を記した一種類だけ参照した。
【史料草案巻二十、慶応三年十二月】(池田家文庫、資料番号A7―71)
廿八日
禁中御仮建江重役御呼出ニ付、修理助出頭、五
條殿長谷殿御逢ニ而西之宮警衛之義
御尋草々人数繰出候様被仰聞、別紙御書付
御渡
備前少将
西之宮守衛是迄加藤遠江守被
仰付置候処、当地彼是混雑之趣相聞候、素
小藩ニ而者御懸念之義ニ付、過日守衛被
仰付置候得共、猶又一入草々出兵取締可有
之、御沙汰候事
「仮建(かりだて)」は、京都御所内に幕末期に増設された建物。文久三年(一八六三)将軍家茂の参内の前に、鶴間に入りきらない三位・参議以下の随従大名の参内に備えたものである。当初仮設であったが常置され、御所内で外部の武家勢力と公家が接触することができる場所であった。比較的身分の低い武士であっても、入室し、公家と会うことができた。
重役・修理助は、山藩家老土倉家の土倉修理助。池田家文庫諸職交代データベースでは明治二年家老。一万石。衝突時の役職は未確認。
岡山藩は、総勢三千名に上る部隊を出征させると新政府に届け出る(※1)。
▽資料・史料草案巻二十一一 西之宮 出張人数
朝廷へ御届左之通
元日出立雀部次郎兵衛
人数上下五人
二日御鉄砲頭三人
人数上下百二十二人
三日御番頭 二隊
人数上下二百八十五人
四日日置帯刀一手
人数三百四十人
耕戦隊六小隊
人数二百四十人
大砲隊二十五人
人数上下百十五人
五日池田伊勢一手※
人数八百人
右之外諸役々之者九百人斗出張仕候
江=へ、数字を実用漢字(例:拾=十)にするなど読みやすいように一部修正した。
※ 池田伊勢の奉公書(『御奉公之品書上』、池田家文庫資料番号D3―9)では、出発日は、慶応四年正月六日となっている。
補注
※1出兵人数と政府への提出
『史料草案』巻二十には、慶応三年十二月二十九日に「不取敢(とりあえず)」提出したという西宮警衛隊について記載されているが、神戸で衝突した隊の隊長、日置帯刀の名が記載されていないなど矛盾がある。『史料草案』巻二十一、正月、のものが正式なものだと判断して、それにより出撃編成を推定した。
戦闘部隊約1,900名に諸役900人を加えるとほぼ3,000名である。これに京都から急行した150名が加わる。(『岡山県史』10、頁6では、『史料草案』巻二十を出典としており、兵数が若干異なる(国許から2007人、京都からの150人と併せて2157人とする)。この違いの理由はわからないが、神戸事件について検討する際には、大きな問題になることではないので特に調査はしていない。
また、全体数を藩兵としているが、当サイトではかなりの農民が徴用されたと推測している。出撃兵の構成などについての検討は、「Ⅱ.岡山藩兵の出撃」で記述する。参照