慶応四年神戸事件を考える
Ⅰ.争乱の時代
4.政局の転換(神戸開港後から慶応三年晦日まで)
『日載』十、によれば、柴田剛中は、開港の翌日八日に英米艦のアドミラール(海軍将官。提督か)や各国の公使・岡士(コンスル。領事)と会い、英領事と会談している。九日には雪がちらついたようだ。十日には、森山多吉郎など部下に鶏卵一籠を送り、慰労している。
大政奉還は、策略家徳川慶喜が乾坤一擲放った戦術と理解され幕臣はそれほど大きな不安を持っていなかったようだ。何より実務を自分たちが司っているという自信があったのだろう。しかし、彼らが思っている以上に敵対勢力は執拗だった。
慶応三年
- 十二月八日(1968年1月2日)
- ●アメリカ公使ファル・ファルケンバーグはこの日、大坂から国務長官宛てに文書を出している。開港日に参集した外国公使は、その後大坂へ移動した。(『国際都市神戸の系譜』頁45―47)。ドイツ公使フォン・ブラントの回顧録『ドイツ公使の見た明治維新』によれば一月初め(慶応三年十二月)には、「諸外国代表がすべて大坂に参集し」ていた(頁120)。
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- 十二月九日(1968年1月3日)
- 〇王政復古の大号令。天皇親政の新政権が発足。三職(総裁・議定・参与)が置かれた。夜に行われた小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が決定された。
- 十二月十一日(1968年1月5日)
- f.夕刻、西国往還付替工事の落成が代官斎藤六蔵より柴田へ報告された。
- 西国往還付替道について

- ◎柴田剛中に王政復古の知らせが入る。
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- 十二月十二日(1968年1月6日)
- ◎徳川慶喜、京都から大坂へ移動。桑名・会津など佐幕派の藩兵が従った。
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- 十二月十四日(1968年1月8日)
徳川慶喜、大坂城でイギリス公使パークス・フランス公使ロッシュと謁見。慶喜、領地返納(納地)は行わないことを表明。(『遠い崖』6、頁123―124)
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- 十二月十六日(1968年1月10日)
徳川慶喜、大坂城でイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロイセン・イタリアの六ヶ国公使と謁見。外交権は自分にあると表明。柴田剛中列席、二十七日まで在坂。
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- 十二月十九日(1968年1月13日)
- ◇新政府、岡山藩主・池田茂政を招集。池田政詮・鍋島斉正・小松帯刀も同じ日に招集されている。
(『復古記』巻十一、慶応三年十二月十九日。第一冊。昭和五年版頁324。以下『復古記』は昭和五年版の頁を示す。)
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- 十二月二十日
- ★新政府、岡山藩に西宮警衛を命じる。前日の池田茂政招集を撤回し、西宮札ノ辻の警衛を伊予大洲藩と替わることを命じる。
▽資料・復古記巻十一
【復古記 巻十一、慶応三年十二月二十日】(第一冊、頁三三二)
〇池田茂政ノ召命ヲ止メ、加藤秦秋ニ代テ、西ノ宮ヲ守衛セシメ、中川久昭ノ請ヲ充シテ、京都市中巡羅ヲ罷ム。
昨十九日、上京之儀、御沙汰ニ相成候得共、深思召之旨モ被為在候ニ付、在国ニテ彌可奉公、更ニ被仰出候事
但、西宮札之辻固之儀、是迄大洲へ被被仰置候処、此度御免相成候間、其跡可相替御沙汰候事。
【史料草案巻二十、慶応三年十二月】(池田家文庫、資料番号A7―71)
廿日
参与御役所へ御呼出ニ而御渡
備前少将
昨十九日、上京之儀、御沙汰ニ者相成候
得共、深思召之旨も被為在候ニ付、在国
ニ而彌可奉公、更ニ被仰出候事
但、西之宮札之辻固之義、是迄大洲へ被
仰付置候処、此度御免相成候間、其跡
可相替御沙汰候事。
闕字は詰め、句読点を付した。以下、特に断りがない限り同じ。解読・文責はサイト運用者にある。
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政府の史書『復古記』と池田家の史書『史料草案』は、どちらも明治になって既刊の史料をもとに、編纂されている。
神戸事件について書かれた部分で重複している場合も多い。その場合、特に必要な場合を除き、以降はどちらか一つを引用する。また、史料草案は同内容のものが二種あるが、相互に比較は行わず、資料番号を記した一種類だけ参照した。
西宮の守衛について
『史料草按』巻之二十には警衛地は「西ノ宮札之辻」とある。西宮町には、本町筋と札場筋の交差点、札場筋南端の海岸近くに高札場があった(兵庫県の地名Ⅰ、頁二四九)。
また、尼崎藩領時代と推測される西宮町浜図(西宮市立郷土資料館蔵:にしのみやデジタルアーカイブ 確認2019/12/23)には、西宮神社の東側に、御旅所と札場が記されている。
ただし、「札ノ辻」は象徴としてあげられたもので、下関から西宮を経由して京都へ向かう西国街道、西宮から大坂へ向かう中国路の分岐点である要衝西宮全域の警備を命ぜられたのであることは言うまでもない。ここが旧幕府方に抑えられたら、薩長を始め西国からの兵員・武器の輸送が滞る。
また、幕府が海岸に設置した2基の石砲台のうち1基の管理も命ぜられている。(史料草案二十一、正月十四日)
- 十二月二十五日
- ◎薩摩藩江戸屋敷焼き討ち。薩摩による江戸市中の攪乱工作に対し、庄内藩兵などが襲撃。薩摩の挑発に乗ったことが鳥羽伏見の戦いを引き起こす一因という。
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- 十二月二十八日
- ★岡山藩、西宮出兵を督促される。重役が御所仮建に呼びだされ、岡山藩重役・土倉修理助が、出頭。「五條殿と長谷殿」に会って、早々に西宮警衛に出兵するようにと督促された。
- 五條殿は、五條少納言為栄(新政府参与助役)、長谷殿は長谷三位信篤(安政六年、日米修好通商条約に反対して抗議行動を行った八十八卿の一人。この時新政府議定)だと思われる。
▽資料・史料草案巻二十
【史料草案巻二十、慶応三年十二月】(池田家文庫、資料番号A7―71)
廿八日
禁中御仮建江重役御呼出ニ付、修理助出頭、五
條殿長谷殿御逢ニ而西之宮警衛之義
御尋草々人数繰出候様被仰聞、別紙御書付
御渡
備前少将
西之宮守衛是迄加藤遠江守被
仰付置候処、当地彼是混雑之趣相聞候、素
小藩ニ而者御懸念之義ニ付、過日守衛被
仰付置候得共、猶又一入草々出兵取締可有
之、御沙汰候事
「仮建(かりだて)」は、京都御所内に幕末期に増設された建物。文久三年(一八六三)将軍家茂の参内の前に、鶴間に入りきらない三位・参議以下の随従大名の参内に備えたものである。当初仮設であったが常置され、御所内で外部の武家勢力と公家が接触することができる場所であった。比較的身分の低い武士であっても、入室し、公家と会うことができた。
重役・修理助は、山藩家老土倉家の土倉修理助。池田家文庫諸職交代データベースでは明治二年家老。一万石。衝突時の役職は未確認。
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岡山藩は、総勢三千名に上る部隊を出征させると新政府に届け出る(※1)。
▽資料・史料草案巻二十一
一 西之宮 出張人数
朝廷へ御届左之通
元日出立雀部次郎兵衛
人数上下五人
二日御鉄砲頭三人
人数上下百二十二人
三日御番頭 二隊
人数上下二百八十五人
四日日置帯刀一手
人数三百四十人
耕戦隊六小隊
人数二百四十人
大砲隊二十五人
人数上下百十五人
五日池田伊勢一手※
人数八百人
右之外諸役々之者九百人斗出張仕候
江=へ、数字を実用漢字(例:拾=十)にするなど読みやすいように一部修正した。
※ 池田伊勢の奉公書(『御奉公之品書上』、池田家文庫資料番号D3―9)では、出発日は、慶応四年正月六日となっている。
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- 十二月二十九日
- ★岡山藩、出兵準備。
- 夜に早追いでいくつかの項目を尋ねるように岸織部(岡山藩番頭、この当時の役職は小仕置)に下知している(『史料草案』巻二十、十二月二十九日)。内容から新政府に対する要望・問い合わせだと思われる。そのうちのいくつかを抜粋する。
- 山崎関門を警備する藩の応援を受けることができるよう指示してほしい。
- また、(山崎関門との)距離が離れているので、間の適切な場所に守備の兵を配置して欲しい。
- 兵糧や薪などの支援が受けれるように近くの領地に指示して欲しい。
- 外夷への対応はどうすれば良いか。
- 外国人への対応を尋ねており、攻撃するなどの意図を持っていなかったと思われる。
- ★西宮警衛隊の総督、池田伊勢に出撃命令下される。(出張被仰付早々出立可致旨被仰出候)。(『御奉公之品書上 池田貞彦』三)
- ◇岡山藩領片上駅(西国街道宿駅)海岸に長州藩兵500名が滞在。岡山藩は警戒して、警備人数派遣について津山藩と協議している。(『史料草案』巻二十、十二月二十九日―晦日)
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十二月晦日
【岡山城不明門】
[写真説明]藩庁の中枢、表書院から藩主家族が暮らす本段への入り口にある不明門。通常は開いて本段全体の守りを固めていた。明治の廃城後取り壊された。写真は再建されたもの。
- ★神戸での衝突隊の隊長日置帯刀登城。出撃命令下される。
- (『御奉公之品書上 日置英彦』八)「(池田伊勢に総督を命じたが)同人義年若且御手始之儀ニも候得者(以下略)」とある。若く初めてのことなので、特に規則運用の面などで補助するように指示されたという。ただし、『史料草案』巻二十一、では水野主計に同様の指示をしている。
- 池田伊勢・日置帯刀の奉公書を見ると、出撃に当たって両人に時服などが下賜されている。
補注
※1出兵人数と政府への提出
『史料草案』巻二十には、慶応三年十二月二十九日に「不取敢(とりあえず)」提出したという西宮警衛隊について記載されているが、神戸で衝突した隊の隊長、日置帯刀の名が記載されていないなど矛盾がある。『史料草案』巻二十一、正月、のものが正式なものだと判断して、それにより出撃編成を推定した。
戦闘部隊約1,900名に諸役900人を加えるとほぼ3,000名である。これに京都から急行した150名が加わる。(『岡山県史』10、頁6では、『史料草案』巻二十を出典としており、兵数が若干異なる(国許から2007人、京都からの150人と併せて2157人とする)。この違いの理由はわからないが、神戸事件について検討する際には、大きな問題になることではないので特に調査はしていない。
また、全体数を藩兵としているが、当サイトではかなりの農民が徴用されたと推測している。出撃兵の構成などについての検討は、「Ⅱ.岡山藩兵の出撃」で記述する。参照