西国往還付け替え道の竣工は、神戸が開港した慶応四年十二月七日から四日後の十一日(1968年1月5日)の夕刻、代官斎藤六蔵より兵庫奉行・柴田へ報告された(『日載』十)。
その後、柴田は同じ日に王政復古の報を受け、上坂するように命ぜられ、十六日に徳川慶喜と六ヵ国の外交官との会談に同席している。この混乱のなかで、各藩への周知が可能だったか疑問である。少なくとも『日載』十、にはその記録は見当たらない。また、奉行柴田、代官斎藤は慶応四年正月十日に、神戸を退出する。
そもそも、王政復古が発せられたこの時期、誰がどのような権限で周知する(できる)のか不明である。徳川幕府は公式な政治権力を失っている。
その上岡山藩は、かって尊攘翼覇を主導した藩主茂政は求心力を失いつつあり、慶応四年二月十五日に隠居する。この時期新政府側として活動している岡山藩は旧幕府から指示・伝達を受ける立場にはない。
仮に開通そのものの情報を入手していたとしても、開通したばかりの山道(後になって「徳川道」と俗称され、ハイキングコースになったほどだ)を、通行する気にはならないのが普通ではないか。特にこの時、誰が味方か誰が敵か判然としないひりひりするような危険のなかを進んでいるのである。仮にあなたがこの状況で司令官だとして、小さいながら数基の大砲と多くの荷駄を運びながら、通り慣れた平坦な道と、ほとんど(あるいはまったく)情報がない山間の道とどちらを選ぶか、ということである。
ちなみに、本来であれば神戸に外国外交官はいなかった。
開港予定の神戸を通る西国街道の迂回を目的として、外国奉行兼大阪町奉行・柴田剛中(慶応三年七月以降さらに兵庫奉行を兼務)が慶応三年六月に、付け替えを上申し、それに基づき開削された新往還。
▼上申の内容を見る。 このうち[4]については、実際に開鑿された往還の状況と異なることが『研究編』で指摘されている。
つまり、旅人が通行するような往還であったことはなく、里道を一部利用している程度であり、また新往還の距離が西国街道に比べ短いことはない。これは、上申書で提案されてた「大阪から姫路』に至る官道が、現地の状況を踏まえて改案されたことによって生じた差異である。(『研究編』、頁236)。
『神戸市史』頁84では「山手新道」としている。また、後になって「徳川道」と呼ばれ、この俗称が流布しているので、以下「徳川道」とする。
慶応三年七月二十三日、幕府は大坂谷町代官の斉藤六蔵と勘定役松野銑十郎に下命した。二人は現地を検分し、当初の予定を変更し、菟原郡石屋川で西国街道から分かれ、杣谷・摩耶山を経て東小部村、藍那村、白川村とたどり、摂州と播磨の国境の山地を通って、明石大蔵谷で再度西国街道に合流する全八里余の新道を開削することを決定した。
(『新修神戸市史 歴史編Ⅲ』頁870-872より引用。一部文言を変更した。以下『新修市史』)
慶応三年11月工事の入札、八部郡白井村谷勘兵衛が1万9200両で落札(『新修市史』頁872)、十一月四日に請書が提出された(『研究編』頁241。同書では落札前の十月十九日に谷勘兵衛の杭打の記事が見られ、事前に工事が始まっていた、とする)。
工期短縮のため、全体を複数の工区に分けて同時並行で施行する方式がとられた。仕様帳によれば、道幅平均二間、道路中央部を一尺ほど高くする蒲鉾形につくり、法面は一割法とし、それより高い場合は留め芝・筋粗梁を入れて踏み固める、橋は一間土橋作りで14ヶ所、そのほかに、飛び石渡りが21ヶ所、石置渡しが1ヶ所あった。完成時の道程は八里二十七丁九間となっている(『新修市史』頁872-873)。
道路の竣工が慶応三年十二月七日、神戸開港式と同じ日である。この二日後、王政復古が号令され、政権は幕府の手を離れた。その後の十二月十日・十一日に検分が行われたが、若干の工事が残っており、完了したのは十二月二十日のようである(『研究編』頁245-247)。ただし、兵庫奉行柴田への報告は、同十一日。同じ日に大政奉還の報告が届いている(『日載』十)。
『研究編』頁226によると、[図1 徳川道模式図]のように山間部をぐるっと回って進む平均幅二間(約3.6メートル)の道であった。なお当初予定されていた3ヶ所の宿駅は設置できていない。
『新修市史』によれば往還付替道の完成は触れ出されることはなかった(p873)。『日載』十によれば、兵庫奉行・柴田は同じ日に王政復古の報を受け、上坂するように命ぜられている。そして、十六日に大坂城で行われた徳川慶喜と六ヵ国の外交官との会談に同席している。
この混乱のなかで、各藩への周知が可能だったか疑問である。少なくとも『日載』十、にはその記録は見当たらない。
そもそも、論理的にみても、王政復古が発せられたこの時期、誰がどのような権限で周知する(できる)のか不明である。徳川道を企画・発注した徳川幕府は大政奉還から王政復古の流れのなかで中央政府ではなくなっており、新たにその座についた朝廷は行政機構を掌握していない。誰がどうやって布告するかも難しい問題であったと思われる。
さらに言えば、幕臣として帰属する大元であり、自分が持つ神戸奉行という力の背景である幕府が倒壊しようとしているとき、そして鳥羽伏見で多くの幕臣が殺し合いをしているなかで、往還の付け替え道の竣工がそれを越えるほどの重みを持つか、そのことの優先順位がどの程度のものかは、。
混乱の中でも工事費は同年十二月二十九日、大阪代官所により支払われ、慶応4年1月7日に石井村の谷勘兵衛宅に運び込まれた。同年一月十一日に、平野村祥福寺に駐屯した長州藩兵により谷家に収められていた工事費を含めた2万2375両が『幕府の用金』であるとして、強奪された。それでも、谷家は工賃等の支払いを行ったという。
なお、明治になって、強奪された金の返却を要求したが入れられなかった。(『研究編』頁256-260)
慶応4年3月、新政府のもとで神戸居留地付近だけを迂回する新道が開削されて廃道となった(『新修市史』頁873)
前述の通り、道路の竣工が慶応三年十二月七日、そのことが、神戸奉行に上申されたのが十二月十一日、その後開通が公布されることはなかった。慶応四年一月四日に備前岡山を出発した日置隊が徳川道の開通を公式に知らされていた可能性はかなり低い。日置隊の規模の軍隊が進軍するのに、事前の計画と準備は必要であるが、情報がなければ計画に含めようがない。
日置隊のみならず、他の多くの藩も状況は同じだったと思われる。幕末のこの時期、朝廷は各藩に京都及び周辺の諸都市の警固を命じている。また、それぞれの藩は情報入手や朝廷などへの働きかけの為に、藩士を上洛させていた。
これら各藩の藩士や軍兵が徳川道を通行したとする記録がない。むしろ、事件後の池田伊勢隊の通行が唯一の例であるようだ。
復古記巻十八 明治元年正月十一日によれば、衝突のあった日の九つ半頃、肥前大村藩公の行列が、日置隊と同じ西国街道を通行して大坂に向っている。
このことは、徳川道の開通が一部の関係者を除いて、ほとんど知られていなかったか、知っていても往還として通行できる道として認識されていなかったことを示すように思える。
誰かが誘導した可能性も低い。西の分岐点である大蔵谷を管理する明石藩は開通を知っていた可能性があるが、徳川道そのものを管理していたわけではない。仮にその意思があったとしても、鳥羽伏見の敗戦のあと、佐幕派の同藩にその余裕があるとも思えない。
他藩の所領や旧幕府領を通り、また設備も整っていない新しい往還道への通行を、他藩の軍隊に指示、あるいは誘導するのは、それを越える権力の後ろ盾が必要である。この時期、その力があった者あるいは組織があっただろうか。
その上、この時期多くの藩は二つの勢力のあいだで疑心暗鬼の状態である。だからこそ、日置隊も姫路を通行する時、あれだけ慎重だったのである。
以上のことから、後世徳川道と呼ばれる新往還への迂回は、検討できる状況ではなかった、と判断した。
さらに言えば、日置隊(あるいは岡山藩兵)が徳川道を通らなかったことで岡山藩を批判する人は、国道や高速道路の開通がテレビや新聞で報道され、華々しくパレードが行われる最近の道路開通をイメージを持っているのではないか、と思ってしまう。SAはまだ店開きしていなくても、道路標識や信号は整備されている。そんな新道開通を連想しているのではないかと思う。
この時代、それまでの政府が倒れ、激しい戦闘が起き、誰が味方かどうかわからない。そんなヒリヒリした時の流れのなかでの出来事であることを考えて欲しいと思う。そんななかで、通ったこともなく情報もほとんどない山の中の道を選択する指揮官がいるかどうか。
西国街道に限らず、往還は単なる『道』ではない。通信業務のための伝馬や人足の継立とそれを支える助郷制度、宿泊業務を行う本陣や脇本陣、旅籠がそれぞれ有機的に機能してはじめて往還としての役割を担うことができる。
各藩の軍兵の移動にしても、戦国時代の部隊の進軍ではなく、参勤交代の長い歴史の結果、往還が総合的に整備された時代の進軍である。また、各藩でも往還を使った旅に関する知識と経験が蓄積している時代である。
宿間距離の大きいところには間(あい)の宿なども整備されていた。宿泊はもちろん昼食などもこれらの施設を利用した可能性が高い。
元治元年(1864)に長州征伐におもむく越前丸岡藩321名、尾張藩800名、淀藩(稲葉美濃守)2,200名、紀州藩1,571名が大蔵谷に泊まったことでもそれが分る(明石市史上頁205 表7。山陽路四十八次頁153で藤井宿に『尾張大納言の一行1700人の兵が泊まった」という記述と、前記明石市史の記述で数字が異なるが、詳細は不明)。
日置隊の進軍も同様に考えて差支えないと思われる。
鳥羽伏見の戦いのあと、敗残兵を含めた敵味方が分らない集団が移動し、またその地域を領有する藩などの帰趨もはっきりしなかった時代であること考えながら、二つの往還を比較する。
項 目 | 徳川道 | 西国街道 |
---|---|---|
道筋の理解 | 通行経験者がいない。広報がなく、地図の配布や案内もないと思われるので、往還の入口と出口はともかく、途中の道筋は分らなかったのではないか。 | 通行経験者がおり、道筋を良く知っていると思われる。また道標類も整備されていると思われる。 |
道の状況 | 標高差大。完成したばかり。踏み固めの不足などの可能性あり。 | 標高差小。長年使用管理されており、道としては安定している。 |
宿駅 | なし。予定された宿駅は整備されなかった。当然宿泊設備なし。継馬などもなく、飛脚屋もなし。他との連絡は自分達の足か連れている馬によるしかない。 | 兵庫:本陣・脇本陣あり。旅館多数。浜本陣あり。通信施設(飛脚・継馬)の利用はどこまで可能だったか未調査だが、飛脚の利用は可能であったと推測。 |
休憩施設 | 山道を開削して一ヶ月も経過していない。茶屋などもないと思われる。 | 須磨など観光地や兵庫津など繁華な町を通るので、茶屋・旅籠などにはことかかないと思われる。 |
外国人と遭遇する可能性 | 低い。 | 居留地の近くを通るので高い。 |
状況の確認 | 旅人の通行はないか少なく、宿駅間の通信もないので安全性を確認する情報がない。 | 多くの人が現に通行しており、宿駅間の情報のやりとりも残っていたと思われるので、状況の確認が容易。 |
岡山藩は出発前に伺いを出すよう藩士に指示した文書の中で『外夷への処置」を尋ねている。(参照:岡山藩の西宮出兵 1.西宮警備の命令(1)経緯)。外国人との事故がまったく視野に入っていなかった訳ではないと思われる。
しかし、外国人との衝突事件の例である生麦事件は日置隊の神戸通行より5年半前に薩摩藩士が横浜で起こした事件である。堺事件はまだ起きていない。
いっぽう鳥羽伏見の戦いは数日前に京都で起きた大規模な国内戦である。京都から連絡に駆けつけた同じ藩の者の報告も聞いている。
編者が日置隊の指揮者であれば、徳川道の開通を知っていても、西国街道を進んだ可能性が大きいと思う。ただし、開通が周知されていなければ、検討する機会もなかったが。
跨線橋から北を見る。緩い傾斜の上まで家がびっしり。まん中の緑色の帯は朝霧川。地図で見ると一度に西に曲って川から離れ、それから前方の山腹を東に向って朝霧川の北側を東に向う。少したどってみたが、朝霧川から外れた地域が住宅街になったため、道が寸断されており、選んだ経路に自信がないので、略す。
【東口】
石屋川の東岸、御影公会堂前交差点から少し南に下がった公園の角に徳川道基点の看板がある。
北に進み、御影公会堂前交差点で国道2号線を越える。さらに進み、JRの高架をくぐる。手前に『旧石屋川隧道記念碑」の看板を見る。日本で最初の鉄道トンネルの由。
右側に網敷天満宮がある。下の写真は寄り道して撮った。実際は上から見る。
弓の木交差点を北に渡り、平野橋を渡って、西に進んだ。この辺は道が変わっているようだ。その先、小さな起伏を繰り返しながら進む。鷹匠中学校の西にある公園の前に『徳川道」を示す新しい道標兼説明板があった。
その後、住宅街のなかを進む。新しい広い道に比べ、やや細い道を選んだ先に六甲八幡宮がある。
このあと杣谷峠へ登っていく。ここまで2キロほど歩いただけだが、山腹を横切るように小さな起伏を繰り返す道であった。
【参考資料】
徳川道については、『徳川道 西国往還付替道』『神戸の歴史 研究編』『新修神戸市史歴史編Ⅲ近世』、西国街道については、『近畿地方の歴史の道10 兵庫2 (歴史の道 調査報告書集成 10)』ほかによった。