d.行軍をたどる

1月11日 大蔵谷宿から兵庫湊口惣門まで

 大蔵谷を出発。隊列を組んで進軍したことだろう。朝廷の命令による東上であるとはいえ、状況は混乱している。警戒は怠らなかったと思われる。

右側に古い家がある。その他はビル。まっすぐ道が延びる

(写真は平成29年8月11日撮影。以下同じ)

 しばらく行くと、朝霧川の護岸にぶつかって左折。正面は、国道、その先山陽電鉄本線、JR山陽線によって分断されているが、北に進めば、慶応3年12月中旬に竣工された徳川道。左側に台座からの高さ6.5メートル(近畿調査報告9ページ283)ある大きな題目碑が立つ。 建立年は不明。

左に大きな題目碑、道の正面は国道

(この写真のみ、平成29年8月19日撮影)

   神戸事件について書かれた評論や説明資料で、『幕府が西洋人との衝突回避のために新しく作った徳川道を、備前藩兵が通らなかった』ことと神戸事件の発生とを結びつけて論じているものを見かけることがある。
 確かに後世の我々から見れば、迂回路である『徳川道』を通行しておれば、外国人と衝突することはなかったように思える。

 なぜ通らなかったのか、この疑問に対し落合重信氏は「宿駅もなく、未整備の山間の新道に入るなどということは、思いも浮かばなかったのであろう」(神戸の歴史 研究編p253)とする。それは西国街道を行き来する多くの旅人や兵士が共有する感覚だったのではないか。この時期の『徳川道』がどのような状況だったか検討し、別にまとめた。
 神戸事件と徳川道(考察)はこちら

 日置隊は朝霧川を渡った。それほど大きい川ではない。城下に近いから橋がかかっていたか、それとも徒渡りか(資料未見)。
 海岸沿いを進む。現在はコンクリートの護岸が続き、幕末の面影はないが、対岸に淡路島が見え、潮のにおいがする。日置隊も海風に吹かれながら海と淡路島を見ながら進んだと思う。

正面に淡路島の島影、左に明石海峡大橋が見える。

 ここからしばらく、広い国道と二つの鉄道線路のため、どこまで旧来の西国街道なのか判然としない。海だけはその昔と同じだと思うが、もちろん通行する船はことなる。
 起伏はほとんどない。

 西舞子辺で国道2号線から少しだけ離れ、舞子六神社の前を通る。日置隊が通った頃は、六社大明神と称していた(兵庫県神社庁、神社検索による)。鳥居は新しいが常夜燈には天保六乙未年九月吉日とある。境内から海が見え、淡路島が見える。海のすぐそばを進んでいることに気づく。

舞子六神社の石の鳥居

 その先2号線に合流する先に『舞子延命地蔵尊』がある。『たたき地蔵』という名で知られ、たたきながら願掛けをすると願いが叶うという(近畿調査報告9ページ282)。堂の柱に木槌が数本さげてある。文政八年(1825)安置とある(境内の説明)。さらに貞享2年(1685)の題目石、宝篋印塔がある(近畿調査報告9ページ282)。

屋根の下のたたき地蔵は赤いよだれかけをつけている。

 明石藩舞子台場跡。文久3年(1863)に幕府の命を受けて明石藩はここ舞子に砲台(台場)を築造した。対岸の淡路島(徳島藩)松帆台場と協力して明石海峡を通航する外国船を挟み撃ちにしたという(同地の説明板。一部表現を改めた)。実際には、大砲は据え付けられなかったようだ(『幕末の大阪湾と台場』頁233)。
 日置隊はこの台場を横目で見ながら海岸線を東に進んだ。当時は今より4メートルほど高い堡塁だったようだ(現地の説明板より算出)。砲台は稼働状態だったのだろうか。

石畳に模型の大砲が2門、海に向った写真。

 その先、明石海峡大橋の下をくぐる。幕末の面影は何も残っていない。舞子海岸は松林が続き、江戸時代から観光地だったようだ(兵庫の街道いまむかしp104-105)。

「砂は雪より白く、数千株の松に高低なく、梢を等ふして、丈に過ぎず、枝幹屈曲をのずから見所ありて、葉の色殊に深くして、鴨の毛の如し」という、播州名所巡覧図絵の文章が、松林のなかの説明板に紹介してあった。白砂青松の海岸が続いていたのだろう。
 日置隊が通行したときは、物情騒然とした幕末である。冬の海岸には物見遊山の客はほとんどいなかったのではないだろうか。
 松林はいちど衰退したが復活のきざしがあるようだ(同前)。

緑の松林のなかを道が曲がりくねって続く。

 海神社の前を通る。海側にも大きな朱塗りの鳥居があるが、日置帯刀は、岡山を発つ前、金川の七曲神社に請願文を出して、神助を願っている(七曲神社と金川p105-107,写真p3。御津町史p1144)。途中いくつかの神社でも祈ったのか。
 他の者はどうだろうか。指揮官の言動は比較的伝わるが、従卒の思いは記録に残りにくい。
 海神社の東に高札場があった(近畿調査報告9ページ282より推測)

海神社の石の鳥居のあいだから神社が見える

 海沿いを進むと、いくつか漁港がある。当時も漁村が続いたか。
 播磨と摂州の国境の川、境川を通る。JRは小さいながら鉄橋になっているが、国道は「須磨区」の標識が境界を示すだけである。

車が通る国道の左に四角で青く『須磨区』と書いた、区境の標識

 その先、道路北側、奥まったところに敦盛塚がある。この付近は源平一の谷合戦の戦場であって、当時16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれた。それを供養するために建立された塔だという伝承によりこう呼ばれる(神戸市教育委員会による説明板。一部文言を変更)。
 現在見える高さは3.97メートルあるが、昭和60年の発掘調査までは地輪の下半分以下が埋まっていたという(同前)。今見るより、少し低かったわけだ。
 少し先に「戦の浜」という標柱があるが、それも一の谷古戦場に由来する。近畿には源平合戦にまつわる史跡が多い。弓矢と刀、一騎打ちの時代と銃と大砲の集団戦の時代、どの時代も戦場では英雄や美談が作られるが本質はどうだったのだろうか。
大きな五輪塔

 次第に建物が増え、西国街道はJR須磨駅の北側の村上帝社のところで、北東に向きを変える。小さな社であるが、謡曲にまつわる伝承がある。今の琵琶塚の碑は幕末にはなかった。
 緩い上りを進むと須磨寺の案内などがあるが、お寺は視界には入らない。住宅街のなかをただ登って行くだけだ。厄除け八幡神社への丁石は明治十七年のものだ。そのうち妙法寺川を渡る。

 左側奥に楠大神がある。大きな楠木である。道路を半分以上占領している。この枝を払ってたたりがあったそうで、今では誰も切らない(兵庫の街道いまむかし、p83)。それが大正のことだから、日置隊が通ったとき、この木はあったのではないか。手前の神社は新しい。

赤い小さめの鳥居の奥に巨大な楠木。空を覆うようである。

 長田神社の鳥居がある。阪神淡路大震災で壊れ、再建された。狛犬の足には包帯がしてある。こちらは少し古いが、世話人の氏名から明治以降だと判断した。

 さらに進み、蓮池小学校のところには蓮池があった。新湊川を渡る。東北岸に『平知章之碑』がある。源平合戦に由来する碑だが、『平知章之碑』と掘っているものは兵庫県知事の名前があるので、古いものではない。

 神戸市立西市民病院のところから、東に分かれて、兵庫駅に向う。西国街道はJR兵庫駅に分断されている。この辺も幕末の面影はないが、柳原という地名は残っている。
 柳原信号で右に曲り、高架をくぐってすぐ左側に福海寺、道路を挟んで蛭子(えびす)神社がある。高架をくぐる道に対して、左に分かれ、福海寺と蛭子神社のあいだの道が西国街道である。正面の広い道は新しい道なのだろう。

 蛭子神社の角の辺が兵庫の西の入口、西惣門(柳原惣門)があり、高札場もあった(札の辻の説明板から推測)。説明板の推定復元図によると、下が石垣の白塗りの土塀の間に、瓦屋根の門が構えられている。文久2年兵庫津之図(早稲田大学古典籍データベースで閲覧)を見ると、惣門の両側に土塀のようなものが描いている。
 日置隊がこの惣門をくぐって通ったとき、幕府領であった兵庫の行政機構は崩壊していた。

▼「この時の兵庫」を読む

 慶応4年正月9日、鳥羽伏見での幕府方の敗戦の報に接した兵庫奉行柴田日向守剛中は英国船で脱出した(神戸市史p81では、『英国商船を雇ひ、九日部下一同を率ゐて神戸を引払い帰東せり。その後岡崎藤左衛門江戸にて兵庫奉行に任ぜられしも、遂に任に赴かず、兵庫神戸の地其統治者を失へり。』とする。
 また「徳川社会と日本の近代化」p696では、前年12月に開業したばかりの『税関の取扱いを、御用達島屋久次郎に命じ、当所警衛をプロシア、オランダ公使に依頼し、遁走した。』とある。アメリカ・イタリア・プロイセンの公使に運上所の借用を申し込まれ、了解している。(「ドイツ公使の見た明治維新」ページ132-133。および「日載十、慶応四年一月九日」(柴田剛中の日誌))
 兵庫沖には、武装し、兵士を乗せた外国艦船が複数碇泊していた。無法地帯と評していた資料もあったが、非常に危険な状況であった。なお、この時、徳島藩が神戸警守のために真光寺に陣所をおいていたが(ひょうご全史下ページ271)、この状態ではなすすべもなかったと推測する。 ▲この時の兵庫終り・たたむ

西口惣門跡、蛭子神社の角で道は左右に分岐。左に伸びた方が西国街道

柳原惣門から南東に下がり、札の辻でほぼ直角に曲り、湊口惣門から居留地に向う道筋を描いた素朴な絵図  兵庫宿における西国街道はこの時代、柳原惣門(西の惣門)から入って、札の辻で向きを変えて、湊口惣門(東の惣門)を東に出た。湊口惣門から東に向うと居留地の西の関門がある。さらにその先に三宮神社がある。

 南東に進む。札の辻(札場の辻)までの南側に神明町や南仲町がある。『「柳原惣門」を入って神明町に来ると、西側に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があり、本陣に南接して明石屋宗兵衛、小路を隔てて西側の小広町に豊島屋宗兵衛、同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)、その南隣に三木屋作右衛門の4軒の脇本陣があった』(「知れば知るほど 兵庫区歴史花回道」による。以下「花回道」)。多くの旅籠があったので旅籠町と呼ばれた(兵庫県の地名Ⅰ)。
 後に瀧善三郎が待機する脇本陣桝屋長兵衛方、切腹した永福寺もこの一帯にあった。しかし、今はまだそのことに触れる時ではない。

 札の辻跡(札場の辻ともいう)。兵庫の中心地で高札場があった。西国街道はここから北東に曲る。今でもそれらしい道筋ではある。横に道標があるが、部分のようだ。

札場の辻。左から来た道が、右奥に曲って行く。曲り角に説明板、下が壊れた道標がある。壁にも説明。


 西国街道から逸れて、出在家町に向う。「瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写 同人遺書并辞世之歌」(池田家文庫)に、「十一日 兵庫御昼」とある。同書にはこれ以上の説明がないが、「明治維新神戸事件」で岡久渭城は、岡山藩浜本陣の網屋新九郎方で昼食を摂ったとする。典拠となる資料は確認できなかったが、備前藩と懇意な浜本陣があれば、そこで食事をするのは自然だと思う。また、衝突のあと外国外交団側の声明文の写しが、備前藩の浜本陣網屋新九郎方に掲示されたとする資料もある(神戸と居留地p129)ので、行ってみた。

 明治になって運河を開削しているので様子は変わっている。「兵庫城跡と最初の兵庫県庁」と書かれた石柱と説明板がある。それによると幕府領時代は、ここに大阪町奉行所の勤番所があった。日置隊が通ったときはどんな状態だったろうか。もぬけのからだったのではないか。

兵庫城跡の石柱と説明板

 途中阿弥陀寺がある。「浜本陣見取図」(浜本陣の研究、中谷保二著、洛北書房、昭和31年)を参照すると、周囲はかなり変わっている。

左に墓地。正面に阿弥陀寺の大きな瓦屋根。

 浜本陣が並んでいたという出在家町には何もない。住所表示に往事を偲ぶだけだ。距離からいってもここで昼食を摂ったという「明治維新神戸事件」の記述に納得できる。

右側に駐車場。正面奥にマンション風の建物。人も通っていない。 『出在家町二丁目』と書いた電柱の住所表示

▼「浜本陣について」を読む

 西国大名江戸への参勤交代の往返には其途次兵庫に宿泊し又は休憩する者多く、これがため若干諸侯は宿本陣以外に別に各々自家専用の本陣を有し、此等の本陣は之を浜本陣と呼びて、その数時代によりて不同なりと雖、幕末には九軒を算し、いづれも諸問屋業を営むと共に其等諸藩より来る船舶の乗員をも宿泊せしめたるのみならず、併せて其国産をも取扱ひ、又大坂へ輸送すべき米を積める船舶に対し、兵庫入津の先後によりて順番手形を与ふる特権をも有し、これによりて莫大なる利益を得(後略)(神戸市史p10 一部の漢字を常用漢字に変更した)
(浜本陣があった出在家町について、神戸市兵庫区役所に問い合わせ、同区役所まちづくり課が作成された「知れば知るほど 兵庫区 歴史花回道」を教えていただいた。また、神戸市立兵庫図書館にも懇切な対応をいただいた。)
▲浜本陣についてはここで終り・たたむ


 昼食後はまた、西国街道に戻り、北東に進む。しばらくすると、岡方惣会所跡がある。幕領時代の行政機構の出先である。名主や惣代がいたようだが、慶応4年正月11日はどうだったろうか。

左側に黒い石に白い字を彫った説明碑。右に『岡方総会書跡』と書いた石碑が並ぶ。奥は駐車場

 小さなビルが両方に並ぶ道を北上する。幕末には両側に商家が並んでいたか。JRの高架に向う交差点の西角に湊八幡神社がある。

左に『厄除 みなと八幡神社』の看板。正面信号奥に電車の高架。

 その南東の角(みなと八幡神社という白い看板の北側)に東の惣門(湊口惣門)跡の碑がある。惣門内には番所があり、幕末には門外左側に高札場があった。
 前記文久2年兵庫津之図を参照すると、船入江の北側に注いでいた小川を越える橋を渡って惣門を通る。説明板の絵でもそれが描かれている。

写真左端に『西国街道 兵庫 湊口惣門跡』と刻んだ石柱。右に説明板

 この説明板の説明を最初に書いた人は、岡久三郎とあるが、「明治維新神戸事件」を書いた「岡久渭城」と同じ人だろう。同書はカバーと標題紙の書名が異なり、標題紙と奥付の著者名が異なる。標題紙の著者名が岡久渭城、奥付が岡久三郎である。

 東口惣門を出れば、居留地の西の関門まで、半里もない。現在の道であれば元町のアーケードを入ってすぐのところにプレートがはめ込まれた記念碑まで歩いて20分ほどである。

やや古めかしいビルの壁に『明治維新開港当時関門跡』と書かれたながめの石版、その下に金属板の説明板がはめ込まれている。


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