慶応三年十二月七日(西暦1868年1月1日)、兵庫(神戸)開港・大坂開市がなされた。曇り空で風が強かったが、午後には凪いだようだ。
運上所も開き、幕府の担当者と外国外交官は相互に挨拶をし、砲台や艦船が祝砲を撃った。その様子を日本側の資料で見る。
また、周囲に響き渡った祝砲を別の意味に受け取った者がおり、それほど広い範囲に周知されたわけではないことがわかる。
日本側の資料は次のように記録する。
▽資料・復古記巻七〇兵庫港ヲ開テ貿易場ト為ス、又大坂互市場ヲ開ク、兵庫碇泊ノ各国船艦、皆祝砲ヲ発ス。
指華入京日載
『復古記』巻七、慶応三年十二月七日、第一冊、頁二〇二―二〇三。これに続いて、御触書、永井尚志よりの祝詞が続く。祝詞の記述は『兵庫県史』と若干異なる。『兵庫県史』を参照する。
若年寄永井尚志より英国公使パークスへ兵庫開港の祝詞を贈る
続通信全覧 編年之部
外務省外交史料館蔵
丁卯十二月七日
書状を以て、啓上致し候、然(しから)ば、貴国新年の日、正に今日に当り、祝賀の至りに御座候(ござそうろう)、殊に我国兵庫開港、大坂開市の期日に逢ひ、弥(いよいよ)以て両国の親睦を重ね候、証兆と存候(ぞんじそうろう)、右(のことに)祝詞申進候、此段御意を得べく、如斯(かくのごとく)御座候、 以上
十二月七日
永井玄番頭 花押
シエレハリエスパリケスケシビ閣下
【補注】シエレハリエスパリケスケシビ:Sir Harry S(mith) Parkesのオランダ語読みか?
『日載 十』
七日戌 陰、烈風、午下、凪(なぐ)
会所出勤。今朝、先づ税関(運上所)を開く。英国岡士当賀に来たり。面す。答礼に行く。亜岡士同断。名刺を投す。長次名代に遣わし、名刺を投しむ。
第十二時、英米両国軍艦において祝砲の式あり。此方にも御軍艦[開陽丸 富士山丸/蟠龍丸(割書き)]にて応砲。陸地砲台の応砲は十二時に後れ、手数を尽せしにて、空敷典を欠く。
英米アドミラール船へ当賀に行く。彼方の艀にて往返迎送せらる。
開港滞りなく、相済候。御届出す。
解読は、在間・池内・奥村・田中・衛藤で行った。それをもとに衛藤が読み下し文を作成した。なお読みやいように、適宜句読点を施し、変体仮名・カタカナをひらがなに改めた。
『諸事風聞日記』
(十二月七日)
一 兵庫ニて舟の中ニ居ル唐人数多死スと申、死がいヲ埋メ、其上ニて大筒・鉄砲はなす也、十二月七日三田迄音聞へ候、(後略)
(十二月十日)
一 七日兵庫ニて大筒似様之音致ス、是ハ十二月七日交易之約定日ニ候付、弥今日より交易はじめと申祝儀ニ大筒はなつ也、何ニ不寄唐土ニてハ祝儀・不祝儀ニ大筒ヲ打也、交易所ハ半作ニて未タ成就致し不申、只約定日ニて唐船来り、交易之品ヲ少し交易所へ上る也、店出しニハ不行候
開港当日に祝砲が放たれ、それが北へニ十~三十キロ離れた三田まで聞こえたことがわかる。また、当日は正確な情報を得ていなかったが三日後の十日には正確が伝わってきていることがわかる。
『諸事風聞日記』(七日)頁一四八、(十日)頁一五〇。
神戸に六ヵ国の公使が参集した。(当日参集した外国公使 )。外国側も開港の日のことを次のように記す。
地元の英文紙『ヒョウゴ・アンド・オサカ・ヘラルド』(The Hiogo & Osaka Herald 1868年1月4日号)(『神戸地域学』頁22)
あらたな開港
1868年1月1日、終日港内の艦隊のメインマストの頂上に掲げられてひるがえっている日本国旗に対する礼砲により、兵庫と大坂の開港が行われたことと、英国国旗を領事館に掲げることが、私たちが目撃した唯一の儀式である。このようにして新たな港が開かれ、外国貿易と、企業と商業のために、手付かずの土地が使えるようになった。
計画されている兵庫の広大な居留地は、あちこちに道路の位置を示す杭があり、防波堤、築堤が、運上所と公館と同様に、ほぼ完成しているだけの、何もない静かな空き地である。土地の競売は、おそらく今月末になされるであろうということを、われわれは仄聞している。
米国弁理公使ファン・ファルケンバーグがスチュアート国務長官に送った文書(同前頁23)
1日の正午には、兵庫と大坂の両地において日本国旗がアメリカ、イギリス、フランスの艦船に掲げられ、同様の儀礼は、大坂の要塞と兵庫の停泊地に投錨中の日本の艦船でもなされました。これがこれらの場所を開くのに際して目撃された唯一の儀式でありました。
ファルケンバーグ(アメリカ弁理公使)が自国の国務長官へ報告した文書では「外国人居留地は幅約四百ヤード、奥行六百ヤードの広く四角形の平地」と記している。
鯉川の西川には、フランス・ドイツ(プロイセン)・アメリカの領事館があった。
兵庫県裁判所(兵庫県庁の前身)の文字が見えるので、慶応四年(明治元年)一月二十日以降、鯉川が暗渠化される(明治6~7年)前の図である。真ん中の黒い縦線は、頁の区切り。『神戸今昔散歩』頁22などを参考に説明を加筆した。
国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。
開港はなったが居留地には、三棟の倉庫と運上所と、東側に旧幕府海軍操練所の建物を利用した英国領事館が建っているだけで、大半は空き地であった。
このため、各国は居留地の周囲に領事館および領事を始め館員の宿舎を確保していた(『国際都市神戸の系譜』頁44、68―88)。
当然のことに居留民も少なく、翌明治2年(1869年)の統計でも神戸在住の外国人数は、合計185人(※1)である。開港当時は、さらに少なかったと思われる。
いっぽう海上には、イギリスはOcean(4,047トン)を始め12隻、アメリカはHartford(1,900トン)以下5隻、フランスはLa Place(900トン)1隻、計18隻の軍艦(※2)が停泊していた。地元の英字新聞が絶賛するほどの艦隊である。そして、兵員は三ヵ国合わせて3,900名前後である。居留民より兵士の数が圧倒的に多い。
慶応四年一月十一日の衝突の時、居留地に居た外国人はかなりの人数が兵士だったのではないかと推測している。
開港日から逗留している艦船も多く、これに加えて公使団の護衛兵もいる。戦闘の原因となる岡山藩兵の隊列(日置帯刀が指揮をしていたので以下「日置隊」とする)を横切ったのはフランス兵だった。
補注
※1.神戸在住の外国人数
※イギリス64人、アメリカ38人、フランス17人、ドイツ38人、オランダ14人、ポルトガル7人、イタリア2人、その他の国々5人。なお、清国は入っていない。(『外国人居留地と神戸-神戸開港150年によせて-』頁78表1)
※2.外国軍艦数
『国際都市神戸の系譜』(頁47―50)、文中は16隻とあるが、表は18隻である。ただし、文中の数は、表に記載された数のうち、神戸沖着日の不明のものを除いた可能性がある。なお、『幕末の蒸気船物語』(頁88―97)で、説明された艦船の数を合計すると18隻である。検討の結果、ここでは18隻とした。