衝突の基本資料

書きかけマーク

1.日本側の資料

 衝突に関する日本側の資料は、基本的に日置家の関係者により作成された。岡山藩や岡山県が編纂した資料もそれをそのまま転記し、時に疑問点を付箋などで補足している。藩庁による査問などは行われなかったか、行われても表立った記録に残っていないようだ
 日置家関係者が残した資料のうち、瀧善三郎が切腹した二月九日以前に書かれたものと、それ以降に書かれたものでは発砲のきっかけに関する記述が異なる。後者はwikipedia (2020/03/08確認)など、一般に広く流布しているように思える。しかし、(1)が、現地で銃撃戦をして報告を命ぜられた者が日置家の幹部に報告したものであること、(2)①が、当初新政府に報告した岡山藩の公式見解だと思われることなどから、それぞれ情報の正確度は高いと判断し、当サイトでは、前二書((1)と(2)①)を基本として起きたことを推定した。
 ただし、後書もそれぞれ関係した者がまとめた物であり、前者に書いていないことを補うために(2)②③を参照した。

(1)山崎喜兵衛の報告

 日置家中小姓・山崎喜兵衛(五俵二人扶持)は日置隊の殿(しんがり)として、逆襲してくる外国兵と銃撃戦を行った。翌日帯刀に命ぜられて早駕籠で国許へ帰って、十四日早朝、異変が起きたことを日置家物頭・高須七兵衛(百六十石)に報告した。この報告を高須七兵衛が書き留めたもの。
 記述は具体的であり、臨場感があるが、直後の報告なので若干の間違いがある。なお、本書及び(2)①には、供割という表現、瀧善三郎の発声に関する記述はない。

『高須七兵衛聞書』(『御津町史』頁一一四四―一一四五)

慶応四年辰正月十四日暁八ツ時、山崎喜兵衛、早追二テ御返、御左右申出の趣の覚、高須七兵衛書也
(中略)
兵庫御昼同所八ツ時頃御立被遊、神戸村迄御出被成候所、[先手丹羽勘右衛門、御家老組、/大砲方 一、瀧源六郎 二、浜田虎之介 三、瀧善三郎
(割書き)]
 夷人両人、[通詞一人/差添(割書き)]、瀧源六郎前を横切掛候ニ付、源六郎手真似して供を不切、廻りて通り候様申諭し候所、通辞も有之事故、相控候由
 然る処、又一人御家老組景山万吉前へ割掛候ニ付、槍ニ而押退候処、善三郎前へ参り候ニ付、同人も押退候所、向フへ行也ト云テ杖ヲ振り横切抜候ニ付、己レ悪キ奴也とて槍もて脇腹ヲ突候処、其儘道より左の家へ這入候ニ付、組士坂口吉之介見掛槍ニ而、追掛候へとも裏つたひ隣家へ逃去、行衛相知不申
 然る処、神戸村東の関門之裏向合ニ取建有之夷人交易場より、五六人出、角田与左衛門組足軽ノ前へ向、一人二挺搦ノ鉄炮ヲ足軽ニ向ケ候ニ付、足軽折敷夷人より博んとする勢有之候ニ付、足軽一同令を不待して連発し、二人打留、一人に手を負せ候処、夷人二挺搦をも博ち不得、辟易して足早く逃走、異人館へ駆込候よし。
(以下略)

【意訳】
 慶応四年辰正月十四日暁八ツ(午前二時)、山崎喜兵衛が早追いで国許へ帰り、出来事のあらましを報告した内容を高須七兵衛(物頭)が書き留めた。
(中略)
 兵庫で昼食、八ツ時ごろ(午後二時頃)出発遊ばされ、神戸村まで来られたところ、先手丹羽勘兵衛一隊、御家老組、大砲方 第一砲隊・瀧源六郎、第二砲隊・浜田虎之介、第三砲隊・瀧善三郎が続いた。

 夷人が二人、通訳がついて瀧源六郎の前を横切りかけたので、源六郎が手真似で供を切らず回り込んで通るように諭したところ、通訳がいたこともあって、そこへ待機した。そうしたところ、もう一人御家老組の景山万吉の前を横切ろうとしたので槍で押しのけたところ、瀧善三郎の前へ行った。善三郎も押しのけたところ、「向こうへ行け」と言って杖を振り回して、横切った。「おのれ、悪い奴だ」と槍で脇腹を突いたところ、其のまま道から左の家へ入り込んだので、組士坂口吉之介見かけて槍で追いかけたが、裏から隣の家に逃げ去って、行方知れずになった。
 それから、神戸村東関門の裏向かいに立っている夷人交易場から五、六人の夷人が出てきて、角田与左衛門配下の足軽に向かって、一人が二丁搦の鉄砲を向けて撃とうとする気配があったので、足軽一同が命令を待たずに連発した。二人を打ち留め、一人に手傷を負わせた。は夷人は二挺搦の銃も撃つことができず、辟易して足早に異人館へ逃げ込んだ。

『金川町史』頁三六二も参照した。役職は「慶応四年侍帳」(『御津町史』頁一一二九―一一三四に依った。そのため事件後のものである)。
 隊列については、別途参照。

※日置隊の隊列について三角マーク

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(2)日置帯刀の報告及び日置家の記録

 衝突した部隊の責任者、岡山藩家老・日置帯刀は衝突直後の十六日、衝突の顛末を記した報告書を提出した。その後、日置は何度か事件の報告を行っているが、発砲に至る経緯を中心に内容に異同がみられる。瀧善三郎が切腹する前に書かれた文書一点、それ以降の文書二点を引用する。

①忠尚申状

『忠尚申状』(『復古記』巻二十三、(第一冊、頁六五三)

去ル十一日、西宮為出張、兵庫駅出立、同勢繰出、神戸町通行之砌、先手行列之中間へ外国人両人、左手ヨリ右ヘ通掛候ニ付、差押候内、通詞之者取扱、相止申候、尚又一人、右手ヨリ左ヘ通掛候ニ付、差押候処、次之隊へ掛り割込候ニ付、色々取扱、手真似ヲ以、供先へ相廻候様申諭候処、殊之外憤怒之顔色ニテ大声ヲ発シ、理不尽ニ押通リ、同時左手人家ヨリモ一人、短銃ヲ以出合、狙掛候ニ付、其場之勢不得止、得道具ヲ以突掛候処、浅手ニ御座候哉、何レモ家内へ逃去、其儘追掛候処、裏口ヨリ供先ヲ浜手へ相廻申候、先手之銃隊共、右之挙動ヲ見請、直ニ搏出候ニ付、種々相制候内、彼モ浜手ヨリ及発砲候付、一先人数ヲ山手へ繰込、見合候内、外国人共更ニ銃卒押出シ、頻ニ摶掛候ニ付、尚又此方ヨリモ及発砲申候、尤右ハ不慮之義ヨリ差起リ、此上大事ニ立至リ不申様、早々人数引揚申候、以上。

【意訳】
去る十一日、西ノ宮へ向かうため兵庫宿を出発しました。我が隊が進軍し、神戸町を通行の際、先頭隊列の中間に外国人二人が左側から右へ通りかけたので、この者達を差し押えました。通訳があいだに入って、彼らを止めましたが、さらにまた一人の者が右側から左へ通りかけたので、差し押さえたところ、次に続く隊にかかり、割り込みました。それで、さまざまに対応し、手真似等をもって、隊列の先へ回るように言い聞かせたところ、ことのほか憤怒の表情になって大声を出し、理不尽に押し通りました。
 同時に左側の民家からも一人短銃を持って出て来て、狙いかけて来ました。その場の行きがかり上、やむを得ず持っていた槍で突きかけました。
 浅手だったのか、夷人はみな、家の中へ逃げ込みました。追いかけたところ、裏口から隊列の先頭を浜側に回りました。
 先頭の銃隊の者たちが、この挙動を見て、直ちに発砲したので、いろいろ手を尽くして制しているうちに外国人も浜側から発砲に及んだので、ひとまず隊を山側へ向わせ状況を見ていたところ、外国人はさらに銃隊を繰り出し、しきりに撃って来たので、こちらからも発砲に及びました。
 しかしながら、このことは予定外のことから持ち上がったことなので、これ以上大事にならないように早々に隊を引き揚げました。

『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』(池田家文庫 資料番号 S6-128-(2))に同内容の文章がある。

【資料について】
 衝突後、岡山藩から三条実美(新政府の議定・副総裁。正月十七日から外国事務総督)や伊達宗城(同じく十七日より外国事務総督)に提出されたことなどから、衝突に関して最初にまとめられた岡山藩の公式見解だったと思われる。(この報告書を、『復古記』での名称に従い、「忠尚申状」とする。)
三条実美へは、京都で岡山藩・番頭で新政府参与の土肥典膳が提出(一月十六日)、岡山藩京都留守居が太政官代から呼び出され、下坂した伊達宗城に提出するように松尾伯耆(三職御用掛)から指示されたのが同二十一日である。

 ただし、いずれも資料上の日付であり、実際に手渡された日であるとは限らないが、ほぼ近い日だと推定している。
 この記述は、以下の資料によった。
  1. 『復古記』巻二十三、明治元年正月十九日(第一冊、頁652―653)
  2. 『大日本外交文書』第一巻第一冊、一一四(頁275)
  3. 『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』池田家文庫 資料番号S6-128-(2)
  4. 「岡山藩士日置帯刀従者於神戸 外国人に対し発砲始末」(『吉備群書集成』五、頁118))
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②瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌

 本文書は日置帯刀の報告ではなく、日置家の記録である。本文書及び次の文書は、瀧善三郎が「鉄砲、鉄砲」と言ったことが日置隊の発砲のきっかけであるとする類型資料である。
 事件の直後に日置帯刀自身が書いたと思われる「忠尚申状」、日置に命ぜられて国許に変事を報告した山崎喜兵衛の報告では、発砲は命令を待たず行われ、瀧善三郎の「鉄砲」という言葉は出てこない。
 しかし、後年著されたいくつかの報告では、瀧の「鉄砲」という声が発砲のきっかけとなったとする。
 これらの類型(※1)は、ここに引用した二書のほか、瀧善三郎の切腹時、介添えをした篠岡八郎の「瀧善三郎自裁之記」などがある。

『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』(池田家文庫 資料番号S6―113)

一 正月十一日大蔵谷御泊り、兵庫御昼ニ相成り、同所御立被遊
神戸町(※1)外ニテ御先供参掛り候節、御供御家老組士跡、大砲方当りニテ異人御供割致掛候ヲ指押候得共、理不尽ニ御供割掛り、瀧善三郎鑓ニテ突掛り、浜手へ掛出候ヲ同人発砲ノ声ヲ掛ケ発砲致シ、続テ組士足軽等迄及発砲候、浜手へ逃出、
其侭御通行被遊候処、俄ニ異人兵端ヲ出シ御跡ヨリ押掛ケ、村往来ニテ異人砲発致候ニ付、此方様御人数ヨリモ及砲発、
其内山手へ御人数操〔繰カ〕上ケ候内異人兵ヲ引、晩刻ニ至リ鎮ニ相成候事
一 御人数右ニ付山手方へ所々ニ分レ、翌十二日昼迄ニ御人数深江村へ集候事


※一、神戸村が神戸町になったのは明治元年十一月。

【意訳】
一 正月十一日大蔵谷宿営、兵庫昼(昼食か)になり、同所を出立になった。
神戸町外で、隊列の先頭が進んでいたところ、隊列の御家老組の後、大砲方当りで、異人が供を割りそうになったので、差し押さえようとしたところ、理不尽に横切ろうとしたので、瀧善三郎が槍で突きかかった。浜の方へ行こうとしたので、瀧が発砲の声を上げ、発砲した。続いて、組士や足軽などまで発砲に及んだので浜の方へ逃げた。
 日置隊はそのまま、進軍されたところ、突然異人が兵端を開き、後ろから押しかけ、村酒井で発砲して来たので、こちらも発砲に及んだ。
 そのうち、日置隊は山の方へ向かい、異人も兵を引いて、晩になって収まった。
一 一隊は、このような事情で山側に分散し(て進み)、翌十二日昼までに深江村に集まった。

③瀧善三郎神戸一件書

 前文書より後に作成された当文書は、「忠尚申状」の記述に「瀧善三郎」という言葉を挿入され、「忠尚申状」との整合性がとれる形になっている。wikipedia (2020/03/08確認)の記述など、現在目にするものはこの形が多い。

 表紙に「日置忠出ス」とある。日置帯刀が「忠」名で提出した『瀧善三郎神戸一件書』(池田家文庫 資料番号S6―119)

十一日午後神戸町外レ通行之砌、先手行列之中江(へ)外国人両人左手ヨリ右江(へ)通掛候ニ付差押候内通詞之者取扱相止申候、尚又一人、右手ヨリ左江(ヘ)通掛候ニ付、差押候処、次之隊江(へ)掛り割込候ニ付、色々善三郎取扱、手真似ヲ以、供先江(へ)相廻候様申諭候処、殊之外憤怒之顔色ニ而(て)大声ヲ発シ、理不尽ニ押通リ、同時ニ左手人家ヨリモ一人、短銃ヲ以出合、狙掛候ニ付、ピストルヲ以テ狙ヒタルハ言語/ノ不通ニ付ヲドシニ出デシ訳ナルカ(前の部分割書き)其場之勢不得止、得道具ヲ以而(て)善三郎義突掛候処(※二)、手間延ヒテ、突止ル事不能、外人町家ニ逃込候ニ付、追掛候処、(浅手ニ御座候哉、何レモ家内へ逃去、其儘追掛候処、裏口ヨリ浜手へ相廻申候、混雑之場英仏之弁モ無之、善三郎忿怒之余り鉄砲々々ト之発声ニ応シ銃卒狙撃致候事、其時帯刀之中隊者(は)未タ神戸市(※一)中ニ有之先手之騒キ一見ニ及兼候得共事之起タルヲ聞、馬ヲ早メ現場江(へ)進候(以下略)

※一、神戸村が神戸町になったのは明治元年十一月。
※二、ここまでは、傍線の言葉を「忠尚申状」に挿入した文章になっている。これ以降は、前段にあわせて記述全体が若干修正されている。
( )の補記、読点などを補った。

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2.外国側の資料

 外国公使団はイギリス・アメリカ・フランス・ドイツ(プロイセン)・イタリア・オランダ六ヵ国の公使の寄り集まりだった。そのため、統一的な報告書がなく、それぞれが自国の外相などに報告している。
 原文を閲覧することは一部を除いてできなかったが、アメリカ代理公使ファルケンバーグのスチュワード国務長官への報告、イギリス公使パークスによる外相スタンレーへの報告および衝突後の聞き取り調査等の訳文(一部抄訳)が『神戸事件』など複数の書籍に掲載されている。
 これらの中で、発砲までの記録としては、一番具体的であるマルタンというフランス人によるフランス公使ロッシュ宛の供述書を参照した。
 なお、『神戸事件』によるとパークスの報告などの公文書は、ロンドンのパブリック・レコード・オフィスに収蔵されている。同機関は、現在統合されてThe National Archivesとなっている(同機関のサイトで確認、2017/11/17)。混乱を防ぐため、英国国立公文書館で統一する。フランス公使宛の供述書等がにあったのは、パークスの報告に同封されていたためと思われる。

 なお、マックス・フォン・ブラント(ドイツ公使)、A・B・フリーマン・ミットフォード(イギリス公使館二等書記官)、アーネスト・メーソン・サトウ(イギリス公使館日本語書記官)など外国外交官の回顧録では、日置隊の発砲に至る経緯は記述されおらず、彼らは射撃が始まってから衝突現場に注目している。
 また回顧録だからか、憶測や伝聞を事実のように記述されている部分もあり、外相などへの報告に比べて情報の精度がかなり落ちる。
 (サトウの回顧録 A Diplomat in Japanでは、上司であるパークスの報告でフランス兵となっているのに、アメリカ兵と書いている。また、拿捕された各藩の蒸気船の数も間違っている)。
 これらのことから、報告や供述に記載がないことなどを推測する補助資料とした。

 外国側の資料としては、基本的に『神戸事件』(内山正熊著)に記載された各国外交官の自国外務省などへの報告によった。原文は一部を除き参照できなかったので、必要に応じて『遠い崖』6(萩原延壽著)などを参照した。

 

(1)一八六八年二月六日 ロッシュ公使宛マルタン供述書

 二月四日の午後二時頃、我々マルタンとフォルタンの二人は、兵庫の居留地からほど遠からぬ道路を散歩していた。八百屋から五十メートルほどのところに来たとき、日本武士行列の一隊が道路上に見え、行進してきた。隊伍の先頭に我々を憎々しげに見ている男が目に入った。我々は道路のはじに沿って散歩を続け、八百屋の前まで来たとき、侍行列をよく見ようと立ち停った。
 このときキャリエール兵曹長(le brigadier Callier)が煙草を買ってミニャールの家から出てきて、侍行列の右側で休んでいたが、行列の進む方向に歩きはじめた。藩兵の一人が何か命令的な口調でいいよったが、キャリエールは何だかわからなかったので、やりたいことを押し通そうとしたところ、その藩兵はえらい形相でつめよってきた。キャリエールは行列とならんで同じ方向に歩いていたが、さっと隊伍の後方でざわめきが起こったのがわかった。フォルタンは、一人の侍が槍を振り上げているのを見て、キャリエールに一撃が加えられたと思った。この一撃はいきなりなされたので、左腕の下を突かれたのをよけることができなかった。キャリエールは傷を受けながらも、我々といっしょになるために行列を横切ったのである(il traversa la colonne pour nous rejoindre.)。彼が自分たちの近くにきたと思ったら、槍先がいくつも彼に向けられたが、自分は後ろからの一撃はなんとかかわすことができた。兵隊の数は多いのにこちらはたった三人だから、立ち向かうことはとうていできなかったので、二階にかけ上ってやにわにピストル(le revolver)を手に二つの出口を守ることにし、その間にキャリエールは垣根ごしに逃げ道をさがして出ていった。それから少し経って居留地の角の方で銃声が聞こえた。キャリエールは垣根のなかをうまく伝って屋根の上に上ることができた。兵隊は行進していったが、外国人居留地の方に向かって撃っていた。我々は地上に飛び降りて、領事館の方に向かった。それは起こったことを公使閣下に報告するためである。(『神戸事件』頁128―130)

【補足】
(1)「遠い崖 6」ページ210のフランス公使ロッシュによる外相への報告では槍で突かれた兵士を『カイエ伍長』としている。また、同行の者が彼を突いた槍を手でつかみ、槍の勢いを抑えたとする。
(2)パークスの外相宛の報告に「土下座しなかったので銃で殴られた」というイギリス人コリンズによる訴えの記述があるが(『神戸事件』頁111、コリンズ自身の供述は頁117。『遠い崖』6、頁195)、フランス人二人は土下座をしておらず、また強要された気配もない。
(3)日置隊と最初にもめ事を起こしたキャリエールの名前は、『復古記』(巻十八、明治元年正月十一日、頁530)「〇争闘概略」にも記述されている。

 『神戸事件』によると、パークス報告および調査書類はロンドンのパブリック・レコード・オフィスに収蔵されている。同機関は、現在統合されてThe National Archivesとなっている(同機関のサイトで確認、平成29年11月17日)。混乱を防ぐため、英国国立公文書館で統一する。
【参照・引用した書籍】

  1. 神戸事件 [中公新書]」、内山正熊著、中央公論、昭和58年刊
  2. ある英国外交官の明治維新-ミットフォードの回想-、ヒュー・コータッツィ著、中須賀哲朗訳、中央公論、昭和61年刊
  3. 遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄- 6[朝日文庫]」、萩原延壽著、朝日新聞、2007刊

補注

※1.発砲に至る経緯の類型について
 この類型の資料の多くは何らかの形で日置家の関与がうかがわれ、標題が「瀧善三郎・・・」で始まること、外国人の行為を「供割」と定義することなどが共通している。 なお、『高須七兵衛聞書』『忠尚申状』の二書には「供割」という表現はない。また、転記の過程でこの類型に修正したと思われるものもある。

(例)井上金藏日記抜萃(池田家文庫。資料番号S6―126)
草稿と思われる『井上金藏日記抜書』(同。資料番号S6―125)には、「井上金蔵日記」から抜粋したと思われる原稿の墨書の部分に「供割」の記述はなく、「右一条ハ、帯刀殿供割致し候ニ付」と朱で書入れられている。清書『井上金藏日記抜萃』ではその部分が墨書されている。
恐らく、転記元の『井上金蔵日記』(原本未見)には、「供割」の記述はなく、抜き書き・転記する過程で加筆されたと思われる。

(岡山藩の初期の記録や廃藩置県後の岡山県による報告書など、日置家の影響がないと思われる文書では「日置帯刀・・・」という標題が多い)。
 当初は秘匿していた事実を後になって記述するようになったのか、瀧の責任として事件を処理したので、それに合わせて表記を変えたのかは不明である。
 なお、供割に関する法的根拠は「公事方御定書」第七一条のなかにある「一、足軽体ニ候共軽キ町人百姓之身として法外之雑言等不届之仕形不得止事切殺候もの 吟味之上無紛におゐては 無構」であるか、と推測している。時に言われる「武家諸法度」は本来武家を律する法律であるし、いくつかの資料を見る範囲では関連する条項は見つけられなかった。
 実際に供割したことによる断罪の例はあまりないようである。引き合いに出されることが多い明石藩主による小児切捨ての逸話も信憑性は高くない(「明石松平侯道中斬捨て異聞―三島宿「言成地蔵尊由来」―」、『歴史と神戸』54巻5号、頁2-10)。


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