日置隊の編成について

1.衝突時の編成(先手)

(1)編成について記した資料

 「衝突の基本資料」でも述べたが、衝突の状況は日置家の関係者が記したものが記録として残っており、藩庁を含めた査問などの記録は見ることができない。
 また、瀧善三郎が切腹する前に書かれたものと、その後に書かれたもので発砲のきっかけに関する記述が異なる。①は衝突直後に報告された資料で、②と③は、後にまとめられたものである。後者の文書には、衝突の責任者として瀧善三郎あるいは大砲隊を前面に出す傾向がある。

 下記の三点の記述は〇は文中の隊列に関するもの、●は、衝突の描写である。②は隊列の記述がない。①では、隊長名や役職名で小隊の位置が記されているので、③に記載されている出発時の編成を参照して、( )内に記述した。

 衝突の基本資料を参照三角マーク

①高須七兵衛聞書
先手丹羽勘右衛門(鉄砲隊)、御家老組(士隊)、大砲方 一、瀧源六郎 二、浜田虎介 三、瀧善三郎
●然る処又一人御家老組景山万吉前へ割掛候ニ付、槍ニ而押退候処善三郎前へ参り候ニ付、同人も押退候所、向フへ行也ト云テ杖ヲ振り横切抜候ニ付、己レ悪キ奴也とて槍もて脇腹ヲ突候処
前記隊列の図
丹羽勘右衛門の鉄砲隊、御家老組の士隊の区分は、③の記述(岡山出発時の編成と隊長)を参照した。
 
②瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌
●御供御家老組士跡大砲方当りニテ異人御供割致掛候ヲ指押候得共、理不尽ニ御供割掛り、瀧善三郎鑓ニテ突掛り
前記隊列の図
 
③瀧善三郎自裁之記
鉄砲三隊、大砲隊並隊士卒、士頭並士隊
●左側店舗より出でたる外人、大砲隊と士隊の隊列を割って横切らんとするにより(古来供割とて固く禁忌す)瀧善三郎之を縦(ゆる)さず鑓にて背を突く
前記隊列の図
 

(2)推定

a.進軍と揉め事の状況

①では、鉄砲隊、士隊、大砲隊と続き、外国人(キャリエール、以下同じ)は当初士隊のなかに入り込み、押されて大砲隊のところまで行ってしまう。そこで瀧ともめ、瀧が槍で外国人を突く。
 供割という記述はない。

②では、鉄砲隊の記述がない。士隊(家老組)、大砲隊と続き、外国人は大砲隊の辺を供割しようとして、瀧に槍で突かれる。
 この記述は揉め事の場所を示したもので、隊列を記したものではないと推定することもできるので①を否定する要素はないと判断。

③では、先頭を鉄砲隊三小隊が進み、その後ろに大砲隊と士隊と続く。外国人はその間を供割しようとして、大砲隊の瀧に槍で突かれる。
 この文書は②と大砲隊と士隊が逆の順番である。

b.資料の特徴

(3)推定

衝突現場模式図1
①●は隊長を示す。『瀧善三郎自裁之記』により出発時の小隊数など出発時の全体の編成とそれぞれの隊長を推定した。それに『高須七兵衛聞書』の衝突時の記述をもとに推定した。各隊長の役職・石高は『慶応四年侍帳』によった。
●[小銃隊三]
丹羽勘兵衛(物頭兼普請奉行、二二〇石) ●角田与左衛門(物頭、一一〇石) ●御牧勘兵衛(物頭、一〇〇石)
●[大砲隊]
瀧源六郎(横目格、一〇〇石)野戦砲三門(※二) ●[徒士隊]
徒歩頭・浜田弥左衛門(横目格、八十石)徒士組十六名
●[士隊] 士頭・津田孫兵衛(家老、五百石)士組二〇名
●[組頭]
吉田渡(取次出役、七十石※三)
●[引廻し]
御牧安之丞(供頭格、二〇俵)
◎日置帯刀
●[近習隊]二六名(帯刀の前後か)
●[旗・鼓・弓・槍※四]
●[後衛]
●[輜重隊]
【補注】 ※二 『瀧善三郎自裁之記』には「野戦砲六門」、『瀧善三郎神戸一件書』では「砲門三門」とある。アメリカ代理公使ファルケンバーグの国務長官への報告に、日本側が放置した物のなかに「三門の真鍮製大砲」という記述があり(『神戸事件』頁一二二)、『高須七兵衛聞書』に「大砲曳手の雑人が逃げ、大砲はすべて置いて行かれた。後から預けたところに行くと、すべて持ち返られていた」とあることから、砲は三門だと判断した。
※三 吉田渡の役職・石高は『先祖書 吉田渡』(池田家文庫 D3-2835)によった。 ※四「瀧善三郎自裁之記」の[旗・鼓・弓・槍]という記述が独立した小隊についてのものであるかどうかの確認はできていない。  軍役においては各自石高に応じて旗を掲げるように指示されていた(『軍役之定』。また、「吉備恩古秘録 軍役」『吉備群書集成 十』口絵、頁三―十二にもあるが、時代は異なる)。西宮警衛隊についても、各隊がそれぞれの旗を掲げたものを、その華やかさを示すため記した可能性がある。
 弓・槍についても、士組や徒士組のそれぞれ所持していたのか、別に弓隊が存在していたかの確認できていない(槍隊はいたと思われる)。神戸での衝突に関し、弓隊、槍隊が関与した資料はないので、特にこだわらないが、今後の調査で何か分かれば加筆する。  なお、事件後の東征に際して槍隊は「冗官」として国許に帰されている(『史料草案 巻之二十二』慶応四年二月八日、池田家文庫。槍隊を「冗官」とするのは政府の方針であったようだ。) ②神戸通行時  岡山以降での隊列については、四種類の記述を確認している。 出発時と同じく「鉄砲隊三隊、大砲隊並隊士卒、士頭並士隊(以下略)の順(「瀧善三郎自裁之記」) 片上で「大砲隊を先頭にし、小銃隊二小隊、士隊」の順に変更(『瀧善三郎神戸一件書』(池田家文庫S6-119)。鳥羽伏見の戦いの報を聞き、「赤穂・龍野・姫路之動静難斗ニ付、其以心得進行致旨之下知来ル、即刻軍令ヲ示シ進行之列ヲ変シ、先隊トシ而砲兵一小隊、砲門三門、砲長瀧源六郎、同善三郎(中略)不慮之備ヲ為」とある。旗幟を鮮明にしていない藩地を通る場合は警戒せよとの指示を受けて、不慮のことに対応するために変更したとする。 「先手丹羽勘右衛門、御家老組、大砲方 一、瀧源六郎 二、浜田虎介 三、瀧善三郎」(「高須七兵衛聞書」)。 御家老組士跡大砲方(『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写 同人遺書并辞ノ之歌』中の「日置家記之写」) 【留意点】 『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写 同人遺書并辞ノ之歌』の記述は順番を記したものでなく、衝突のきっかけとなったもめ事の発生場所を記した可能性が高い。 「高須七兵衛聞書」を除いた資料は、事件後かなり経過して作成されたものである。  『瀧善三郎神戸一件書』も同様(報告者の名前「忠」は帯刀が後年使用)であるが、事件直後に同人が新政府関係者に報告した「忠尚申状」(『復古記復古記一冊巻二三』ほか)と記述が異なる。また、動きが鈍く、行軍中の戦力としては使いづらい大砲隊を先頭にするのは、多様な状況への備えとしては適していないと思える。  以上のことから、神戸に入ったときの隊列は「高須七兵衛聞書」の記述を基本とした。ただし、角田与左衛門および御牧勘兵衛が率いる銃隊が、丹羽勘右衛門の後に続いたのか、それとも大砲隊の後に続いたのかは、この文章だけでははっきりしない。  この後に、大砲隊で発生したいざこざをきっかけにして「居留地の東関門の裏の建物(交易所としている)から出てきた外国人が角田与左衛門足軽の前へ二連発の銃を構え」たことから、少なくとも角田与左衛門率いる小銃隊は、大砲隊でのもめごとに反応できるほど近くにいたと思われる。  いざこざの途中も日置隊は一定の速度で進んでいたと思われ、角田与左衛門足軽が東関門に達したことから、角田与左衛門隊の小銃隊は大砲隊の前だったと考えた。「瀧善三郎自裁之記」の記述通り、御牧勘兵衛隊もそれに続いていた可能性も高いが、判断する情報がなく、また発砲に至る経緯のなかでは特別必要ではないと思われたので図では記さなかった。

Ⅱ.内戦の始まり

西宮警衛 日置隊の編成


(一)編成

隊の構成と隊列
①出発時
 「瀧善三郎自裁之記」には主公(日置帯刀)以下の記述がないので、神戸での記述をもとに推測すれば次のようになる。人数は、徒士以上のものと思われ、これに足軽、雑人がそれぞれ配置された。

[小銃隊]
丹羽勘兵衛(物頭兼普請奉行、二二〇石)一銃隊
角田与左衛門(物頭、一一〇石)一銃隊
御牧勘兵衛(物頭、一〇〇石)一銃隊
[大砲隊]
瀧源六郎(横目格、一〇〇石)野戦砲三門(※二)
[徒士隊]
徒歩頭・浜田弥左衛門(横目格、八十石)徒士組十六名
[士隊]
士頭・津田孫兵衛(家老、五百石)士組二〇名
[組頭]
吉田渡(取次出役、七十石※三
[引廻し]
御牧安之丞(供頭格、二〇俵)
日置帯刀
[近習隊]二六名(帯刀の前後か)
[旗・鼓・弓・槍※四]
[後衛]
[輜重隊]
【補注】
※二 「瀧善三郎自裁之記」には「野戦砲六門」、『瀧善三郎神戸一件書』では「砲門三門」とある。アメリカ代理公使ファルケンバーグの国務長官への報告に、日本側が放置した物のなかに「三門の真鍮製大砲」という記述がある(『神戸事件』頁一二二)ことなどから、大砲は三門だとした。


※三 吉田渡の役職・石高は『先祖書 吉田渡』(池田家文庫 D3-2835)によった。
※四「瀧善三郎自裁之記」の[旗・鼓・弓・槍]という記述が独立した小隊についてのものであるかどうかの確認はできていない。
 軍役においては各自石高に応じて旗を掲げるように指示されていた(『軍役之定』。また、「吉備恩古秘録 軍役」『吉備群書集成 十』口絵、頁三―十二にもあるが、時代は異なる)。西宮警衛隊についても、各隊がそれぞれの旗を掲げたものを、その華やかさを示すため記した可能性がある。
 弓・槍についても、士組や徒士組のそれぞれ所持していたのか、別に弓隊が存在していたかの確認できていない(槍隊はいたと思われる)。神戸での衝突に関し、弓隊、槍隊が関与した資料はないので、特にこだわらないが、今後の調査で何か分かれば加筆する。
 なお、事件後の東征に際して槍隊は「冗官」として国許に帰されている(『史料草案 巻之二十二』慶応四年二月八日、池田家文庫。槍隊を「冗官」とするのは政府の方針であったようだ。)

②神戸通行時
 岡山以降での隊列については、四種類の記述を確認している。

【留意点】
『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写 同人遺書并辞ノ之歌』の記述は順番を記したものでなく、衝突のきっかけとなったもめ事の発生場所を記した可能性が高い。
「高須七兵衛聞書」を除いた資料は、事件後かなり経過して作成されたものである。
 『瀧善三郎神戸一件書』も同様(報告者の名前「忠」は帯刀が後年使用)であるが、事件直後に同人が新政府関係者に報告した「忠尚申状」(『復古記復古記一冊巻二三』ほか)と記述が異なる。また、動きが鈍く、行軍中の戦力としては使いづらい大砲隊を先頭にするのは、多様な状況への備えとしては適していないと思える。

 以上のことから、神戸に入ったときの隊列は「高須七兵衛聞書」の記述を基本とした。ただし、角田与左衛門および御牧勘兵衛が率いる銃隊が、丹羽勘右衛門の後に続いたのか、それとも大砲隊の後に続いたのかは、この文章だけでははっきりしない。
 この後に、大砲隊で発生したいざこざをきっかけにして「居留地の東関門の裏の建物(交易所としている)から出てきた外国人が角田与左衛門足軽の前へ二連発の銃を構え」たことから、少なくとも角田与左衛門率いる小銃隊は、大砲隊でのもめごとに反応できるほど近くにいたと思われる。
 いざこざの途中も日置隊は一定の速度で進んでいたと思われ、角田与左衛門足軽が東関門に達したことから、角田与左衛門隊の小銃隊は大砲隊の前だったと考えた。「瀧善三郎自裁之記」の記述通り、御牧勘兵衛隊もそれに続いていた可能性も高いが、判断する情報がなく、また発砲に至る経緯のなかでは特別必要ではないと思われたので図では記さなかった。


前記の隊列を横に並べた図


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