慶応四年神戸事件を考える

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銃撃について

(1)推定と検討

①銃撃の原因としての行列の横断

 外国側が公式に主張したのは「故なく発砲」である。しかし、パークスの報告にはフランス兵キャリエールが隊列を横ぎったことが日置隊の発砲の原因だとする記述があった(『神戸事件』頁115)。また、サトウは回顧録で「行列のすぐ前方を横ぎった一名のアメリカ人水兵を射殺した。(※1)。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである。」と記す(『一外交官の見た明治維新』下、頁130)。
 これらのことは、キャリエールが隊列を横ぎったことが、発砲の原因だったと外国側が認識としていたことを示す。
 外国側が交渉の過程でこのことに言及することがなかったのは、日本の習慣を軽んじていたというより、外交上の駆け引きではなかったか。

日本側の見解はどうだろうか。衝突した隊の責任者・日置帯刀による当初の報告では、外国人が隊列を横断しようとして揉め事を起こしただけでなく、隣の建物から別の外国人が銃を構えたので瀧が槍で刺突(殺意は感じられない)、さらに建物に隠れた外国人を追いかけたところ浜側に逃げた。それが銃隊による発砲を引き起こしたとある。
 つまり、日置隊の発砲は、これら一連の流れのなかで、起きたのであり、最初の原因はキャリエールの進軍妨害(横断)である。
 このことに東久世達日本側外交団が言及しなかったのは、彼らの交渉の目的が事実と彼我の責任の確認でなく、新政府の外交権を樹立を宣言することであり、外国外交官の慰撫だったからであろう。

▼管見1
 個人的には、キャリエールの行動は、単なる「行列の横断」ではなく、「進軍の妨害」だと思う。仮に進軍する軍列に異国人が紛れ込んで怒鳴ったりしても、彼らの軍隊では何もしないのだろうか。
▲たたむ

【補足】
 日本側の資料のうち、「高須七兵衛聞書」「忠尚申状」は、いずれも「命令を待たずに発砲」が起きている。
 当初交渉を指揮した東久世の『竹亭回顧録』では「其外人は近傍の家へ逃こみあわてゝ短銃を発した」とある(頁246)。「銃を構えた」とは異なるが、衝突のきっかけとして外国人の銃による威嚇が記されている。これは新政府に提出された「忠尚申状」をもとにした記憶であると推定できる。
 これとは別に瀧善三郎が「鉄砲」と声を発したことをきっかけとする資料がある。
 日本側の資料の類型については別に記す。衝突の基本資料参照

②外国人を狙って撃ったか

 『高須七兵衛聞書』では反射的に撃っており、狙いを定めた感じではない。『忠尚申状』では、少なくとも「浜側に逃げる外人に向けて撃った」とする。

 実際に銃弾は浜側に飛び、運上所に掲げてあった国旗に穴をあけた。一般の外国人が自分たちが狙われたとするのは被害側として当然である。

 居留地を走って逃げた外国人に向かって比較的近いところから放たれた弾丸は、遮蔽物がまったくないにも限らず、ほとんど人に当たらなかった。弾は彼らの頭上を越えていった。
 前記のことから日置隊の発砲は外国人の殺傷を目的としていなかった可能性が高いが、ミッドフォードは回顧録で、「新しくアメリカから買入れた銃で照準の合わせ方が分らなかった」(『英国外交官の見た幕末維新』頁118)と記す。殺傷を目的としていたが、銃の扱いがまずくて当たらなかったと言っているのであろう。
 ミットフォードが参照として挙げている要塞戦での銃撃の例は、至近距離での銃撃というこの場の状況とまったくことなる。また、照準が無茶苦茶ならば、弾は無茶苦茶に飛ぶはずである。しかし、日本側が撃ったほぼ全弾が建物の上を通過した。

▼管見2

 戦闘が予測される地域に命ぜられて行く軍隊が、照準の合わせ方がわからない銃を持っていくとは思えない。仮に新しい銃を支給されたとして、練習もしてないことになる。片上に逗留していた時も詩吟でも唸っていたというのか。ミットフォードやサトウは親日家とされるが、個人的には彼らにはどこか日本蔑視の肌合いを感じる。
 なお、衝突のあと、 ▲たたむ

 この時の日置隊の銃卒は三小隊六十人前後ではなかったかと推測している(※2)。岡山藩が本格的に銃隊の編成を始めたのはこの事件の後であり、日置家も四月に銃隊を編成している。
 それに先立つこの時期に六十人がいっぺんにアメリカ製の銃を支給されたとは思えない。彼らは日置家の家臣であり、岡山藩の直臣ではない。日置家が独力でそれだけの銃を集める力があったとは考えにくい。
 仮に岡山藩から銃の支給あるいは予算の補助があるとしても、それは銃隊の編成時ではないだろうか。
 この時期は、従来揃えた銃を所持していた可能性が高いと推測する。また、複数種の銃を持っていた可能性もある。

ミッドフォードの再来日  ミッドフォードは明治三十九年明治天皇にイギリスのガーター勲章を贈るコンノート公に随行して来日した。神戸を再訪したとき、神戸での事件を思い出し、同じように「アメリカからきた銃を支給されたばかりで、そのため照準の合わせ方を知らなかった。」と記す。そのせいで、「誰一人怪我をしなかった」とする(『ミットフォード日本日記』頁182)。回顧録とはこのようなものである場合がある。

 元軍人のブラントは「ビュウビュウと音を立てて弾丸が飛んできたが、ほとんどはわれわれの頭上を飛んで行った。」と記す。そして、「日本兵が銃をかなり上に向けて射撃した」とする(『ドイツ公使の見た明治維新』頁134)。
 ファルケンバーグは「眼前の外国人全て」と「米英伊及び普国公館に翻へる国旗」をめがけて撃ったとする(『神戸事件』頁120)。米・伊・普の国旗は、運上所(仮公使館)に掲げられ、イギリス国旗は東隣の旧幕府運上所(イギリス領事館)に掲げられていた。
 彼の言い分では、遠く(居留地自体は奥行き600ヤード=約550メートル)に立つ建物の上に掲げられた旗にはかなりの弾が当たったが、より近いところを走る(300メートル前後になるか。さらに最初の発砲では、もっと近くにが立っていたと思われる)多くの人間には、二人に数発しか当たらなかったということになる。

【銃撃模式図】
銃撃図 
 『ドイツ公使の見た明治維新』などをもとに作成した。

③発砲状況(まとめ)

 外国側の記述では発砲は何回か起きた。憶測では最初の銃撃は反射的に発砲した乱射だった(これが山崎喜兵衛の言う足軽達の発砲の可能性もある)。このため、オネイダ号の見習を傷つけた。ただし、発射弾も少なく、多くの人間を殺傷することはなかった。
 その後、最初の乱射に誘発された(あるいはこれに刺激された誰かに指示された)先頭の銃隊が浜側に向けて群衆の頭上を威嚇的に撃った。あるいは先に見える旗(これが外国国旗であるとの認識が当時の一般日本人にできるとは思えない)を目当てに撃った。
 この推測は、発砲に関するいくつかの情報をできるだけ拾い上げるとこうなる、というものに過ぎず、確証はない。

 推論の正否とは別に、軽傷であったが二人が負傷したこと、放たれた多くの弾丸は群衆の頭の上を飛び越え、二階建ての半西洋館の上に翻った旗を打ち抜いた、これは事実であると判断して良いと思われる。

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補注

※1.アメリカ人水兵を射殺
 「射殺」が誤訳なのは既に説明した。参照

※2.日置隊の銃卒数
 以下の資料により、一小銃隊は、20名強から30名であると推定した。

『瀧善三郎自裁之記』
岡山を出発する時の隊列に関し、先手として物頭・丹羽勘右衛門以下三小隊であったことを記す。(『御津町史』頁388)
二月になって、物頭・狩野伝左衛門(日置家臣・一八〇石)が銃卒二十名を引き連れて森村の本陣(日置帯刀以下が宿営していた)に駆けつけている。(同、頁390)
瀧善三郎の護送に際し、池田伊勢配下佐藤佐源次が銃卒二十名を率いている(同、頁392。『兵庫一件始末書上』では足軽二十人)
(慶応四年)金川小銃隊名簿
事件後に編成された金川小銃隊一小隊の構成員は三十三人から四十人である(『御津町史』頁1140―1144)。
『岡山県史』第九巻
同じく慶応四年七月以降編成された岡山藩の銃卒(足軽)三大隊の一小隊は平均22名、平士銃隊の一小隊は24名である(頁99)。

 これらから、鉄砲隊一小隊は、物頭(部隊長)の下に20―30名前後の戦闘員(銃手)が配置されていると推定。また、この時の日置隊銃隊は三小隊であり、約60―90名の銃手がいたと推測した(いずれも目安としての大まかな数である)。また、『軍役之定』の記述などから小銃隊以外の隊員も銃を携行していた可能性がある。


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参考資料

  1. 幕末維新史年表、大石学編、東京堂出版、2018年刊。頁78―184
  2. 史料草案巻二十一 従明治元年正月元日/至同年同月末日。池田家文庫、資料番号A7-34
  3. 瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌、池田家文庫、資料番号S6―113
     同書には内容がほぼ同じ文書がある。詳細は当サイト三角右マーク瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌
  4. 七曲神社と金川、板津兼六編、七曲神社、昭和57年
  5. 御津町史、御津町史編纂委員会編、御津町、昭和60年
  6. 備前遊奇隊東征記、太田修平著発行、昭和17年。岡山市立図書館内岡山古文書研究会の複製(岡山市立図書館蔵)
  7. 「維新前後:竹亭回顧録」、東久世通禧 述、高瀬真卿編、博文館、明治44年)
  8. 戊辰戦争[戦争の日本史18]、保谷徹著、吉川弘文館、2007年。鳥羽伏見の戦いについては、幕末維新史年表とこの書によった。
  9. 神戸開港に臨んだ外国奉行柴田剛中―大坂町奉行・兵庫奉行兼帯期の動向―、菅良樹、『徳川社会と日本の近代化』、思文閣出版、2015年
  10. 長崎奉行―江戸幕府の耳と目―[中公新書905]、外山幹夫著、中央公論、1988年
  11. 新修芦屋市史 本編、武藤誠(芦屋市史編集専門委員)編、芦屋市役所(発行者は市長・渡辺万太郎)、昭和46年
  12. 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄―[朝日文庫 ]6、萩原延壽著、 朝日新聞、2007年
  13. ドイツ公使の見た明治維新、M.v.ブラント著、原潔・永岡敦訳、新人物往来社、昭和62年
  14. 彩色絵はがき・古地図から眺める 神戸今昔散歩[中経の文庫 657]、原島広至著、中経出版、2011
  15. 「神戸事件」(1868年)とイタリア―瀧善三郎の「ハラキリ」を目撃するイタリア人ピエトロ・サヴィオの報告書を中心に―、ジュリオ・アントニオ・ベルテッリ著、イタリア学会誌第61号(2011)、頁217―236[雑誌論文]