彼杵の千部塔・万部塔

彼杵の千部塔・万部塔

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概 要

 彼杵の題目碑は、読誦記念の塔として紹介される。「東彼杵町史 水と緑と道」上巻(東彼杵町教育委員会編、東彼杵町刊、平成11年)p72-73では次のようにいう。

六、千部塔・万部塔
長崎街道・平戸街道を歩いて一番よく目につくのがこの塔である。自然石、笠塔婆様式は様々である。法華経千部唱えれば千部塔、一万部唱えれば万部塔で、各集落で講を作って唱えることは、大村藩がキリシタン対策として奨励したから盛んであった。
 建立が郡崩れ後に集中しているのは、信仰のあかしとしてあるいは天正の改宗で両側から死傷もでているその慰霊もあろう。(中略)
 郡崩れよりもっと前、寛永十八年、若狭国の高僧日審上人が大村領に廻国布教にみえた。この影響は大きく、本地寺創立の基礎を作った児玉六兵衛(出家して宗喜日悦)も帰依した。千綿宿ではお産の仏として信仰が厚い。
 彼杵の千部等・万部塔の字は日審上人の筆跡である。この塔は彼杵村に十五、千綿村に三基あるが、宿の万部塔が失われ、新しく千部塔になっており、日審上人の筆ではない。(引用ここまで)

 大村は江戸時代の切支丹禁教により、逮捕者603名、取り調べ中の死者78名、打ち首406名という凄惨な「郡崩れ」があった土地でもあり、それと千部塔、万部塔の建立を結びつける資料もある。
郡崩れ 大村の歴史 大村観光ナビ(サイト確認:平成28年7月29日)

 「天正の改宗」が何か管理人には分からないが、宣教師の要求により実施された神社・仏閣の焼き討ち、僧侶の殺害(「大村の歴史」、大村市教育委員会編、平成15年、p80)を指すのではないかと推測している。

長崎街道の彼杵周辺で見た千部塔・万部塔

 平成26年に長崎街道彼杵を歩いたとき見聞した千部塔・万部塔。このときは山陽道を歩いている途中で、山陽道の備中地方北部に多い地神塔に興味が向いており、単なる目印と考えていたように思う。(佐賀路 記録の都合上彼杵は佐賀路に記載)。
 下記に掲載したもの以外に、俵坂峠を下りる途中、かっての妙法寺参道の入口にあった題目塔や大村市内本経寺(大村氏菩提寺)山門前にあった題目碑は掲載しなかった。

坂本千部塔

 自然石。佐賀藩と大村藩の藩境(現在の県境でもある)を越え、俵峠を下る途中にある。周囲は水田の棚田である。
坂本千部塔

管無田千部塔

 自然石。JR九州バス管無田郷バス停近くにある。
管無田千部塔

万部塔

 自然石。名称不明。地名としては管無田だと思う。彼杵の大楠跡の二代目楠木の下にある。
大楠万部塔

川原千部塔

 自然石。一ノ瀬川を渡ってすぐ。彼杵宿の入口だったのではないか。
川原千部塔

本町万部塔

 笠題目塔。長崎街道が大村方面へ彼杵川を渡る手前にある。前記、東彼杵町上巻p421によれば典型的な寛文塔である。原型は本経寺の大村藩第三代藩主純信の墓碑だとする。
本町万部塔

千部塔と六地蔵

 手前が六地蔵(※)。千部塔は単なる長方形ではなく板碑、上が平たい宝珠のようになっている。
千綿の六地蔵 千綿千部塔
※このように一本の柱に何面かの石仏類を刻んだものを石幢というらしい(日本石仏事典第二版p312-313)。この形の六地蔵は岡山では見たことがないと思う。佐賀と長崎では何度か見た。
 道の分岐点に立つように思える。「石の宗教」では、「荒(すさ)び出る荒魂(あらみたま)を塞るためにおかれた地蔵」であり、「六方を監視」するという(五来重、講談社学術文庫、2007、p263-264)。六道を輪廻する過程で、救済してくれるという説とはまた違ったものが感じられる。

清水坂下千部塔

 自然石。『廃物希釈を逃れるために「猿田彦大神」を上から彫った』(伊能図で甦る古(いにしえ)の夢 長崎街道。地図46による。書誌事項は長崎街道トップ参照)。
現在では、その識別はつかない。国道34号線下にある。
清水坂下千部塔

戦勝記念の題目碑

 以下の2基は、日清戦争(明治27年7月~同28年3月)の戦勝記念碑である。宗教的な題目碑と同列に考えて良いか不明だが、題目が大きく刻んであることと、外形が同じなので掲載する。

日清戦争勝利記念(一ノ瀬橋手前)

 自然石。名称不明。明治28年4月の銘あり。「皇軍戦勝国威・・」とある。読誦に関する記述は見つけられなかった。
 戦勝を記念した題目石01

日清戦争勝利記念(郡橋宝塔様)

 自然石。明治28年10月の銘あり。「征清戡定 吾武維揚」「殉難忠魂 永勅其勲」とある(「勒」は推測)。読誦に関する記述は見つけられなかった。平成19年に修復された由(隣りにある石碑によると平成19年に修復された由。また、郡橋宝塔様と名称が付されていた。これは「妙宣寺」とお寺の名前が入っているが、日清戦争勝利記念という面から掲載した。

戦勝を記念した題目石01

書きかけ項目です。今後追加修正の可能性があります。


題目碑へ戻る。
佐賀路に戻る(記録の都合上、彼杵は佐賀路に記載しています)。

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