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大覚大僧正の石碑があるところからバイパス側に戻る感じで右に下りる道がある。そこを下りて、バイパスの南側を東へ進む。
200メートルくらい進んで、バイパスから右に離れる道へ進む。バイパス沿いにそのまま進むとその先横断歩道などがなく、交通量も多いのでこちらの方が良い。
そこから200メートルほど行くと左側にユニマットそよ風という建物がある。建物の東側に分岐する路地を北に入ると、右側に米倉公会堂がある。正面に2号線バイパスの高架が見える(右写真:手前の建物が米倉公会堂)。
米倉公会堂の北側、用水とのあいだに、木野山様がある。玉垣の中に五角の地神塔、常夜燈、道標、祠がある。地神塔は五角のもので、刻まれている神様も天照大神、倉稲魂命ほか標準的なショウギ型だ。
常夜燈と移設された道標。道標の文字、「右 おかやま むねた々宮」、「左 古野比?宮 由う加宮」と読める。前者は正しいと思うが、後者はよく分からない。金毘羅宮と由加宮かとも思うが・・・。
岡山県神社庁のホームページで検索しても鴨池八幡宮では出てこなかった。鴨池八幡宮というのは通称のようで本当の名前は八幡神社だった。八幡神社(岡山県神社庁 神社紹介:サイト確認:平成28年3月29日)
この辺は低地で鴨が飛来していたのでこの名になったという。祭神は大雀命(おおささぎのみこと)である(説明板より)。大雀命とは仁徳天皇のことらしい。
拝殿正面上に彫刻がある。下にウサギが彫られ、上の竹をかじっている(?)ようなのは虎か?両端には竜頭が配されている。これも欄間というかどうか知らない。隣には町内会の集会所があった。集会所前に鳥居があるのは不思議な光景だった。
盛隆寺の本堂の裏に戸川氏の墓所がある。最初行ったときは扉が閉まっているので入らなかった。2回目に行ったとき、近くで掃除をしている方に尋ねると、開けて入って良いということだったので、その方と一緒に入った。
中には大きな墓碑が並んでいた。入ってすぐ左の五輪塔が母堂の墓碑だ、と説明してくれた。誰の母堂かは聞き漏らした。正面にも五輪塔があり、また笠がある墓碑(笠塔婆)が並んでいた。どの墓碑がどなたのものか分からなかった。
「岡山県通史 下編」 第三十五章 旗本、(六)妹尾知行所 戸川氏の項で開祖として安成(やすなり)について記述し、「寛永五年十二月三日死す。年五十九。法名了泰。三田の大乗寺に葬る。のち代々葬地とす。」(p521)とある。
三田の大乗寺についてインターネットで検索すると、現在は永隆寺という天台宗のお寺になっているようで、そのサイトを見ると旗本戸川家、花房元男爵家その他とその家臣などの菩提所であったことが記されている。(永隆寺 天台宗東京教区 寺院紹介サイト確認:平成28年4月21日)。
備前を中心とした戦国大名宇喜多氏の家臣であった戸川氏は、幕府から与えられた縁もゆかりもない地域の領主となった大名や旗本と異なり、領地との結びつきが深いような気がしていたが、多くの例と同じように江戸に墓所があるようだ。また、帯江知行所(茶屋町)の戸川氏の菩提寺も江戸の玄照寺のようだ(真如庵にある墓所は分骨)。
岡山県下で最初に開設された寺子屋。(略)開設は元亀元年(1570)で、長野、石川、福島の諸県に開設された寺子屋に次ぎ、明治5年(1872)まで303年間継続して経営された。矢吹一郎右衛門が最初の学舎を開いてから4回移転したが、矢吹家の子孫数代にわたって経営されていた。
男女各100人程度が常に在籍し、主として習字を教えた。1872年の新学制に伴い、時の師匠矢吹七五三吉郎は新しい小学校の教師となった。現在の妹尾小学校の校章は矢吹家の紋章をかたどったものである(岡山県大百科下p1031による。項目の著者 /秋山和夫)。
『岡山県通史』下p830、【四 私塾及び寺子屋】では、「上寺学舎」として矢吹学舎について述べ宝永六年(1709)の調査によるとしている。また、日本教育史資料からによるとして、岡山県内に私塾144、寺子屋1,032が数えられ、隣県より著しく多いと紹介している。
『我が国庶民教育と矢吹学舎』p48によると、矢吹学舎は次のように変遷している。
我が国庶民教育と矢吹学舎、岡山県都窪郡妹尾尋常高等小学校・同妹尾町青年学校 郷土研究部 編集兼発行、昭和12年。
我が国庶民教育と矢吹学舎 (国立国会図書館デジタルコレクション p43-52、60コマ-65コマ)。
庶民教育の誇れる歴史だと思うが、残念ながら火事で記録が失われ、史料としては、日本教育史資料9 巻二十四 私塾寺子屋表しかない、ということである。そのためもあって、あまり知られていないのだろうか。
日本教育史資料:明治16(1883)年に文部省が、各府県等に提出を命じた旧幕府時代の教育に関する情報を編纂した資料。明治23(1890)~明治25(1892)年に刊行された。再販などもされているが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
日本教育史資料9二十四巻 私塾寺子屋表(国立国会図書館デジタルコレクション p110、60コマ)。
妹尾・箕島のむかしをたづねて(第1集)p65-66に次のような記述がある。
(前略)能勢の領主であった能勢頼次(よりつぐ)が日照りで困ったとき、祈祷によって雨を降らしたので有名になり、当地、妹尾でも弘化年間(約一五〇年前)の大干ばつのため、大ききんが三年間も続き、箕島の庄屋高橋太郞左衛門が能勢の妙見から分体を勧請し、箕島を眼下に見下す暮石山に安置し、村民こぞって祈念したところ、妙見の加護により、慈雨をもたらしたとの伝説がある。
戦後、堂守りとして着任をした十河(そごう)住職が浄財を募り、お堂の補修を行い、昭和二十八年能勢妙見法主を招き盛大な祭典を行っている(別紙)。このお堂と東隣の毘沙門堂とは箕島の名称の地として知られ、春はツツジと共に数多くの八重桜が咲き、近郊からの参詣者も多く、縁日には大変ににぎわったそうである。また、妹尾小学校の遠足には箕島の暮石山(妙見山)は必ず訪れていた。
昭和四十年頃住職が遷化され、堂も風雨にさらされ、荒廃し、昭和四十八年国道二号線の開通後は暮石山頂付近も荒れ果て、妙見堂は、毘沙門堂と共になくなり、名勝の地も姿を消した。今は国道二号線の上に架けてある横断橋だけが無用の長物として残っている。
妙見山荒廃に伴い、県当局の要請もあって、犬養木堂先生の筆跡を刻んだ「神如在(神、在スガ如シ)」の石碑とともに、箕島地区の有志の協力により、水利の恩人、大橋太郞左衛門の記念碑をも呑海寺・乗越の境の大覚大僧正宝塔の北隣のあたりの空き地に移転している。(引用ここまで)
前記「妹尾・・・・」中「妙見様」と題された今本完氏の文章を引用。別紙は引用していない。また、日蓮宗と妙見との関わりの部分は割愛した。
下津井(金比羅)往来の途上にある見上げる高さの題目碑から、北に入り、少し上って右手(西の方)を見れば山の中腹に呑海寺が見える。そこからお寺を目ざして進む。右に少し下る。途中、右手に文化九壬申と刻まれた常夜燈がある。
本堂と番神宮。本堂は十九世紀初期、番神堂は享和三年の建築(前記資料)。
岡山市の地名p869では次のようにいう。
日蓮宗の呑海寺は箕島村の西端にあり、貞和三年(1347)に霊岳禅師が開山し、簑島山と号した禅寺であったが、花房家が領民に日蓮宗を強制し、改宗させて如意山と改めた。改宗の強制を怒った禅僧が古器・古書類をことごとく持ち出し、散逸してしまった(備中誌)。呑海寺では開山をしのんで毎年盆の八月十六日に開山踊が行われ、霊岳禅師の供養をしている。(引用ここまで)
霊岳禅師は、鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧侶である(インターネットサイト:コトバンク デジタル版日本人名大辞典+PLUS。サイト確認平成28年4月24日)。開祖の霊岳法穆は、お経を唱えながら地下に籠り、即身仏として亡くなったとの説もインターネット(市久会 矢坂山を語る会:サイト確認平成28年4月24日)で見たが、手元の他資料では確認できていない。開山踊りという盆踊りがある。最初の(禅宗としての)開山を記念するというが、日蓮宗のお寺を舞台に、禅宗のお寺の開山を記念するというのも不思議な感じがする。
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