岡山の往来・逸話

往来の逸話

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米倉(よねぐら)

 17世紀に児島湾奥地の葦原が干拓されて成立した新田地域。この地域の西部は笹ヶ瀬川の屈曲点にあたり、四国往来(現主要地方道岡山-児島線)の渡河地点で、明治20年(1887)に木橋が架設されるまでは渡船場があり、由加山や讃岐の金毘羅へ参拝する人を中心に1日平均1000人もの利用者があった。(岡山県大百科上p1105より引用。項目の著者 /三木勇)
 岡山市電子町内会 米倉町内会ホームページ わが町の歴史上巻米倉港の繁栄 荷受場の完成 :サイト確認:平成28年3月29日))

平成28年4月7日


木野山様


 大覚大僧正の石碑があるところからバイパス側に戻る感じで右に下りる道がある。そこを下りて、バイパスの南側を東へ進む。

 200メートルくらい進んで、バイパスから右に離れる道へ進む。バイパス沿いにそのまま進むとその先横断歩道などがなく、交通量も多いのでこちらの方が良い。
そこから200メートルほど行くと左側にユニマットそよ風という建物がある。建物の東側に分岐する路地を北に入ると、右側に米倉公会堂がある。正面に2号線バイパスの高架が見える(右写真:手前の建物が米倉公会堂)。
木野山様へ  米倉公会堂

 米倉公会堂の北側、用水とのあいだに、木野山様がある。玉垣の中に五角の地神塔、常夜燈、道標、祠がある。地神塔は五角のもので、刻まれている神様も天照大神、倉稲魂命ほか標準的なショウギ型だ。
木野山様  米倉の地神塔

 常夜燈と移設された道標。道標の文字、「右 おかやま むねた々宮」、「左 古野比?宮 由う加宮」と読める。前者は正しいと思うが、後者はよく分からない。金毘羅宮と由加宮かとも思うが・・・。
木屋山様の常夜燈  米倉の道標

平成28年4月7日


鴨池八幡神社

 道は注連石(左写真では右側の石柱が電信柱の陰になっている)からまっすぐ北に向う。その先、県道21号線(岡山児島線)を越える。交通量が多い。写真でピンクに見える建物(スーパードラッグひまわり)の左側を進むと、駐車場がある。その奥に鴨池八幡宮がある。
 入口に一対の常夜燈があり、向って左の常夜燈には「安政五戊午歳六月吉日建立」「本願 灸寄屋 惣右衛門」、右の常夜燈には「天保十五星次甲辰九月[?]且建之[?]」「本願 鐵砲屋宇兵衛」と書いている。字を白く塗っているから読みやすいが、それでも分からない字がある。
鴨池八幡宮への道 鴨池八幡

 岡山県神社庁のホームページで検索しても鴨池八幡宮では出てこなかった。鴨池八幡宮というのは通称のようで本当の名前は八幡神社だった。八幡神社(岡山県神社庁 神社紹介:サイト確認:平成28年3月29日)

 この辺は低地で鴨が飛来していたのでこの名になったという。祭神は大雀命(おおささぎのみこと)である(説明板より)。大雀命とは仁徳天皇のことらしい。
 拝殿正面上に彫刻がある。下にウサギが彫られ、上の竹をかじっている(?)ようなのは虎か?両端には竜頭が配されている。これも欄間というかどうか知らない。隣には町内会の集会所があった。集会所前に鳥居があるのは不思議な光景だった。
鴨池八幡2  鴨池八幡3

平成28年4月7日


戸川氏墓所

 盛隆寺の本堂の裏に戸川氏の墓所がある。最初行ったときは扉が閉まっているので入らなかった。2回目に行ったとき、近くで掃除をしている方に尋ねると、開けて入って良いということだったので、その方と一緒に入った。
戸川氏墓所 戸川氏墓碑

 中には大きな墓碑が並んでいた。入ってすぐ左の五輪塔が母堂の墓碑だ、と説明してくれた。誰の母堂かは聞き漏らした。正面にも五輪塔があり、また笠がある墓碑(笠塔婆)が並んでいた。どの墓碑がどなたのものか分からなかった。

 後で戸川氏の資料を読んでいて、もしかしたら戸川秀安の母親(宇喜多直家の弟の乳母)の墓かも知れない、と思った。長命で戸川氏の祖ともいえる秀安の死後、庭瀬藩で老後を送っていたようだ。庭瀬藩が絶家になったとき移転した可能性がある。何かの折に資料を調べよう。

 「岡山県通史 下編」 第三十五章 旗本、(六)妹尾知行所 戸川氏の項で開祖として安成(やすなり)について記述し、「寛永五年十二月三日死す。年五十九。法名了泰。三田の大乗寺に葬る。のち代々葬地とす。」(p521)とある。
 三田の大乗寺についてインターネットで検索すると、現在は永隆寺という天台宗のお寺になっているようで、そのサイトを見ると旗本戸川家、花房元男爵家その他とその家臣などの菩提所であったことが記されている。(永隆寺 天台宗東京教区 寺院紹介サイト確認:平成28年4月21日)。

 備前を中心とした戦国大名宇喜多氏の家臣であった戸川氏は、幕府から与えられた縁もゆかりもない地域の領主となった大名や旗本と異なり、領地との結びつきが深いような気がしていたが、多くの例と同じように江戸に墓所があるようだ。また、帯江知行所(茶屋町)の戸川氏の菩提寺も江戸の玄照寺のようだ(真如庵にある墓所は分骨)。

平成28年4月21日


矢吹学舎について

 岡山県下で最初に開設された寺子屋。(略)開設は元亀元年(1570)で、長野、石川、福島の諸県に開設された寺子屋に次ぎ、明治5年(1872)まで303年間継続して経営された。矢吹一郎右衛門が最初の学舎を開いてから4回移転したが、矢吹家の子孫数代にわたって経営されていた。
 男女各100人程度が常に在籍し、主として習字を教えた。1872年の新学制に伴い、時の師匠矢吹七五三吉郎は新しい小学校の教師となった。現在の妹尾小学校の校章は矢吹家の紋章をかたどったものである(岡山県大百科下p1031による。項目の著者 /秋山和夫)。

 『岡山県通史』下p830、【四 私塾及び寺子屋】では、「上寺学舎」として矢吹学舎について述べ宝永六年(1709)の調査によるとしている。また、日本教育史資料からによるとして、岡山県内に私塾144、寺子屋1,032が数えられ、隣県より著しく多いと紹介している。

『我が国庶民教育と矢吹学舎』p48によると、矢吹学舎は次のように変遷している。

  1. 第一期(今寺学舎):最初のもの。今寺谷で元亀元年以来約百年間。
  2. 第二期(上寺学舎):市郎右衛門以降三代に亘る約百年。
  3. 第三期(和田学舎):市郎平並びに東作の活動した七、八十年。矢吹学舎の全盛期
  4. 第四期(白浜時代):一屏、七五三吉郎、開治等が師匠を務めた三、四十年。
(なお、白浜に移転した後も和田学舎の名を踏襲したが、一般に白浜学舎と呼ばれた。)

 教授科目としては、特にカタカナ文字、ひらがな文字、数字、十干十二支、名頭、近村名、国尽くし、備前往来、商売往来などが上がっており、生活人として必要な実学を教育する場であることが分かる。

我が国庶民教育と矢吹学舎、岡山県都窪郡妹尾尋常高等小学校・同妹尾町青年学校 郷土研究部 編集兼発行、昭和12年。
我が国庶民教育と矢吹学舎 (国立国会図書館デジタルコレクション p43-52、60コマ-65コマ)。

 庶民教育の誇れる歴史だと思うが、残念ながら火事で記録が失われ、史料としては、日本教育史資料9 巻二十四 私塾寺子屋表しかない、ということである。そのためもあって、あまり知られていないのだろうか。

 日本教育史資料:明治16(1883)年に文部省が、各府県等に提出を命じた旧幕府時代の教育に関する情報を編纂した資料。明治23(1890)~明治25(1892)年に刊行された。再販などもされているが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
 日本教育史資料9二十四巻 私塾寺子屋表(国立国会図書館デジタルコレクション p110、60コマ)。

平成28年4月13日


箕島の妙見様について

 妹尾・箕島のむかしをたづねて(第1集)p65-66に次のような記述がある。

(前略)能勢の領主であった能勢頼次(よりつぐ)が日照りで困ったとき、祈祷によって雨を降らしたので有名になり、当地、妹尾でも弘化年間(約一五〇年前)の大干ばつのため、大ききんが三年間も続き、箕島の庄屋高橋太郞左衛門が能勢の妙見から分体を勧請し、箕島を眼下に見下す暮石山に安置し、村民こぞって祈念したところ、妙見の加護により、慈雨をもたらしたとの伝説がある。

 戦後、堂守りとして着任をした十河(そごう)住職が浄財を募り、お堂の補修を行い、昭和二十八年能勢妙見法主を招き盛大な祭典を行っている(別紙)。このお堂と東隣の毘沙門堂とは箕島の名称の地として知られ、春はツツジと共に数多くの八重桜が咲き、近郊からの参詣者も多く、縁日には大変ににぎわったそうである。また、妹尾小学校の遠足には箕島の暮石山(妙見山)は必ず訪れていた。

 昭和四十年頃住職が遷化され、堂も風雨にさらされ、荒廃し、昭和四十八年国道二号線の開通後は暮石山頂付近も荒れ果て、妙見堂は、毘沙門堂と共になくなり、名勝の地も姿を消した。今は国道二号線の上に架けてある横断橋だけが無用の長物として残っている。

 妙見山荒廃に伴い、県当局の要請もあって、犬養木堂先生の筆跡を刻んだ「神如在(神、在スガ如シ)」の石碑とともに、箕島地区の有志の協力により、水利の恩人、大橋太郞左衛門の記念碑をも呑海寺・乗越の境の大覚大僧正宝塔の北隣のあたりの空き地に移転している。(引用ここまで)

 前記「妹尾・・・・」中「妙見様」と題された今本完氏の文章を引用。別紙は引用していない。また、日蓮宗と妙見との関わりの部分は割愛した。
 ネット上で読みやすくするために、管理人の判断で適宜改行を入れた。原文中のふりがなの多くは省略した。

平成28年4月7日


呑海寺

 下津井(金比羅)往来の途上にある見上げる高さの題目碑から、北に入り、少し上って右手(西の方)を見れば山の中腹に呑海寺が見える。そこからお寺を目ざして進む。右に少し下る。途中、右手に文化九壬申と刻まれた常夜燈がある。
呑海寺遠景 呑海寺常夜燈

そこから北を見ると、少し離れたところに常夜燈と題目碑がある。そこが呑海寺参道である。距離は短いが山門まで急な坂道である。牡丹が咲いていた。この石垣は臨済宗として開山したときに作られたものだという(妹尾・箕島のむかしをたづねて第2輯p139)。
呑海寺入口 呑海寺参道

 本堂と番神宮。本堂は十九世紀初期、番神堂は享和三年の建築(前記資料)。
呑海寺本堂 呑海寺番神社

 岡山市の地名p869では次のようにいう。

 日蓮宗の呑海寺は箕島村の西端にあり、貞和三年(1347)に霊岳禅師が開山し、簑島山と号した禅寺であったが、花房家が領民に日蓮宗を強制し、改宗させて如意山と改めた。改宗の強制を怒った禅僧が古器・古書類をことごとく持ち出し、散逸してしまった(備中誌)。呑海寺では開山をしのんで毎年盆の八月十六日に開山踊が行われ、霊岳禅師の供養をしている。(引用ここまで)

 霊岳禅師は、鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧侶である(インターネットサイト:コトバンク デジタル版日本人名大辞典+PLUS。サイト確認平成28年4月24日)。開祖の霊岳法穆は、お経を唱えながら地下に籠り、即身仏として亡くなったとの説もインターネット(市久会 矢坂山を語る会:サイト確認平成28年4月24日)で見たが、手元の他資料では確認できていない。

 開山踊りという盆踊りがある。最初の(禅宗としての)開山を記念するというが、日蓮宗のお寺を舞台に、禅宗のお寺の開山を記念するというのも不思議な感じがする。

 

平成28年4月24日


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