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【目次】
坂貳ツ 島打坂七町十間
火打坂 貳町三十七間
此間川壱ツ 西大寺川船渡廣サ八十間深さ
八尺満塩之時ハ二三百石ノ船入ル
坂参ツ 千手山坂五町五十間
紺ノ浦坂 三町廿間
同所坂 壱町廿間
五、牛窓港に至る六里二十八町。岡山の内町/名記せず。
門田村東照宮御宮玉井宮の下茶屋/あり。これより上り坂なり。
峠茶屋。 大池茶屋。 円山村。 倉富村この村より堤の上を通/る。沖田宮まで同断。
倉益村倉富村當村共離家の茶店所々にあり。
沖新田四番沖田宮前より、五番川内
清内橋を渡り、六番七番。
金岡村東大川端都会なり船渡しにて邑久郡へ入る
新村。 乙子村。 神崎村。 幸田村。 邑久郷村。 下阿知村。 上阿知村。 千手村當村より鹿忍(かし)村へ/出る間山阪なり。
鹿忍村牛窓村の枝、紺浦、綾浦、中浦を歴て牛窓港に至る。
倉富村この村より堤の上を通/る。沖田宮まで同断。倉益村。倉富村當村共離家の茶/店所々にあり。
とされている。
この記述では、倉富村を再度通ることになり、訳がわからなくなる。しかし、池田家文庫本では、倉益村に続く倉富村はうしろの當村と同じあつかいであり、「倉富村と倉益村の両方に離れた茶店がところどころにある」という意味になる。
調査報告7p2の表記は群書集成版と同じなので読んだとき混乱した。そのため、池田家文庫本を参照して問題が解決した。
一、貳拾壱町三拾九間 宮道通金岡新田境ヨリ登リ堤マテ
内
一四町三拾間 内七番分
一九町七間 六番分
一八町二間 五番分
司馬江漢が牛窓から岡山に行ったときの紀行文である。旅の目的は『長崎表へ画修行の為』(下記p81)である。
往路は西国街道(山陽道)を通り、天明8年9月9日藤井から岡山に来ている(下記p78)。11日に石関町を出て、三門を経由して足守を尋ねている。
牛窓から岡山へ出たのは復路である。瀬戸内海を下関(赤間が関)から大阪まで100石積みの若松船(北九州の若松の船だと理解した)に乗っている。天明9年1月20日の記事に『爰に筑前若松船は百石積みの小船、米を積み、外にのり合なし。船賃四十目、古き蒲とん壱貫にて借り(以下略)』(下記p180)とある。
風が強く、船足は速いが寒さに閉口したようだ。結局1月24日に牛窓で降りている。そのあとは岡山や足守に逗留し、陸路に切り替えている。
「江漢西遊日記」(東洋文庫462。芳賀徹、太田理恵子校注、平凡社、1986)から天明9年1月24日と25日の記事の一部を紹介する。
廿四日 天気、風あり。誠に船走る事疾(ハヤ)し。
二十四五里過て、備前の牛窓(ウシマド)と云処に懸(カケル)。家千軒ある処なり。此追手にては明日は大阪へ著と雖、余りなんぎ故に、爰にてあがる。泊屋一軒(ケン)あり、泊る。
廿五日 天気、大西風烈し。朝(午前八時)に出立して行に、寒風骨をとふす。片上へ五里、岡山へ七里、何分岡山へ行き度(たし)。三里のまわりと云ふ。さていなか路風烈しく、風を防ぎ休むべき所なし。誠に烈風骨肉を透(トヲス)とは此事なり。三里を過ぎて、奥(邑久)の郷と云ふ処にて一軒家あり。爰にて酒を買て呑、少しいきをして、夫より走りて川あり、舟にて渡る。又大きなる樋あり。漸くにして岡山石関町赤穂(アカウ)屋喜左衛門方へ行く。(以下略)
赤穂屋喜左衛門とは往路でも交流している。
( )は東洋文庫版のふりがなである。凡例によるとカタカナは原文のふりがな、ひらがなは校注に際して付したものである。牛窓の窓の字は旧字。なお、適宜改行を入れた。
官道飛脚米、貞享元年定
米 三拾石一斗八升貳合 御免帳にて牛窓村飛脚米
米 三石三斗九升五合 立米帳にて七ヶ村飛脚米
内四斗八升五合宛
鹿忍村、上阿知村、下阿知村、邑久郷村、新村、神崎村、乙子村
米 一石二升五合
鹿忍村、藤井村、東片岡村、西片岡村、飛脚米往来廿八度四ヶ村分延百十二度、但一度ニ付五合宛、正儀ヨリ小串へ渡海十五度、但一度ニ付三升宛、(撮要録)。(略)
この県道は謂わゆる南廻りなるが、北廻りとしては牛窓町を基点として長濱、本庄、笠加(古くは土佐、青畷[なわて:管理人注]、亀ヶ原を通行す)國府行幸の各村を経て、和気郡香登町にて山陽街道に接続したりしたりしが、県道路線の変更により本庄村より邑久村尾張に至り、北折して笠加村に入る。
改訂邑久郡史上巻、p82-83