牛窓往来 古記録

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【目次】

  1. 光政公御代中 備前 備中 道筋並灘道船路記
  2. 備陽国志 巻之一 官道
  3. 吉備温故秘録 巻之十七 官道下
  4. 沖新田東西之図 脚注
  5. 江漢西遊日記(抜粋)
  6. 改訂 邑久郡史 牛窓道

光政公御代中 備前 備中 道筋並灘道船路記

官道(牛窓)吉備温故全文

小道

(略)

一 勅旨村より西大寺村迄壱里廿弐町

    此内川貳ツ 中川橋長さ八間はゝ弐間深さ
          四尺満塩ニ二三十石之船入ル
          廣谷川橋長さ十四間四尺
          はゝ弐間深さ壱間二三十石之船入ル

 坂貳ツ 島打坂七町十間
      火打坂 貳町三十七間

一 西大寺より牛窓村迄三里廿六町 但シ
岡山より牛窓村迄六里廿六町

 此間川壱ツ 西大寺川船渡廣サ八十間深さ
       八尺満塩之時ハ二三百石ノ船入ル
 坂参ツ   千手山坂五町五十間
 紺ノ浦坂  三町廿間
 同所坂   壱町廿間

 池田家文庫 光政公御代中 備前 備中 道筋並灘道船路記 より抜粋、翻刻した。なお、「池田光政公伝」にも収録されている。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。上記部分は、284コマめ。


備陽国志 巻之一 官道

備陽国志の牛窓往来 城府より、牛窓湊に至る道。
岡山驛より牛窓に至る六里廿八町。
此間歴る所門田村・湊村・圓山村・倉留村・倉益村・沖新田・金岡新田・金岡村(此處船[渡]し有り)新村・乙子村・神崎村・幸田村・邑久郡下河智村・上河智村・手手渡村・鹿忍村

 左の画像は池田家文庫の「備陽国志」の様式を生かして翻字したもの。
 右は「吉備群書集成(一)、備陽国誌 官道」(p110)より引用。[ ]は管理人が補記。太字でないところは割書。また、倉留村、下河智、上河智、手手渡は、群書集成のママである。


吉備温故秘録 巻之十七 官道下

官道(牛窓)吉備温故全文

五、牛窓港に至る六里二十八町。岡山の内町/名記せず。

門田村東照宮御宮玉井宮の下茶屋/あり。これより上り坂なり。

峠茶屋。 大池茶屋。 円山村。 倉富村この村より堤の上を通/る。沖田宮まで同断。

倉益村倉富村當村共離家の茶店所々にあり。

沖新田四番沖田宮前より、五番川内
清内橋を渡り、六番七番。

金岡村東大川端都会なり船渡しにて邑久郡へ入る

新村。 乙子村。 神崎村。 幸田村。 邑久郷村。 下阿知村。 上阿知村。 千手村當村より鹿忍(かし)村へ/出る間山阪なり。

鹿忍村牛窓村の枝、紺浦、綾浦、中浦を歴て牛窓港に至る。

上段の画像は池田家文庫の「吉備温故秘録」の様式を生かして翻字したもの。
 下段は「吉備群書集成(七)、p351 吉備温故、巻之十七、官道下」(参考文献)よりの引用。改行は管理人が加えた。
 太字でない部分は割書であるが倉益村の次にある倉富村を割書に変更した。群書集成版では

倉富村この村より堤の上を通/る。沖田宮まで同断。倉益村。倉富村當村共離家の茶/店所々にあり。

とされている。
 この記述では、倉富村を再度通ることになり、訳がわからなくなる。しかし、池田家文庫本では、倉益村に続く倉富村はうしろの當村と同じあつかいであり、「倉富村と倉益村の両方に離れた茶店がところどころにある」という意味になる。
 調査報告7p2の表記は群書集成版と同じなので読んだとき混乱した。そのため、池田家文庫本を参照して問題が解決した。


沖新田東西之図 脚注

沖新田東西之図 脚注 一、貳拾貳町三拾九間 牛窓道金岡新田境ヨリ四番境迄
   内
 一 貳町五拾間 内七番分
 一 九町三拾三間 六番分
 一 拾町拾六間 五番分

一、貳拾壱町三拾九間 宮道通金岡新田境ヨリ登リ堤マテ
   内
一四町三拾間 内七番分
一九町七間 六番分
一八町二間 五番分

 沖新田東西之図は、文政元年(1818)十二月に外七番の鹿之助が、蘭術測量を以て作成したものである(同図注)。左は岡山シティミュージアムのデジタルアーカイブで公開されているものの脚注の牛窓往来、宮道部分を参考に管理人作成。


江漢西遊日記(抜粋)

 司馬江漢が牛窓から岡山に行ったときの紀行文である。旅の目的は『長崎表へ画修行の為』(下記p81)である。
 往路は西国街道(山陽道)を通り、天明8年9月9日藤井から岡山に来ている(下記p78)。11日に石関町を出て、三門を経由して足守を尋ねている。
 牛窓から岡山へ出たのは復路である。瀬戸内海を下関(赤間が関)から大阪まで100石積みの若松船(北九州の若松の船だと理解した)に乗っている。天明9年1月20日の記事に『爰に筑前若松船は百石積みの小船、米を積み、外にのり合なし。船賃四十目、古き蒲とん壱貫にて借り(以下略)』(下記p180)とある。
 風が強く、船足は速いが寒さに閉口したようだ。結局1月24日に牛窓で降りている。そのあとは岡山や足守に逗留し、陸路に切り替えている。
「江漢西遊日記」(東洋文庫462。芳賀徹、太田理恵子校注、平凡社、1986)から天明9年1月24日と25日の記事の一部を紹介する。

廿四日 天気、風あり。誠に船走る事疾(ハヤ)し。
二十四五里過て、備前の牛窓(ウシマド)と云処に懸(カケル)。家千軒ある処なり。此追手にては明日は大阪へ著と雖、余りなんぎ故に、爰にてあがる。泊屋一軒(ケン)あり、泊る。

廿五日 天気、大西風烈し。朝(午前八時)に出立して行に、寒風骨をとふす。片上へ五里、岡山へ七里、何分岡山へ行き度(たし)。三里のまわりと云ふ。さていなか路風烈しく、風を防ぎ休むべき所なし。誠に烈風骨肉を透(トヲス)とは此事なり。三里を過ぎて、奥(邑久)の郷と云ふ処にて一軒家あり。爰にて酒を買て呑、少しいきをして、夫より走りて川あり、舟にて渡る。又大きなる樋あり。漸くにして岡山石関町赤穂(アカウ)屋喜左衛門方へ行く。(以下略)

 赤穂屋喜左衛門とは往路でも交流している。
( )は東洋文庫版のふりがなである。凡例によるとカタカナは原文のふりがな、ひらがなは校注に際して付したものである。牛窓の窓の字は旧字。なお、適宜改行を入れた。


改訂 邑久郡史 牛窓道

 上道郡西大寺より邑久郡豊村に入り、太伯、大宮二ヶ村及び鹿忍町を経て牛窓町に達す。道程三里餘。本街道は岡山、牛窓間の要路なり。
 牛窓往来
 岡山より牛窓港に至る官道、六里二十八町。上道郡金岡村東大川端都会也、船渡しにて邑久郡に入る。新村、乙子村(十四町)、神崎村(十一町)、邑久郷村(十八町)、下阿知村(十八町)、上阿知村、千手村(當村より鹿忍村へ出る山道也)、鹿忍村(一里)、牛窓村(三十一町)、牛窓村の枝紺浦、綾浦、中浦を経て牛窓港に至る。(備前記、備陽国志、備陽記)

官道飛脚米、貞享元年定
 米 三拾石一斗八升貳合 御免帳にて牛窓村飛脚米
 米 三石三斗九升五合 立米帳にて七ヶ村飛脚米
  内四斗八升五合宛
   鹿忍村、上阿知村、下阿知村、邑久郷村、新村、神崎村、乙子村
 米 一石二升五合
  鹿忍村、藤井村、東片岡村、西片岡村、飛脚米往来廿八度四ヶ村分延百十二度、但一度ニ付五合宛、正儀ヨリ小串へ渡海十五度、但一度ニ付三升宛、(撮要録)。(略)

 この県道は謂わゆる南廻りなるが、北廻りとしては牛窓町を基点として長濱、本庄、笠加(古くは土佐、青畷[なわて:管理人注]、亀ヶ原を通行す)國府行幸の各村を経て、和気郡香登町にて山陽街道に接続したりしたりしが、県道路線の変更により本庄村より邑久村尾張に至り、北折して笠加村に入る。

 改訂邑久郡史上巻、p82-83

    

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