宇喜多家家中騒動

宇喜多家家中騒動

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宇喜多氏の領国支配体制

 宇喜多氏は秀家の時、備前・美作などにおいて四十七万二千石(一説に五十七万四千石)を領有した(新編物語藩史第9巻)。領国の政治は、戸川、長船、岡氏を中心とした家老級の重臣が交代で行った。

 『備前軍記』巻五、「秀家卿長臣並家中騒動の事」に執事をとる者としてあげられた者と交代の理由を拾っていくと次のようになる。

戸川平右衛門-(病気による隠居)→長船又右衛門(越中守)-(虎倉城で謀殺される)→岡平内利勝(豊前守)-(文禄の役で陣没)→戸川助七郎達安(肥後守)長船紀伊守

 原則的に前任者が病気や死亡によって執務ができなくなった時に交代している。しかし、戸川助七郎達安(肥後守)が執政を解かれ、長船紀伊守に変わった時は事情が異なるようだ。この時のことを『備前軍記』は次のようにいう。

 【文禄三年伏見の城普請の時、長船越中守が子紀伊守、岡山より登りて秀家卿の手の普請奉行せしが、関白の心に応じければ、戸川が仕置を改て、此紀伊守勤ける。】

 さらに浮田太郎右衛門中村次郎兵衛も仕置きに加わる。彼ら三人は切支丹である。『岡山藩』は彼らを官僚派=キリスト教徒とする。そして長船紀伊守は文禄検地を始める。

文禄検地

 長船紀伊守が国政を担当していた文禄三~四年(1594-1595)に、領内の総検地が行われた。『備前軍記』(同前)では、その理由を秀家の奢侈に求める。その結果領内に不満が鬱積した。この経緯を同じく『備前軍記』(同前)から引用する。

 【其上、国中静謐になりしに従ひて、秀家卿奢り相まして鷹狩猿楽を好み、鷹並鷹匠、猿楽の役者多く養ひかゝへられ、其遊興に金銀の費おびたゞし。
 是によりて備前作州播磨備中迄領国残らず新に検地を入て、家中の領分を過半取あげ、又寺社領多く止められて二十余万石を打出しける。家中其外国中難儀いはんかたなく、此事につきて、老臣以下不平の事出来、已に弓矢になるべき事などありし程也。】

 『岡山藩』では、史料として「寺領帳」が残るのみで一村ごとの検地帳の未発見などにより具体的内容は詳細でないとしている。一方検地が行われたことについては「豪円僧正履歴略記」を傍証としてあげている(豪円は天台宗の高僧。岡山での業績としては金山寺の再興がある)。

秀家の日蓮宗弾圧

 秀家は正室の病気平癒を日蓮宗僧侶に祈祷させたが効験がなかったことを怒って、日蓮宗徒の家臣に改宗を命じた。
 その頃、長船ら三人のほか明石掃部頭などの重臣が切支丹であったので、この命令を幸いとして多くの士民が切支丹に転宗した。しかし、戸川肥後守、浮田左京、岡越前守、花房志摩守(弥左衛門正成)など日蓮宗を改めない者も多かった。
 長船紀伊守を中心とする官僚派(切支丹)と武将派(日蓮宗徒)の党派争いは宗教的対立ともなった。『備前軍記』によれば、家中はみな長船、浮田、中村を憎んだ。

花房助兵衛の処分

 花房助兵衛は、この事をいさめ、そしったので秀家が立腹し、岡山下町の屋敷に閉門にし、切腹させようとした。しかし、文禄の役で戦功があり、豊臣秀吉の覚えもめでたい者だったので、処分について石田三成を介してお伺いを立てた。結局、関白預りということで助兵衛親子三人は常陸の佐竹氏に預けられた。
 これ以降家中が二派に分かれ騒がしかったが、慶長元年に秀家が五大老になり、また慶長の役も始まったので、具体的騒乱につながることはなかった。

長船紀伊守殺害・武将派の立て籠り

 慶長三年に太閤秀吉が死去し、慶長の役の終了により秀家が帰って来たので、家中の対立はより激しくなった。このままでは宇喜多家の存続も危ういと危惧した戸川、浮田(左京)、岡、花房らは相談して、長船紀伊守を毒殺した。
 それでも長船の一派である中村次郎兵衛、浮田太郎右衛門が重用され、苛政は改まらなかった。慶長四年、武将派は、長船、中村一派に取立てられた用人を殺害し、戸川肥後守ら六人が大阪へ行き、秀家に中村次郎兵衛を断罪するよう訴えた。
 秀家はかえって、そのことを怒り、訴え出た戸川肥後守を謀殺しようとした。その結果、戸川肥後守を始めとした武将派が大阪玉造屋敷に立て籠もった。立て籠もった者250余名である。『岡山藩』によると慶長五年頃の宇喜多家藩士は1400名前後である。直接的に比較できる数値ではないが、それでも藩内のかなりの者が反旗を翻したことがわかる。
 その時の様子を『備前軍記』は次のように記す。

 【其人々には戸川肥後守・浮田左京亮・岡越前守・花房志摩守・同弥左衛門・戸川玄蕃・同又左衛門・角南隼人・楢村監物・中吉与兵衛等其勢二百五十余人、雑兵までは夥しく、玉造の表裏の門を堅め討手を待ち、皆髪を切て討死を極む。】

収 束

 大谷刑部・榊原式部大輔が仲介し、慶長五年に徳川家康の指示により、戸川肥後守父子は常州(常陸)、花房志摩守は和州(大和)郡山にそれぞれ蟄居となった。浮田、岡、戸川玄蕃、角南、楢村は岡山に帰された。
 岡山の仕置きはそれまで客分として藩政などに携わらなかった明石掃部頭に指示された。

 騒動は当面収まったが、宇喜多氏は歴代の重臣を失い、その力は弱まった。さらに関ヶ原の戦いにおいても、岡、角南には従軍を許さなかった。往事の戦力から比べれば格段に落ちていたのではないか。
 一方、戸川氏、花房氏は東軍として関ヶ原戦役に参加、勲功めざましく戸川達安は島左近を討ち取ったとの伝承もある。

 関ヶ原戦役ののち戸川氏は庭瀬藩二万九千二百石の祖となり、本家は途中断絶したが、分家した戸川氏が旗本としてそれぞれ撫川・早島・帯江・妹尾・中島に知行所を置き、それぞれの領地を治めた。
現在早島に早島戸川家記念館がある (戸川氏と早島戸川家記念館)。

 花房氏も備中に八千二百二十石を領し、備中高松に知行所を設けた。両家は本家や分家の断絶などいくつかの変遷はあったが、明治までその家脈を守った。

補 足

 このページは、下記資料を参照して書いたが、『備前軍記』を第一に、次に『岡山藩』と『岡山県大百科』によった。『備前軍記』を読んでよく分からない点は、『新釈備前軍記』で確認した。

 備前軍記は、安永3年(1774)に岡山藩士 土肥経平(どひ・つねひら)によって著された。経平は岡山藩番頭(知行4200石)であり、備前軍記は隠居後の著述である(岡山県大百科)。また、当時流布していた軍記物を基礎としているようである。

 情報の取捨選択は慎重に行われているようだが、内容すべてを事実とするのは無理がある。また、反乱を起こした戸川肥後守や花房志摩守の側が正しいように受け取れる記述が随所にあるが、これも割り引いて考えなければならないと思われる。

 江戸幕府の政権下では豊臣家に殉じた宇喜多秀家は否定的に論ぜられるだろうし、現在池田家が領する地域の旧支配者というのも取扱いが難しいだろう。戸川氏や花房氏が旗本として存続していることは、さらに別の問題もあるだろう。中国でも新しい王朝が描く前王朝は、悪いところが強調される傾向がある。

【参考文献】
『岡山県大百科』 参照:岡山の往来・参考文献
『岡山藩』:日本歴史叢書、谷口澄夫、吉川弘文館、p9-12,21-23
『備前軍記』:当サイトで利用したのは吉備群書集成(三)p129-131
『新釈 備前軍記』:柴田一編著、山陽新聞、1996

 吉備群書集成については岡山の往来・参考文献を参照
国立国会図書館デジタルコレクション 備前軍記


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