** 目 次 **
この経路についてp5で、次のように説明する。
『岡山の街道』(以下「街道」)の「牛窓往来」の記述は以下の通りである。
地図を見ながら両者を比較すると、「街道」が示す道(以下「街道」とする)は、調査報告7が地図及び『もう一つの牛窓往来』として解説する道(以下「報告」)と別の道であることに気づく。
相違点を以下に列挙する。
以上のことから、『もう一つの牛窓往来』として「報告」が示す経路は「街道」とは別のものである、と判断した。
もともと「岡山の街道」は夕刊紙の連載という性格上、厳密に経路を示す資料ではない。それを歴史の道の典拠とするのは疑問があるし、検討の結果は両者は異なる道のようである。
このため「報告」が「街道」が示すとして解説し、地図に掲載した経路の出典は不明とせざるを得ない。この道がどの時代に利用されたか、誰によって管理されたかも不明のままである。
ただし、「街道」が示す小橋から旭川を下り、倉安川沿いを進む道は、「岡山県大百科」、「可知郷土史」、「沖新田開墾三百年記念史」など近年刊行された資料に「牛窓往来」として掲載されている。また、「岡山の交通」(岡山文庫47、藤沢晋著、日本文教出版、昭和47年初版)p12の図『近世の主要道路と宿駅』でも細かい経路は不明だが西大寺を経由して牛窓へ行く道が示されている。
往来や街道に関しては、一部を除いて、明確な基準がない。それぞれの土地で適宜名前をつけたり、官道とそれ以外を区別せず「××街道」と呼び習わすことが多い。
様々な基準や意図で刊行される資料を当たって、それをまとめることは容易ではない。それで、当面これ以上の探求を止め、『出典不明の道筋』とした。
以上、ある程度経路や由来を確認しやすい「官道」を歩き、現状を記録・紹介するという当サイトの目標らは外れるが、「報告」に記載された道を未踏破のままでおくのも心残りなので歩いてみた。
その結果、干拓の歴史を残すこの道にも捨てがたい何かを感じている。
国清寺が左側に見える。
新京橋が正面に見える。
新京橋をくぐって、左側の道へ下って入る。ここで旭川とはお別れ。
しばらく行くと源照寺というお寺が左側にある。
源照寺の前から1.5キロ進むと少しややこしい分岐に出会う。左写真のところを左に曲って、その先を右に曲る。
曲ったところの電信柱に「玉井宮 町内安全 祈祷」と書かれた小さな木札が下がっていた。この辺は玉井宮の氏子地域だという。
その後は桜橋のところで倉安川にぶつかるまで真っ直ぐ南下する。
昔懐かしい木の看板。薪炭、オガライト。レンタンは分るが「いの一番」というのは何だろう。
その先右側に岡山旭東郵便局がある。その先の交差点、向かい右角に派出所がある。写真左端の建物は倉庫(冷凍倉庫だと推測)。近づけば岡山日山と書いてある。
交番のある交差点で桜橋から来た道を越える。岡山日山の白い大きな建物を見ながら進むと右側に、荒神社がある。
境内の常夜燈に文化九年とあった。昭和12年7月に移転したようで、その記念碑もあった。
少し先に岡山協立保育園がある。さらに進むと、右側の公園の先で倉安川にぶつかる。ぶつかる手前右側に地蔵尊がある。桜橋地蔵尊と書かれた幕があった。
右端は舟形石碑に馬の姿を陽刻し、馬頭観音とある。その隣りは馬と牛(みたいに見える)と立像石仏。昭和十七年四月十六日と読める。その隣り水子供養の地蔵尊
五角ではあるが刻まれている文字は一般的な五神と異なる。
倉安北交差点を渡る。渡り終えてすぐ左に「となみ」と書いた白い看板がある。鉄道のプラットホームにある駅名表示である。三蟠鉄道という軽便鉄道の線路があったところである。
ここで一度倉安川から離れるが、330メートルほど進んで合流する。
「となみ」と読んで「となみ、は富山県」と指摘された(笑)。昔は右から左に書いていたのを実感。そういえば富山には昔良く行った。「砺波」のチューリップ公園にも行ったことがある。
合流点の西南角にある施設は「岡山市平井排水センター」である。そこから先は湊公会堂及び湊新橋まで倉安川沿いの道を進む。
途中、山陽学園大学・短大の建物が左に見える。猫耳をつけたタマバスにも出会った。
その先の「おさきばし」の所の交差点(右写真)、左側倉安川沿いの道が平井回りである。1月4日は通行できたが、1月17日は交通止めで迂回した。「平成29年3月31日まで河川工事を行っています」という看板があった。このあとも何カ所か工事区間があったが、通行できなかったのはこの日はここだけであった。
しばらく行くと米山橋のところ倉安川の北岸(山側)に題目碑があった。
近づくと石碑は二基あり、左側は『大覚大僧正』と刻んである。『貞治三辰』と読める日付もあったが、建立年にしては古すぎる(貞治三年=1364年、確かに辰年ではある)ので、由来か何かを記したものかとも思うが不明。
題目碑の方は髭文字の『南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 寛政八丙辰年』とある。こちらは1796年となんとなく妥当な日付ではある。ちなみに寛政八年は丙辰で良い。
西之橋、中之橋と橋が続く。倉安川のあちこちを石垣に改修している工事にも出会った。歴史遺産として有名な割にゴミがあるが、以前に比べてもきれいになったという。
しばらく行くと、右手に湊公会堂がある。その先の湊新橋から右に折れて、倉田方面に南進する。湊新橋は、橋というにはかなり広い。
常夜燈の竿石にそれぞれ「金毘羅大権現」「妙見宮」「沖田神社」「??大明神」とある。土台にはひょうたん型の石がはめ込んであった。
常夜燈の隣りに「水神」と刻んだ自然石の碑と樋管改築記念碑がある。その横の道を最初は進んだが、これでは嶽からの分岐に合流しない。
もとの道に戻り、分岐を東に進む。ここから倉富まで道なりにまっすぐ歩けば良い。
10分ほどで、右側に祠がある交差点に出る(右写真)。
倉田地蔵堂、沖新田八十八ヵ所霊場の87番札所である。
そのまま進む。左側に公園がある。さらに行くと、右側に祠がある。沖新田八十八ヵ所霊場の86番札所である。木札には創立天保二年、倉田東とある。この道の沖新田八十八ヶ所霊場はすべて倉田側(道の右側)にある。何か理由があるのか。
86番札所から先で倉富に入る。さらに5分ほど歩けば、東山峠を越え、嶽を経由して来た道と合流する。
田んぼの注連飾り。2~3回見た。
倉富の合流点へ
牛窓往来トップへ
岡山の街道を歩くへ
ページトップへ
このサイトの著作権は、作成者及び一緒に歩いた有志に属します。無断転載はご遠慮ください。リンクは自由です。