牛窓往来・平井回り

平井回りについて

小橋から旭川を南下し、平井から東進し、倉田を経由して倉富で嶽から南下して来た道と合流する道を平井回りと仮称する。

** 目 次 **

  1. 経路の検討
  2. 歩行記録


経路の検討

歴史の道調査報告7(以下「報告」の地図は、[岡山城府から東山峠を越え、嶽から倉富へ出る経路(備陽国志及び吉備温故秘録に記載されている経路)]とは別に、[小橋から旭川に沿って南下し、平井から東に向きをかえ、倉安川に沿って湊へ進み、その後倉田まで南下し、そこで再度東に向きを変えて倉富に出る道]を示している。

 この経路についてp5で、次のように説明する。

 さて、もう一つの牛窓往来は、国清寺の西側を南下し、新京橋を横切る。さらに南下し、新京橋一丁目から三丁目、旭東町を過ぎ、桜橋の町を横断し、倉安川に出る。ここから、ほぼこの倉安川に沿って山陽学園の南を東へ進む。旧湊村の西湊付近で倉安川と分かれ、南へ行くと倉田新田の堤防に出る。この南の船通立川沿いには、一八六七年(慶応三)に建立された高さ約三メートルの常夜燈がある。この堤防の上を北東方向に進み、吉原立川、原津立川、益原立川などを過ぎ、旧嶽村から来た往来と一緒になる。このルートは『岡山の街道』(岡山文庫二十五)の「牛窓往来」によるところの旧牛窓道である。

 『岡山の街道』(以下「街道」)の「牛窓往来」の記述は以下の通りである。

 岡山城下から六里二十八町といわれた牛窓往来の中、城下から西大寺までの道は旭川の川沿いに南へ下って、五軒家のあたりから東にたどる。今でこそかなりの広さもあるが、昔は一間半ぐらいの細道であったらしい。年数を感じさせる家が建っている。まもなく湊に着く。古い時代、船泊まりがあった所で“春の湊”と呼ばれ、神功皇后が船を止められたという伝えがある。湊の左手の山も伝説のある茶臼山。旧道は倉安川と呼ばれる細い用水に沿ってつづく。
(中略))倉田新田のあと、さらに造成された沖新田を望みながら操山山麓をいくと、円山。
 この辺りで東山峠を抜けて来た新しい舗装道が旧道と並行する。やがて道の左手に元禄十一年、岡山藩主池田綱政が建立した曹源寺の建物が松の木がくれに望まれる。
 江戸時代の西大寺に立ち寄らない牛窓への道は、このあたりからまた南へ下がり、新田地帯を抜けて西大寺の金岡へ向っていたという。
(以下略、太字は管理人による強調)
「岡山の街道」p42(岡山文庫25、山陽新聞社編、昭和44年)

 地図を見ながら両者を比較すると、「街道」が示す道(以下「街道」とする)は、調査報告7が地図及び『もう一つの牛窓往来』として解説する道(以下「報告」)と別の道であることに気づく。

 相違点を以下に列挙する。

  1. 「街道」の経路に倉田方面に南下する経路が出てこない
  2. 「報告」の地図では、東山峠から越えて来た道と並行することはない。
  3. 「報告」の地図及び説明では、嶽から南下するのでそのあと円山を通過することはない。
  4. 「報告」の地図の道が曹源寺まで最も近づいた地点での直線距離は約1.2キロである。この地点の標高は高いところで約2メートル、曹源寺の標高が約9メートルである(「グーグルマップで緯度・経度・標高・水深を求める」[北海道大学情報基盤センターサイト]で計算、確認:平成29年1月31日)。
     距離1.2キロ、標高差7メートルで単純な仰角は約0.4度、遠望する場合ほとんど水平に近いのではないか。さらに標高8メートルの石高神社が前にある。
     「街道」が書かれたのが昭和40年代であり、家並みは少なかったことを勘案しても、「報告」が示す牛窓往来(倉田と山崎の境界の道)から「曹源寺の建物が松の木がくれに望」むことはかなり難しいと思う。
     しかし、倉安川沿いに歩いて行けば0.4キロ弱(直線距離)まで近づき、石高神社も視野の外に出る。余裕を持って曹源時を見ることができたのではないか。
     この表現を見て、「街道」の牛窓往来はずっと倉安川に沿っている道のではないか、と思った。「沖新田東西之図」及び大日本帝国陸地測量部が明治28年に測量した二万分の一「西大寺」(岡山近傍12号)には、その道筋が示されている。
    (前記二つの資料を見ると、この道筋は幹線の一つであったように思える。しかし、備陽国志及び吉備温故秘録で示す「牛窓港への道」とは異なる)
  5. 「街道」の『江戸時代の西大寺に立ち寄らない牛窓への道は』という表現は、「街道」が示す道が、西大寺に立ち寄る道であると云っている。実際、「街道」ではこの先西大寺へ進む。

 以上のことから、『もう一つの牛窓往来』として「報告」が示す経路は「街道」とは別のものである、と判断した。
 もともと「岡山の街道」は夕刊紙の連載という性格上、厳密に経路を示す資料ではない。それを歴史の道の典拠とするのは疑問があるし、検討の結果は両者は異なる道のようである。
 このため「報告」が「街道」が示すとして解説し、地図に掲載した経路の出典は不明とせざるを得ない。この道がどの時代に利用されたか、誰によって管理されたかも不明のままである。

 ただし、「街道」が示す小橋から旭川を下り、倉安川沿いを進む道は、「岡山県大百科」、「可知郷土史」、「沖新田開墾三百年記念史」など近年刊行された資料に「牛窓往来」として掲載されている。また、「岡山の交通」(岡山文庫47、藤沢晋著、日本文教出版、昭和47年初版)p12の図『近世の主要道路と宿駅』でも細かい経路は不明だが西大寺を経由して牛窓へ行く道が示されている。

 往来や街道に関しては、一部を除いて、明確な基準がない。それぞれの土地で適宜名前をつけたり、官道とそれ以外を区別せず「××街道」と呼び習わすことが多い。
 様々な基準や意図で刊行される資料を当たって、それをまとめることは容易ではない。それで、当面これ以上の探求を止め、『出典不明の道筋』とした。

 まったくの推測であるが、平井から円山方面に延びる道筋は高瀬船が通行する倉安川の側道としてできたのではないか。また、小橋から平井への道筋が重要性を増したのは、旭川を下って四国へ行く航路などとも関連があったようにも思う。
 江戸時代に話を戻し、吉備温故を紐解けば、当時の牛窓の規模は西大寺をはるかにしのぐ。岡山から西大寺を経由して、牛窓へ行く道の重要性が増したのは、牛窓の相対的な地位が下がった明治以降ではないか。

  明治頃に確立した道かとも思って「官許 岡山県市中畧図」(明治8年作:岡山デジタル大百科、岡山県立図書館郷土情報ネットワークで閲覧可能)を見たが東山へ向う道に『西大寺道』と書かれており、旭川を下る道には特に何も書いていない。

 以上、ある程度経路や由来を確認しやすい「官道」を歩き、現状を記録・紹介するという当サイトの目標らは外れるが、「報告」に記載された道を未踏破のままでおくのも心残りなので歩いてみた。
 その結果、干拓の歴史を残すこの道にも捨てがたい何かを感じている。


歩行記録

 歩行日 単独:平成29年1月4日(金)有志会:平成29年1月17日
  距離 約4.0キロ
  ※ 1月4日にとった写真を中心として、一部17日にとったものも利用している

南廻り 小橋を渡ったところで右折。南に向って旭川沿いを歩く。
小橋

 国清寺が左側に見える。
国清寺

 新京橋が正面に見える。
新京橋

 新京橋をくぐって、左側の道へ下って入る。ここで旭川とはお別れ。
新京橋

 単独で歩いたとき、ここで一度道を間違えて土手沿いかなり南まで歩いてしまった。景色は良かった。今の旭川の土手は中島(中州)の土手より高いことを発見。この土手は土木技術が高くなった近代以降にできたから高くできたのではないか、と思う。
中島

 しばらく行くと源照寺というお寺が左側にある。

源照寺 松の内だからかきれいな旗が揚がっている。ウィキペディアで調べると仏教を象徴する仏旗というものらしい(サイト確認:平成29年1月11日)。

 源照寺の前から1.5キロ進むと少しややこしい分岐に出会う。左写真のところを左に曲って、その先を右に曲る。
新京橋の分岐 新京橋の分岐

 曲ったところの電信柱に「玉井宮 町内安全 祈祷」と書かれた小さな木札が下がっていた。この辺は玉井宮の氏子地域だという。
 その後は桜橋のところで倉安川にぶつかるまで真っ直ぐ南下する。

 昔懐かしい木の看板。薪炭、オガライト。レンタンは分るが「いの一番」というのは何だろう。
 その先右側に岡山旭東郵便局がある。その先の交差点、向かい右角に派出所がある。写真左端の建物は倉庫(冷凍倉庫だと推測)。近づけば岡山日山と書いてある。
岡崎商店の看板 岡山旭東郵便局

 交番のある交差点で桜橋から来た道を越える。岡山日山の白い大きな建物を見ながら進むと右側に、荒神社がある。
 境内の常夜燈に文化九年とあった。昭和12年7月に移転したようで、その記念碑もあった。
桜橋の荒神社 桜橋の荒神社

 少し先に岡山協立保育園がある。さらに進むと、右側の公園の先で倉安川にぶつかる。ぶつかる手前右側に地蔵尊がある。桜橋地蔵尊と書かれた幕があった。
桜橋の荒神社 桜橋地蔵尊

 右端は舟形石碑に馬の姿を陽刻し、馬頭観音とある。その隣りは馬と牛(みたいに見える)と立像石仏。昭和十七年四月十六日と読める。その隣り水子供養の地蔵尊
桜橋地蔵尊 桜橋地蔵尊

 その先は倉安川沿いに県道45号線の倉安北交差点まで進む。ここから斜めに入る道が平井回りである。
 倉安北交差点の横断歩道の西側(倉安川側)にある車庫のようなものの前に「紀元二千六百年記念」と刻まれた石柱と地神塔がある。石柱には穴があいているので、幟などを立てるものだと思う。
倉安北交差点 平井の地神塔

 五角ではあるが刻まれている文字は一般的な五神と異なる。

平井の地神塔  [妙地水二神」は普通に読める。その右面「法十方佛土中」は、インターネットサイト8000000などを参考に推測した。その他はお手上げ。上の一字をつなげれば「妙法蓮華経」になると思うので、それを手がかりに推測したのだが。とにかく法華関係の地神塔であるようだ。

南廻り

 倉安北交差点を渡る。渡り終えてすぐ左に「となみ」と書いた白い看板がある。鉄道のプラットホームにある駅名表示である。三蟠鉄道という軽便鉄道の線路があったところである。
 ここで一度倉安川から離れるが、330メートルほど進んで合流する。
軽便鉄道看板 平井

【おまけ】
 この分岐より少し南、倉安交差点右に軽便鉄道の道床跡がある。
軽便鉄道道床

「となみ」と読んで「となみ、は富山県」と指摘された(笑)。昔は右から左に書いていたのを実感。そういえば富山には昔良く行った。「砺波」のチューリップ公園にも行ったことがある。

 合流点の西南角にある施設は「岡山市平井排水センター」である。そこから先は湊公会堂及び湊新橋まで倉安川沿いの道を進む。
 途中、山陽学園大学・短大の建物が左に見える。猫耳をつけたタマバスにも出会った。
 その先の「おさきばし」の所の交差点(右写真)、左側倉安川沿いの道が平井回りである。1月4日は通行できたが、1月17日は交通止めで迂回した。「平成29年3月31日まで河川工事を行っています」という看板があった。このあとも何カ所か工事区間があったが、通行できなかったのはこの日はここだけであった。
山陽学園大学・短大 おさきばしの分岐

 しばらく行くと米山橋のところ倉安川の北岸(山側)に題目碑があった。
近づくと石碑は二基あり、左側は『大覚大僧正』と刻んである。『貞治三辰』と読める日付もあったが、建立年にしては古すぎる(貞治三年=1364年、確かに辰年ではある)ので、由来か何かを記したものかとも思うが不明。
 題目碑の方は髭文字の『南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 寛政八丙辰年』とある。こちらは1796年となんとなく妥当な日付ではある。ちなみに寛政八年は丙辰で良い。
米山橋の題目碑 米山橋の題目碑

 西之橋、中之橋と橋が続く。倉安川のあちこちを石垣に改修している工事にも出会った。歴史遺産として有名な割にゴミがあるが、以前に比べてもきれいになったという。
 しばらく行くと、右手に湊公会堂がある。その先の湊新橋から右に折れて、倉田方面に南進する。湊新橋は、橋というにはかなり広い。
湊新橋の分岐 湊新橋の分岐

 ここから湊と倉田の境界まで約220メートルまっすぐ南下する。
 平井回りの道は、倉田の常夜燈の一つ手前の交差点で左折する道である。この道は、湊と倉田の境界である
倉田への道 新京橋の分岐

【道の検討】
 調査報告7の地図で確認すると、平井回りは倉田の常夜燈の一筋北側の道を東進している。この道は、湊と倉田の境界であり、倉田新田ができるまで、海岸線(=土手)であったと推測できる。しかし、常夜燈の解説に気をとられたのと、『倉田新田の堤防に出る』という記述を誤解し、まちがえて一度常夜燈の南の道を倉富まで行った。しかし、倉富で嶽から降りてきた道と合流することなく、百間川西岸(沖新田八八箇所霊場の83番のところ)に出てしまった。嶽からの道との合流点に行き、そこから逆に歩いて、正しい分岐点を確認した。この時、この区間を1.5往復し、昼過ぎに家を出たこともあって最後はまっ暗になった。夕方の写真が混ざっているのはそのためである。

寄り道

 分岐点から船通立川沿いに70メートルほど進むと、水路沿いに大きな常夜燈がある。高さは3メートルで慶応3年(1867)に建立された。
 右写真は、南から北に向いて撮った。常夜燈の目の前の用水は船通立川の名で示すように小船がここまで上がってきていた。その船のための常夜燈であった(沖新田開墾三百年記念史地図では川灯台とされている。ページ付けはないが、500-501p)。
倉田の常夜燈 倉田の常夜燈

常夜燈の竿石にそれぞれ「金毘羅大権現」「妙見宮」「沖田神社」「??大明神」とある。土台にはひょうたん型の石がはめ込んであった。
 常夜燈の隣りに「水神」と刻んだ自然石の碑と樋管改築記念碑がある。その横の道を最初は進んだが、これでは嶽からの分岐に合流しない。
倉田の常夜燈 倉田の水神


 もとの道に戻り、分岐を東に進む。ここから倉富まで道なりにまっすぐ歩けば良い。
 10分ほどで、右側に祠がある交差点に出る(右写真)。
倉田の道 倉田の道

 倉田地蔵堂、沖新田八十八ヵ所霊場の87番札所である。
沖新田八十八ヵ所霊場の87番札所 沖新田八十八ヵ所霊場の87番札所

 そのまま進む。左側に公園がある。さらに行くと、右側に祠がある。沖新田八十八ヵ所霊場の86番札所である。木札には創立天保二年、倉田東とある。この道の沖新田八十八ヶ所霊場はすべて倉田側(道の右側)にある。何か理由があるのか。
沖新田八十八ヵ所霊場の86番札所 沖新田八十八ヵ所霊場の86番札所

 86番札所から先で倉富に入る。さらに5分ほど歩けば、東山峠を越え、嶽を経由して来た道と合流する。
合流点


おまけ

 まちがって倉田の常夜燈の南側の用水沿いの道を歩いたとき見たもの。
左は題目碑と大覚大僧正碑。右は小さな祠、たしか木野山さまだったと思う。
倉田の題目碑 祠-木野山神社

 田んぼの注連飾り。2~3回見た。
注連飾り


倉富の合流点
牛窓往来トップ
岡山の街道を歩く
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