牛窓往来2・嶽交差点から金岡(吉井川西岸)まで

牛窓往来2・嶽交差点から金岡(吉井川西岸)まで

歩行日 平成28年10月07日(金)距離 約7.4キロ


2-1 嶽交差点から堀替橋西詰(百間川)まで

  距離 約2.3キロ
牛窓往来

 掲載内容は点検をしていますが、まちがいの可能性もあります。情報の利用にはご注意ください。


 嶽交差点で岡山牛窓線(28号線)を横切り、その後はまっすぐ進む。180メートルほど進んだところで、倉安川に出会う。
 倉安川は延宝七年に着工された用水で、旭川下流と吉井川中流をつないだ。干拓地に水を供給しただけでなく高瀬船の通路ともなった。現在は百間川を中心に二つの水系になっている。
倉安川 倉安川

 倉安川を渡った左側に題目碑がある。

題目碑 中央に大覚大僧正と刻まれた石碑。右側に題目碑。髭文字で「南無妙法蓮華経」下に「日蓮大士」とある。左端のは常夜燈のようにも思えるが、よく分からない。


【平井回りと合流】
 元の道にもどってそのまま直進。T字路にぶつかって左折。このT字路の右から来た道は、小橋から南下し、岡山市中区平井の倉安川北信号から東に曲がってここに至る。調査報告7p2では、もう一つの牛窓往来としている。このサイトでは「平井回り」としている。(参照:平井回り
山崎の分岐

ここから1.8キロ先の百間川西岸まで一本道である。この道の南側は倉田新田で、往来はそれ以前の海岸線だった。

山崎の道   左写真の〇は、ブロック造の祠(横壁に政党の大きなポスターが貼ってあった)である。この先同じような祠をいくつか見た。
 沖新田八十八ヶ所の86番だと推測し、近所の方に尋ねたが確認できなかった。インターネットで確認したが、しばらくしてそのサイトは検索できなくなった。
 後日、平井を経由して東進する平井回りの途上で86番と書いた扇方の木札のある大師堂に出会った。ここは番外か。この辺から邑久郡にかけて大師堂は非常に多い。八十八箇所と直接関係のないお堂や祠もあると思われる。ここもその一つかも知れない。

沖新田八十八ヵ所86番 沖新田八十八ヵ所86番

 沖新田八十八ヶ所について、下記枠の通り書いたが、平井回りを含めた牛窓往来の経路で確認できたものと資料とをきちんと検討した結果、資料に記載されたものも含めて、錯綜していることに気づいた。今後機会があれば修正するが、沖新田八十八ヶ所の個々の札所については、間違いがあるかも知れないことをお含みください。
【問題点】
  1. 倉田から倉富までの経路(倉田の常夜燈からの道。倉富で円山からの道と合流する。平井回りと仮称している)の途中で、87番、86番と札番号のある祠があった。つまり、合流点から西である。しかし、下記参考(1)、(2)とも86番は円山からの道の合流点より東に印がある。
  2. 参考(1)の写真と実際とが異なるものがある。他の位置の祠の写真と思われるものがあるので、建て替えられたわけではなさそうである。
  3. 参考(2)で番外となっている位置にある祠に86番の木札があり、86番の位置ある祠には何の札もない。
  4. 合流点から西は、西に(旭川方面に)向いている。百間川方面に向いているのは合流点から左である。どのような経路を想定しているか分からない。
 今後確認し、以下の記述を変更したい。ただし、実際に確認することが必要であり、かなり時間を要すると思われる。(注記日:平成29年1月17日)

 沖新田八十八ヶ所は旭川西岸から吉井川東岸まで広がる霊場巡りである。名前の通り、沖新田を中心に展開するが、倉田新田区域にもあるようだ。
 アジア・太平洋戦争後衰退し、順路も定かでなくなっていたが、平成五年に「沖新田八十八ヶ所獨案内」という絵図の版木が発見され、それをもとに再調査された(下記 参考(1)p397)。なお、操南公民館で地図をもらえる。
 この先いくつか出会ったが、八十三番から八十番までは百間川方面からの遍路を想定している感じで、入口がそちらを向いていることが多く、また倉庫みたいに見えるものもあって見落としやすい。番号順に回れば分かり易いと思うが、あいにく逆に進む。

参考(1)沖新田開墾三百年記念史、沖新田開墾三百年奉賛会記念史編集委員会、平成7年。地図と「八十八ヵ所写真集」がある。
  (2)沖新田四国88ヶ所霊場巡礼 ルートラボ。サイト確認:平成28年12月13日。
  (3)沖新田八十八ヵ所案内図 平成5.7調 (操南公民館)

 沖新田八十八ヵ所霊場の同定などは上記3点の資料をもとにした。

 用水沿いを西に進む。調査報告7p5にある天保七年の供養塔を探したが分からなかった。

 さきほどのT字路(86番のところ)から40メートルほど進んだところの青緑(?)のかまぼこ型屋根の二階建てがある交差点の少し先に85番札所がある。
 黒く焼いた板壁の家の先にコンクリート製の祠(小屋にみえる)がある。東向き(百間川の方)に進むと手前の家の影に隠れているので見落としやすい。
 左写真は振り返って撮ったもの。
建物の前道路側に指矢印の遍路道標がある。指矢印は北を指している。文字は「八十□番」と読めた。
 側面はほとんど読めなかったが、文久二年三月となんとなく推測した。正しいかどうかまったく分からない。
85番札所 85番の遍路道標

 その先右手に倉益歯科、左手に庄医院(内科小児科)、その先右手に庄整形外科、左手にザグザグ薬局山崎店がある。

 その先右手の背の低い生け垣越しにコンクリート製の祠が見える。

番外1 最初は84番だと考えたが、このあと84番の札が下がったお堂があったので番外と考えることにした。ただし、前記写真集の84番は、このお堂にそっくりだ。

 その先に進むと信号交差点がある。往来は直進だが右に曲がり40メートルほど進むと、用水(※)と交差する西側に、五角柱(ショウ儀型)の地神塔がある。交差点の対角に倉益公民館がある。
 前の石柱に明治三十□□九月とあるが、地神塔自体はもっと前のものではないか。
 干拓がいちおうの完成を見たとき地神を祀る儀式をする、という記録を興除新田記で見た記憶がある。ショウ儀型の地神塔の性格が何となく推測できる。
記名されている神は天照大神など一般的なものだが、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の『魂』の字の左の『云』が上にある。類似の表記はこの先、川内でも見た。
地神塔倉益 地神塔倉益

※ この用水は、平井回りの往来のひとつ南の筋に沿って舟通立川の常夜燈(岡山市中区倉田)のところからずっと続き、正一位天満宮の横を流れ、さらに83番の横を流れる。なんとなく言われがありそうだが、情報がない。
 沖田神社の前から清安橋で百間川を渡るようになってから、利用が多くなった用水路沿いの道ではないかと推測している。

 そこから数分歩くと、右手の民家のあいだに題目碑がある。「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」「天保三壬辰年 倉益村宗門中」と刻んである。後ろに八十八ヵ所霊場の84番があることを考えると、奇妙な気がする。集めただけだろうか。それとも隣接しても気にしない?
題目碑倉益 題目碑倉益

 題目碑の背面にある倉庫のような建物が沖新田八十八ヶ所霊場の84番である。ここも鍵がかかっていたが扉の硝子越しに写真を撮らせてもらった。
84番札所 84番札所中

 次の交差点、右の向かい角にゴミ置き場がある。往来は直進だが、分岐する用水と道に従って60メートルほど進むと正一位天満宮がある。
 鳥居には天保十二辛丑□秋建立とある(□は読めなかった文字)。
 正一位天満宮というのは神社名としては変わっているが、巡視に来た『一品親王(中御門天皇の第一子)』が「正一位」を授けたという(沖新田開墾三百年記念史p388-389に説明がある)。
 一品(いっぽん)親王というのは、位階の名称で固有名詞ではなさそうである(Wikipediaで平成28年12月29日確認)。また中御門天皇の第一子は桜町天皇のようだが(同前)、この辺はまったく知識がない。
 横に牛神の祠がある。中が写るようにフラッシュを焚いたせいか白っぽいが、灰色の石の祠である。祠の中に五角に見える石柱がある。正面に「牛神」右面「寛政十二庚申年」左面「六月廿三日祭之」(廿の下棒が見えない)と刻んでいるように見える。中には牛の焼き物(備前焼き?)がいくつか置かれている。
正一位天満宮 正一位天満宮の牛神

 元の道に戻って進む。正一位天満宮への分岐から170メートルほど進んだところ、右に分岐する道がある(左写真)。
 調査報告7の地図では往来は直進である。右に分岐する道は、沖田神社前まで南下する道である。
百間川手前 百間川手前

 道を30メートルほど進むと、用水沿いの道の曲がり角に沖新田八十八ヶ所札所の83番がある。この用水は倉田の常夜燈のところからずっと続いてきたものだ。

 平成28年10月07日は、調査報告7の地図の通り歩いた。その後の調査で、吉備温故秘録の牛窓往来に関する記述が、異なる経路を示している可能性が出てきた。その場合、右折し、沖田神社まで百間川沿いを南下し、清内橋を渡る。その道筋については[清内橋回り]として記述する(清内橋回りは作業中)。
 ここでは、調査報告7の地図の通り歩いた記録を示す。この経路は[牛窓往来(備陽国志)]としている。

 札所の祠の横に、大小二柱の遍路道標がある。

83番札所 83番道標

 大きい道標の正面(百間川に向いた方)には座像の石仏の下に「沖新田八十八ケ所霊處凡十四里 嘉永七年甲寅四月」などと読める。右側面には「直」という文字をまん中にして、「一宮 三里」「岡山」と読める文字があるので、位置関係を記していると思うが詳細は不明である。
 小さい遍路道標には、指矢印があり、85番で見たものと同じ大きさ、形式である。遍路道標として次の札所を指示していると思えるが、立っている祠のことを示しているようにも思える。これも詳細は不明。

 もとの道にもどって進む。左側水門が見えるところ(その先は陸閘のようなコンクリートの土留めが見えるが縦溝がないので、かっての百間川の堤だったのだろう)の手前に祠がある。これも札所とは別だろう。
 立像の石仏に彩色されている。彩色された石仏はこの先でも見た。
百間川手前の祠 百間川手前の祠

 現在の百間川の土手まで一面の水田が広がる。「沖新田東西之図」では、改修される前、現在の百間川は上流で二筋に分かれ、西側は宮川、東側は砂川を合わせて五間川と呼ばれていた。
 ここまでの道の左右もかってはこのような景色だったのだろう。
 堀替橋で百間川を越える。
百間川手前の道 堀替橋

 河原にも祠があり、石仏が安置されている。
百間川原の祠


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