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歩行日 平成28年10月07日(金)距離 約4.0キロ
「歴史の道調査報告第7集」(以下「調査報告7」)では、牛窓往来の説明を京橋から始める(p4)。
吉備温故では、『牛窓港に至る六里二十八町』で「岡山の内町名記せず」とする。
参考:吉備温故秘録 牛窓港に至る六里二十八町
しかし、庭瀬往来、津山往来など他の官道では、栄町を出発点と明記しており、また栄町に関する記述でも、「此橋より諸方への行程を定む。」としている。(巻之十二、城府、七、栄町(栄町について)。
以上のことから牛窓往来についても栄町千阿弥橋跡(現在の表町2丁目と3丁目の境界)とする。
この日は京橋に集合したので、本当は千阿弥橋跡(旧栄町)まで戻るべきであった。しかし、往来歩きも最初の西国街道(山陽道)西進から数えて3年以上がたつ(参考:街道歩きの旅)。
横着になって、今回は、千阿弥橋跡までもどらず、そのまま東に向けて歩き始めた。千阿弥橋跡に何もないのに比して、京橋には里程元票がある。この差は大きい。
記録をまとめる段になって反省し、千阿弥橋跡(旧栄町)から京橋西詰まで、管理人一人で11月15日に歩いた。
(京橋から出発するときは、ここをクリック)
東西に伸びる道は、かっては堀であった。東に目をやれば電車道りを越えてかって大手門があった方向まで見通せる。
下の写真は天満屋方面を背にして、西大寺町を向いたときのものである。遠くに時計台が見える。目の前左側は「古今東西」という骨董屋さん(平成28年11月15日現在)。右側の「林薬局」(調査報告6p62で目印として紹介している)は、シャッターが閉まったままである。写真に写ってないが、天満屋方面の角の西にチャコット(Chacatt)岡山店、東にGalley & caffeがある。
江戸時代の栄町は岡山城下町の行政の中心であり、町会所、札場(藩札と貨幣を交換する)、本陣や鐘撞き堂があった。(岡山の町人p11、片山新助著、岡山文庫117、日本文教出版、1985。吉備温故が記す栄町の記事を見る)。
栄町の南に続く西大寺町(問屋、両替商、銭屋)、紙屋町、北に続く下之町から上之町までも繁栄した町筋であった。しかし、現在はほとんど何もない。この一帯は昭和20年6月29日の岡山空襲で灰燼に帰した。往事を偲ぶものは、いくつかの町名碑、「桃太郎ポケットの鐘撞堂の模型」と「乱投狐」の説明板くらいしかない。ただし、どちらも栄町から北にあるので、牛窓往来としては見ることはない。
(参考:鐘撞堂について、乱投狐について。)
アーケードの東側出口。京橋方面から来た電車が北向きに方向を変える(左写真)。
出口右側は工事中。岡山市民会館が千日前に決まったので、この辺も変わって行くだろう。西大寺町商店街アーケードの入口手前左にある西大寺町などの由来を書いた説明板(右写真)、その横の早水藤左衛門(赤穂浪士)の説明板。早水藤左衛門は西大寺町に生れ、赤穂藩早水家の養子になったという。左の白い方は前からあるが、右の方は最近できたような気がする。
宇喜多秀家が城下町作りの一環として、西大寺の門前から有利な条件で商人を呼び寄せ、西大寺町の名をつけたことや、赤穂浪士 早水藤左衛門のことや備前太鼓歌で有名な「今屋の火事」のことなどが書いてある。
この後は、電車通りを京橋まで行く。この辺は岡山城の外堀の内であった(くらべてみよう江戸時代と現在のまち、他)。
京橋西詰には道路に関する二つの大事な標識がある。明治初年の里程元標(左写真)と大正時代の道路元標(右写真)である(道路元標について)。
他にも大正時代に建てられた迷子石や旧橋本町の町名碑、25歳でなくなった自由律の俳人住宅 顕信(すみたく けんしん)の歌碑もある。
京橋の紹介は[おかやま京橋散策](岡山シティミュージアムデジタルアーカイブ:サイト確認平成28年10月9日)が充実している。
小橋からは岡山城が遠望できる。江戸時代は、京橋からずっと見えていたと思う。小橋を渡り終えると、もう一つの牛窓往来が旭川沿いに南下する。このサイトでは「平井回り」と仮称している。(平井回りへ)
備陽国誌と吉備温故秘録が示す牛窓往来は、東山までの電車軌道と同じである。しばらく行くと、軌道がほぼ直角に右に曲がる。曲がる手前に吉備団子の店が2軒並ぶ。どちらも広栄堂である。
管理人はどちらがどうか区別がつかない。手前の広栄堂武田の店内には、石柱がある。石柱には「吉備団子」という文字と「武田浅次郎」の名前が見える。T氏によると、この石柱は空襲で焼けた東山東照宮の鳥居の柱だという。その気で見ると、岡山空襲(昭和20年6月29日)の遺跡は市の中心部のあちこちにある。
その先電車の軌道に沿って右に曲がる。正面に旭東小学校が見える(左写真)。小学校前で大雲寺交差点から伸びて来て新京橋を渡って来た国道250線に合流する。門田屋敷交差点である。この南東にかっては東湖園があった。
左折。大きな歩道橋がある。東山電停方面に進む。右写真は、歩道橋から、東山電停方面を見たもの。
「この道は正保2年(1645)に、東照宮(東山東照宮とする:管理人)を造営したときに設けられたもので、新道と呼ばれた。」(絵図で歩く岡山城下町p63)
電車の軌道に沿って進む。門田屋敷の電停を過ぎると左手に岡山博愛会門田屋敷クリニックがある。建物の前には、石井十次の胸像が立つ。
「石井十次の生涯と思想」(柴田善守著、石井記念愛善園、昭和53年)に、掲載されている写真(※)の胸像によく似ている。ここが孤児院の事務所だったところかも知れない。岡山孤児院は三友寺から始まった。
(※「石井十次氏の胸像を囲んで 岡山三友寺の西隣の元孤児院事務所の跡にあった石井十次氏の胸像と関係者たち。」という説明を付されて掲載されている。頁付けはない)。
そのすぐ先の左側に三友寺がある。池田光政の移封に伴い鳥取から移転した。最初は古京町にあったが、寛文年間の水害で移転した(絵図で歩く岡山城下町p63)。
その先、門田屋敷と東山の境界辺に歩道橋がある。その手前、小川(用水?)を渡る手前に地蔵尊がある。
さらに行くと、岡電・東山線の終点、東山電停がある。その先で線路は二つに分かれ、電車は車庫に入る。北側は単なる車庫、南側は整備工場のようだ。整備工場へ入っていく線路の手前に『おかでんミュージアム』がある。牛窓往来は整備工場の先(東)、公園の階段前で右(南)に入る。
岡電の整備工場の裏側と石垣のあいだを進む。130メートルほど進むと石垣が終わって変則的な交差点に出る。少し悩むが、白い塀に沿って、南に進む。
住宅のあいだを100メートルほど進むと、岡山大学附属小学校の校地の東端にぶつかる(左写真)。校地(運動場?)に沿って50メートルほど進み、校地から離れながら坂を上り始める。
坂道の左側に常夜燈が見える(右写真)。
坂を上り常夜燈に近づくと、地蔵尊などの石碑群である。一部は道路を背にしている。(右写真は、左写真で背を向けている石仏を前から撮ったもの)
大きな常夜燈二基。台石には、それぞれ「大阪 吉田屋利兵衛」(左)、「御野郡 野崎又□(六?)」(右)と刻んである。御野郡に野崎家という旧家があるようだが、関連は不明。また、石仏が道路に背を向けているのも不思議だ。右端の小さな祠にも「山陽新報社」「大阪天満」などの文字が読める。左端には「馬頭明王」(明が朋に見える)と刻まれた石があり、側面に「天文壬寅十月」と刻んである。由来などは不明。宿題。
その先、道は三方に分かれる。牛窓往来はまん中の道だが、分岐の手前左に「権現坂」の石碑があり、玉井宮・東照宮へ向う階段がある。東照宮へ向うので権現坂というのか。
拝殿の扉が開いていて、中から誰かがこちらを見ているように感じた。よく見ると、猿の置物(人間くらいの大きさ)だった。今年の干支である。来年は、鳥が置かれるのだろうか。拝殿の奥の方に干支の置物らしいものがいくつか見えた。
境内にはさざれ石や昭和20年の岡山空襲で破損した玉井宮の鳥居などがある。この鳥居は安永4年(1775)に建てられたものである。鳥居の残骸には空襲の被害について刻んである。なお、社殿は焼失を免れた。
元の道に戻って分岐のまん中の道を進む。この辺は門田文化町二丁目である。坂を上る途中左側に小さな地蔵尊がある(左写真)。由来は不明。
上り坂が続く。途中左手に弊立山公園への分岐がある。赤いレンガの家の方へ進む。
その先右側(山手)に明治九年に東山峠の道を改修した時に建てられた記念碑がある。碑文には「此ノ工ヤ土質堅牢ニシテ、且ツ許多(きょた)ノ巌石アリ、刻開高艱難」とある(調査報告第7集p2。カッコ内の読み仮名は管理人)。三ヶ所の坂道を一丈余り(3メートル強)切り下げたようだ(同前)。
その先家の間をさらに上る。すぐに上りの頂点に達し、下り始める。
国際ホテル方面から下りて来た道に合流する(左写真)。歩道を進んでいると、県道岡山牛窓線(28号線)と出会う手前、歩道と車道のあいだに祠がある。なかに地蔵尊と常夜燈がある。地蔵尊のお顔は風化のためか表情が分からない。台座に「法界萬霊」と書いてある(霊は前にある箱に隠れているので推測)。
ゆるやかに下り始めて少ししたところ左手へ分岐する道のところに「瑞光山 仏心寺 入口」の案内が取り付けられている。直進。
さらに行くと変則的な分岐に出会う。
お城のような塀の中に入ると山門と妙見宮が見える。妙見宮の鳥居には「文政五壬午三月」の文字が見える。
本堂の藁葺き屋根は覆いがしてあった。右は横の日本庭園から本堂を見た写真。仏心寺は池田家と関係が深いお寺である。仏心寺については、同寺のホームページを参照下さい(サイト確認:平成28年12月13日)。
元の道にもどって変則的な分岐から降りていく。途中、交差する道がある。これも変則的(左写真の左側に白く見える土留めの後ろにも道がある)なので悩むが、右側の一階が白い壁、二階が木壁、大きな木のある家(左写真正面)に沿って進む。
下りながら、県道岡山牛窓線(28号線)に近づき、並行する。右下に池の内大池の東端が見える。
後日横の階段を上ってみた(平成28年12月11日)。人間禅道場を目ざして上り、そこから山道を登れば、旗振台古墳へ着く。かなり昔、操山公園里山センター側から上ったことを思い出した。
「旗振台古墳」の名前も『旗振通信』から来ると思うが、それに関しての説明板などは見ることはできなかった。
旗振通信は大阪堂島の米相場を、西日本各地の帳合浜(後の米穀取引所)に知らせることが目的で、各地を経由して下関まで連絡していた。堂島から岡山まで15分(一説に40分)で米相場が到着したという。(岡山の電信電話 岡山文庫61、萩野秀著、昭和50年。p14-15)。
現在は旗振台古墳の周辺は樹木が伸びて、見晴らしは良くない。
池の内信号からの道と合流し、その道の延長線を進む。家のあいだを進みながら、県道からゆっくり離れていく。数分歩くと左側に上へ向う階段と題目碑がある。
さらに数分歩くと、右へ分岐する道がある。ここを右折。嶽交差点へ向う。円山郵便局が右向かいにある。
嶽交差点で県道岡山牛窓線(28号線)を越える。
【参考】
遊歩道てくてくロード(岡山市) 操山ルートの地図のなかに牛窓往来の経路が記載されている。(サイト確認:平成28年12月21)
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