歩行日 平成28年10月07日(金)距離 約7.4キロ
距離 約5.1キロ
砂川を渡るときは甚兵衛橋まで行ったあと、砂川橋まで戻る=10月の行程で計算、また君津バイパスを通過するときの距離は右折しB-1トンネルをくぐる=12月の行程で計算。
掲載内容は点検をしていますが、まちがいの可能性もあります。情報の利用にはご注意ください。
渡り終えると直進(左写真)。
土手道を過ぎて、次の左の分岐の少し先に祠が見える(右写真)。八十八ヶ所霊場82番の奥の院か)。
祠の中には座像の石仏。台座には「牛馬安」と見える。下は「全」だろう。
祠の横には二体の石仏。一体は錫杖を持つ舟形立像。文字は「未七月」とだけ読めた。もう一体は座像。
土手のような一本道を歩く。左側に題目碑が見える。まん中に「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」台座は「文政十三□ 廿三日 庚寅」と読めた。
題目碑から4~5分歩くと左側に「(ショウ儀型)地神塔」「小さな祠(牛神)」「八十八ヵ所霊場82番」が並ぶ。
左端の「地神塔」。ここでも「倉稲魂命」の「魂」の「云」が上にある。同じ人が作ったのか。
まん中の小さな祠。後ろの自然石に「牛神」という字が見える。
右端は、沖新田八十八ヵ所の82番だ。その左側にある遍路道標の指矢印は左(西)を指し示している。文字は「八十二番と三十六」のように見える。他に距離を表わすような丁の字に見えるものもあるが、その札所の番号(八十二番の札所では八十二番)を書いて、他に何かを付け足すように思えるが、仕組みがよく分からない。
その先2~3分で交差点。右へ行くと惣九橋を渡って砂川を越える。その先は国道2号線である。
交差点左手前に八十一番札所(右写真)がある。
その先進むと、「浜之内安心安全の家」がある。公会堂みたいにも見える。
その先で、土手から下りて来た道と合流、それから左に曲がる道と土手にまた上る道に分かれる。往来は左に曲がる道(左写真)。
曲がったあと280メートルほど進むと、道は右に大きく曲がる。
管理棟と水門の前を通る(左写真)。横に番号が書いてあって「121」。その先すぐに次の水門がある(右写真)。この番号は「122」。
本来は水路の南岸をこのまま進むのだが・・・・
しかし、行ってみるとすぐに藪が深くて進めなくなる(左写真)。
仕方がないので左折して用水の北岸を進む(右写真)。(ここはyahooの地図でも道がない。また12月に再挑戦してみたが同じだった)。
通行できないのは残念だが、沖新田ができるまで、それまでの干拓地(高浜新田、松崎新田)の土手であった面影が色濃く残っている。
本来の道ではないが、田んぼと用水のあいだの道を和やかに歩く。田にはジャンボタニシの卵塊がたくさんある。本来は食用として持ち込まれたものが逃亡したり捨てられたりして広がったものだという。稲などの食害を起こす。
その先、片側一車線の県道383号線に出会う(左写真)。往来は水門122番からずっと土手沿いを進んで来て、ここでも土手道を進んでいたと思われる。しかし、斜め北の芳岡川橋南詰から東に延びる土手道も藪で先に進めない。(右写真。yahooの地図では土手に道が記してある。しかし、草や雑木が生い茂って進めない。12月に再挑戦してみたが、同じだった。)
ここでも迂回路(というか現在の道)を進む。県道を越えて、右に降りていく。
分岐から60メートルほど進むとT字路。ここは左に曲がる。
そのあと、左に用水を見ながら東に290メートルほど進むと、右の土手に上がる道がある(左写真)。
我々の歩行時及び再挑戦日とも入口に車止めのチェーンが張ってあった。また雑草がかなり生い茂っていた。
そして土手に上がると葛などもあり、雑草を踏み分けながら進むことになる。両方の欄干には鵜が留まっている。少し不気味だ(右写真)。
甚兵衛橋は昭和9年(1934)9月の室戸台風で流されたあと掛け替えられた。それまでは木製だったそうだ(調査報告7p5)。
「備前国上道郡沖新田図」に長松ハシという書き込みがある橋と同じだと思うが経緯は不明。
甚兵衛橋を渡りきっても東詰は葛(?)などの雑草が深く鎌でもないと進めない。最初(平成28年10月7日)は諦めて下流の県道383号線の砂川橋を渡った。再挑戦のとき(12月)は、草がかなり枯れていたので強行突破できた。順に記す。
雑草が繁茂していて、先に進めない。もとに戻る。
砂川の北岸を下流に進み、砂川橋を渡る。
渡り終えたところで、南岸の土手沿いの道を東に進む。甚兵衛橋の出口の方へ戻ることになる。
途中、道の右側に祠がある。これに関する記述はここで参考にしている資料にはない。
甚兵衛橋の出口から220メートルほど南に進んだところで、73番札所がある。南(左)に分岐する道がある。
下記の疑問は、解決済み(平成29年2月3日)
【疑問】
甚兵衛橋周辺を図示すると左図のようになる。甚兵衛橋が渡れたとしても、A-甚兵衛橋-B-Cと進むことになる。右写真はCから砂川方面に向いて撮ったものである。
もしかしたら、甚兵衛橋はAとBのあいだに架かっていたのではないだろうか?今後の宿題としたい。
結論:砂川の対岸AとBのあいだに橋が架かっており、牛窓往来は橋で砂川を渡ったあとは真っ直ぐ南へ下がり東用水にぶつかって、左折し、東に進んだ。
砂川の対岸AとBのあいだに橋が架かっていたことは、「沖新田東西之図」及び「備前国上道郡沖新田図」で確認できた。後者には『長松ハシ』と書き込みがあった。位置的にまちがいないと思われるが、橋名の異同の経緯については確認できていない。
また、『大日本帝国陸地測量部が明治二十八年に測図した「西大寺」(二万分の一)』にも、同様の橋(名前は書いていない)と経路が描いてあるので、橋の場所が変わったのはそれ以降だと思われる。
往来はここを南に下がる。分岐の角に祠がある。
この祠は二つに分かれていて、左に小さな石仏二体、右にやや大きい石仏一体(いずれも座像)が安置されている。また右側に「沖新田八十八ヵ所七十三番 文化八年案内図より」と書かれた札が置いてある。
73番札所がある土手下道から南に真っ直ぐ下りてきて、最初の交差点(C地点)で東に曲がる。角に水門がある。降りて来た道の正面には東用水という比較的大きな用水があった(「沖新田東西之図」)はずだが、今は細い用水である。地元の方から「用水の巾を狭めて、道を広くした」という話を聞いた。
ここから国道2号線岡山バイパスまで600メートルほどまっすぐ進む。途中で君津・大上の常夜燈を見る。旅の風情である。
C点から470メートルほど進んだところ、右から来た道との合流点に天保四年三月建立の常夜燈がある。
常夜燈の胴とでもいうべき部分(竿石という由)に北面「瑜伽大権現」東面「常夜燈」南面「沖田神社」西面「金毘羅大権現」とそれぞれ刻んである。神社名を刻んでいる面に向えば、その神社の方角に向くことになる、と聞いたことがあるが、なんとなく合わない。前記は定義というほどのものではないということか。この三社への方角を四角の三面で表わすのは無理だろう。
常夜燈の斜め先にお堂がある。沖新田八十八ヵ所霊場の72番だと思われる。
お堂から東に進み国道2号線岡山バイパスと岡山ブルーラインとの分岐、君津インターチェンジに向うことになる。自動車道路が錯綜し、道が分からなかった。10月と12月の二度調査した。
左写真の分岐で10月は直進し、12月は用水の手前の分岐を右折した。
全体の経路は右図の通りである。
トンネルを出たところで右折し、バイパス沿いに西に戻る。途中から2号線から分岐したブルーラインに沿うことになる。11号橋のトンネルの出口から280メートルほど進むと、信号交差点がある。正面の上り道路はブルーラインへの進入路。交差点の右はブルーラインのトンネル[B-1]がある。往来は左折。
かなり遠回りの感じがしたので、12月にたどった経路の方が往来に近いと思った。しかし、「沖新田東西之図」などを見ると、もしかしたらこちらの方が往来に近いとも思う。
迂回路を進む。ブルーライン沿いに進むと、左側に[B-1]がある。
[B-1]トンネルをくぐると、10月の道と同じ交差点に出て、金田・塩浜の道標への道に続く。
B-1トンネルの前から100メートルほどまっすぐ進む。道が右に曲がり始める角に道に背を向ける感じでコンクリート製の祠がある。
前から拝見すると、2室に区切られ左に座像の石仏。眉、目、口などが線取りされ、赤い帽子と前掛けを掛けている。右も座像の仏だが、比較的小さく、台に乗っておられる。
祠から70メートル足らず進んだところで、用水に出会う。左側に明治十三年に立てられた道標がある。金田・塩浜の道標だ。この辺りは金岡新田である。
北面に「左 うしまと か南おか み」と読める。下は埋まっている。また、「み」の下で折れてつないだようにも見えた。南面「すぐをかやま」下に「道」の上のような字が見える。東面(用水に向った面)「右 おかやま道」道の下が埋まっている。西面(道路に向った面)「明治十三年一月世話人 安 芳」と書いている(西面は調査報告7p6を参照した)。
田んぼの中を歩く。左写真は12月のものなので、稲刈りがすんでいる。
田んぼ道の先に岡山ブルーラインが東西に伸びる。ブルーラインの下をくぐって、南側に出る。
トンネルをくぐった先。道路を隔てて田んぼが広がる。田んぼの中の道に入る。牛窓へ行く江戸時代の旅人は邪魔されずに田んぼの中の道を進んだのだろう。
しばらく行くと建物が増えて、そのあいだを進んで県道177号線のやや広い道に出る。右写真はその手前。右の施設は西大寺シティホール。
県道を渡って向かいの建物のあいだの道を進む。県道沿いに両備バスのバス停(都紀の郷)があるが、バスの本数は非常に少ない。
80メートルほど進むとT字路がある。用水を越えてT字路を左に進む(左写真)。
その先最初の分岐は道なりに右に進んで建物の間を西に向う。
しばらく行くと建物のあいだに常夜燈が見えてくる。その先は吉井川だ。調査報告7p6でいう「当時の石段」はカーブミラーの先に見える石段だろうか。
ここから対岸の旧新村まで渡し船で行き来していたのだ。ちょうど水門の辺だろうか。
「岡山市の地名」p648は、
『小平太船二端帆より九端帆まで二十八隻』
という「備陽記」の記事を、この渡しの船に関するものではないか、と推定している。
平太(ひらた)船は底が平らな川船のことのようだ。端帆は帆の大きさである。帆船(風がないときは艪も使ったかも知れないが)で船渡しをしていたようだ。吉井川を行き来する白い帆が目に浮かぶが、白い帆ではないかも知れないな。想像は膨らむ。
【参考】
遊歩道てくてくロード (岡山市) 吉井川下流ルート。地図のなかに牛窓往来の経路が記載されている。(サイト確認:平成28年12月21)
牛窓往来3へ
牛窓往来2へ
牛窓往来1へ
牛窓往来トップへ
岡山の街道を歩くへ
ページトップへ
このサイトの著作権は、作成者及び一緒に歩いた有志に属します。無断転載はご遠慮ください。リンクは自由です。