歩行日 平成28年10月12日(水)距離 約3.5キロ
掲載内容は点検をしていますが、まちがいの可能性もあります。情報の利用にはご注意ください。
吉井川に沿って土手道を進み、干田川が吉井川に流れ込むところに干田川河口水門がある。その手前で吉井川の河原に降りる。
対岸に金岡の常夜燈が小さく見える。川幅は450メートルくらいだ。
河原を少し南へ下がると高さ2メートルほどのやや大きい常夜燈が立っている。調査報告7p6によると、船着場から南へ150メートルほど移動されているということだが、川に伸びた石組みの波止を背景に風情がある。左側は干田川の河口で、その上に干田川河口水門がある。
元の道にもどって河口水門を渡る。干田川には小さな船がたくさん係留されており、帰ってくる船もいる。何かの漁だと思うのだがよく分からない。
渡り終えたところで道は左右に分かれる。往来は左側に進んで、すぐ先を右に曲がって西へ進む。
そこから70メートルほどまっすぐ進んだ最初の交差点、左角に祠がある。往来は右折、南へ進む。
祠には赤い前掛けをした立像の石仏が居られる。
民家のあいだを通り抜ける。190メートルほど進めば、両側が畑になり、土手道に向かう。そこで左に曲がりながら土手道に上る。曲がり角から右に分岐する道がある。角に石碑が三基見える。
左端、高さ140センチの石柱は(道路に向って)正面に「石鉄山大権現」、左面に「金毘羅大権現」と書いてある。
その横に石の祠が二つ。写真ではわかりにくいが結構大きい。まん中の祠の高さは1メートルあった。他にも土台や笠の残骸のようなものがあった。
往来は土手道をそのまま南へ80メートルほど進む。写真の分岐を左に入ると『しむら大橋』に行ってしまう。渡るのは永江(ながえ)橋。
永江橋で永江川の東岸に渡る(左写真。なお写真右側の小山は乙子城跡のある山である)。
永江橋の西詰南(手前右)に立像の石仏がある。赤い前掛けをされている。
下記資料によると永江川樋門の老朽化などにより、平成13年度に新永江川樋門が構築されている。新樋門は前記「遊歩道てくてくロード」に記載されている永江川樋門と同じ位置にあるので、調査報告7刊行(平成6年)後にこれらの変動があったと判断した。
(参考:平成21年度第2回『中国地方整備局事業評価監視委員会』資料の公表について「資料4-1 吉井川直轄河川改修事業(乙子地区)」 サイト確認:平成28年12月21日)
平成28年12月25日探訪してみた。該当位置に大きな樋門があった。【乙子散歩】参照。。名称が分かる掲示などはなかったが、永江川ポンプ場が隣接していることなどとも合わせて、この樋門が永江川樋門であると推測している。
永江川の東岸を南に進む。正面に丸っこい小山が見える。乙子城跡である。岡山県神社庁の乙子神社についての説明を見ると、この山は乙子城山というらしい。
しむら橋方面から来た道と交差する。
300メートルほど進んだ次の分岐。分岐点に“てくてくロード”の印がついた道標が立つ。「左矢印 神崎緑地」「右矢印 乙子城跡」とある。往来は道標の示す「神崎緑地」に向う方(左)に進む。右に行くと、先ほどわかれた道に合流し、『国盗りはじまりの碑』以下がある。
乙子城山を右に、用水を左に見ながら進む。
先の道標から180メートルほど南で千町西川(※1)にぶつかるT字路になる。往来は右折。曲がってすぐ、右側乙子城山の麓に顕彰碑、てくてくロードの道標があり、山へ登っていく道がある。
千町西川を左に見ながら進む。右手民家の間にショウ儀型地神塔がある。百間川の西で見たものと形が少し異なる(ずんぐりしている)。また『倉稲魂命』の『魂』の『云』が通常の位置にある(百間川の西で見たものは『云』が上にあった)。
この辺(乙子南部)は、貞享元年(1684)に干拓された幸島新田である(調査報告7p7)。干拓地にはショウ儀型地神塔が多いと思う。
江戸時代において農地は個人のものというよりもっと公共性が高かったように感じる。干拓や開墾など公的に拓かれた土地は、なおさらそうであったろう。興除新田紀でも干拓の完成を前にして『地神祭』が公に行われた記録がある(岡山県史第27巻 近世編纂物、p271-276)。
参考:市内の法適用河川(※A)の「★一級河川(国・県管理)」の一覧表内 水系 吉井川の項で『千町川』と記述されているのはこの川だと思われる。千町古川、千町派川以外の全域が千町川とされているように読める。
(※A 岡山市のサイト。サイト内検索で表示されるが、どの部署のものか不明。サイト確認:平成28年12月27日)
その先、乙子橋で千町西川を渡る。対岸に火の見櫓が見える。その足元に明治三十五年と刻まれた石仏、電信柱と岡山市消防団太伯分団機庫の間に道標がある。
橋の欄干には『千町西川』の表示がある。
渡りきって交差する向かい右に道標と石仏がある。
石仏は火の見櫓のコンクリートの土台の陰になっているが風化が著しい。立像で合掌されている。右側に明治三十五年、左側に七月と読める。
道標は北面(機庫の前を通る道に向った面)に『右 西大寺』その裏側に『左 西大寺』、側面(川に向った面)に『右 幸西 左 うしまと』と見える。調査報告7p7ではかって三叉路だったのではないか、と推測している。川を渡ってすぐ左右に分かれたということか。牛窓往来は、乙子橋を渡ってすぐ左折である。
千町西川の東岸を50メートルほど北に進む。対岸に先ほどの地神塔が見える。
道なりに右折して路地のようなところに入る(左写真)とその先に水門がある。水門がある用水は、千町川が神崎で分岐したところから乙子をぐるっと回って、神崎分水樋門まで通じている幸西用水だと推測。往来はこの用水に沿って神前神社の先まで進む。
左奥に大師堂がある。
その後用水に沿って道なりに東に進み、乙子橋から直進して来た道と合流する。合流点の南側にてくてくロードの道標がある(左写真)。左に折れて、合流した道を東へ680メートルほど進むと、左側の山裾に神前神社の鳥居が見える。鳥居の前で南から来た道と合流する。
往来はまっすぐ東へ進む。
石橋で渡る小川は幸西用水である。道路に面した鳥居は天保三年、常夜燈は寛政十一年の建立である。
随身門をくぐる。由緒を記した説明板がある。大意は、岡山県神社庁のサイトで神社検索で神前神社を見てください。(サイト確認:平成28年12月26日)
随身門から拝殿まで登って行く途中左側に、常夜燈と注連縄を張った石が並んでいる場所があった。
拝礼のあと、駐車場から西を見ると吉井川とその周囲が一望に見渡せた。乙子城山も目の前に見える。
元の道にもどる。神前神社の鳥居の前から80メートルほど進むと用水は左に曲がっていく(左写真)。用水沿いの道に進みたくなるがが、ここは直進して幸西用水と分かれる。
そこから190メートルほど進むと、千町派川の西岸になる。千町派川に沿う手前右側に分岐があり、その少し先に座像石仏と石碑がある(右写真)。石仏の台座には「寛保二壬戌年 奉納三十三ヶ所 七月七日」とある。寛保二年は1742年、274年ほど前だ。
その左側の石碑には「南無地蔵菩薩」とある。縁起は不明である。
石仏を拝んで元の道に戻ると目の前に、樋門がある。千町派川の神崎分水樋門である。
左写真は往来の右前に見えたとき。右写真は、樋門の少し先から撮った。まん中辺の石垣と石組みが古い樋の枠組みである。
貞享元年(1684)に構築され、「県下に残る建造当初の姿を残した最古の樋門(2連になった中央部が円形に突出している=絵に残る古い樋門の様子を唯一留めている)/見事な護岸石積み県下に残る最古の樋門であり、古い様式を残している」
という(同サイトで岡山県を選択し、一覧表に『神崎分水樋門(仮称)』として掲載されている。サイト確認:平成28年12月27日)。【用水と樋門の参考サイト】
古く条里制の頃から拓かれた千町平野、江戸時代に官営新田として干拓された辛島新田などの灌水のためいくつもの用水の整備や川の改修が行われたようだ。
営々と続けられた干拓と治水。それらに関する興味深い記事をネット上でも見かけたが、整理する能力が今の管理人にはない。下記サイトなどをご覧いただきたい。
1)地域農業の近代化を目指して 国営吉井川農業水利事業 水土の礎 農業農村整備情報総合センター (サイト確認:平成28年12月27日)
2)近世以前の土木遺産に見られる都道府県ごとの地域的特徴、馬場俊介他著、土木史研究論文集vol.29 2010。サイト確認:平成28年12月27日)
3)岡山藩の干拓地における石造樋門、樋口輝久、馬場俊介著、土木史研究第19号(1999年5月)p99-107)J-STAGEで閲覧可能)。この論文では『据替』により改修されることもあり、現存するものが建築当時のものとは限らないことを示唆している。このことは、樋門はもちろんのこと遺跡や遺物を見るとき念頭に置いておくべき注意事項であるが、神崎分水樋門については一部改修はともかく設置当初の部分も残っていると思いたい。
【道の検討】
調査報告の地図は、その地域をよく知らないと見誤ることがよくある。(ただし、誤解が解けたあと見ると、確かに正しく描かれていることがほんんどである)。
道標には「右 水門 正儀 久々井」「左 大宮 鹿忍 牛窓」とある。左の道を進むと確かに神崎町交差点に出て、牛窓方面へ向う。
その場合、調査報告7p7にある石碑及び地神に出会うことはない。調査報告7p7の記述は以下の通りである。
千町川の手前の橋を越え、さらに千町川の橋を越えたところに石碑がある(以下略)。
そう思って地図を見直すと、少し川下(南)に進んで、それから西に進む道(神前交差点に進む道より一筋南)を示している。 これを踏まえて、次のように検討した。
神崎分水樋門の上の橋(道)を渡る。石組みの上はかなり改修されている。
渡り終わって左を見ると、祠があり、石仏が三体居られる。三体とも赤い前掛けをされている。
50メートルほど進むと、左に神崎の排水樋門があり、西詰に石碑がある。この石碑は調査報告7には記載がない。
碑文は「享保廿乙卯年十一月日』と読めた。「月」と「日」のあいだに数字がない(沖新田のお堂の前にも同じような石碑があった)。享保20年は1735年だ。
その下は前記【用水と樋門の参考サイト】の資料3)を援用して『据替』と読んだ。さらに『奉行石黒市内』と読める。帰宅後、池田家文庫マイクロフィルム目録データベースシステムで検索すると「石黒市内跡目僉議書」というものが出てきた。息子石黒団蔵が跡目を継ぐときに提出したものらしい。寛文3年~享保19年までの内容らしいのが気になるが、大まかに備前藩の藩士であると考えて良いだろう。
その下に『手代 ?市大夫』(右側)、『石屋 ?』(左側)と関係者の名前が刻んである。
インターネットサイト「うたかたの径」河内屋治兵衛(2)では『石屋治良兵衛』としている。[サイト確認:平成28年12月30日])。
神崎の排水樋門を渡る。東詰にも石碑がある。(左下の画像をクリックすると大きな画面が出ます)
【右の碑文(道路に向った面)】
貞享四丁卯年五月日 奉行武藤源助 [家]代 [畠]田七右衛門 作者石屋[治]兵衛 丹羽平大夫預 足軽十人 山脇傳内預 同十人 丹羽[次郎]右衛門預 同十人
貞享四年(1687)であれば、幸島新田開発の直後である。そして石屋 治兵衛であれば、津田永忠の業績を述べるとき必ずといっていいほど出てくる石工である。
この樋門石は岡山市指定史跡で昭和38年に樋門の改修工事をした時、今の樋門から北10メートルの水中から掘出された(遊歩道てくてくロード 吉井川下流ルート、岡山市遊歩道ネットワーク。サイト確認:平成28年12月21日)。
神崎の排水樋門の橋を渡ったあとはそのまま東に進む。少し行くと道の左側にショウ儀型の地神塔がある。
千町西川の西岸で見た地神塔と同じようにずんぐりしている。四方を竹で囲み、縄と紙で結界を張っている。
神崎の排水樋門から320メートルほどで交差点。その先に『作州屋旅館』がある。今でもやっているかどうか不明(もしやっていたらスミマセン)。
さらに進めばやや広い(片側一車線)バス道を横切る(左写真。少し離れたところに神崎東のバス停がある)。
用水沿いのやや細い道が往来である。この用水が『幸島用水』だと思う。少し行くと用水の向こうにショウ儀型の地神塔がある。少しもどって橋を渡り、じっくり眺めて見る。これもずんぐりしている。
元の道を用水を左に見ながらそのまま進むと、用水を越えた左側に太伯小学校がある。道路の右側は太伯認定こども園。
その先は太伯小前交差点である。左から右に交差するのが県道岡山牛窓線である。右側に大きな陸橋があり、その先に神崎信号がある。
進行方向の先に宗教法人「ほんぶしん」がある。
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