歩行日 平成28年10月12日(水)距離 約3.5キロ
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太伯小前交差点を渡ると、道の左側に大きな門と長い白壁の塀が続く。山の中腹にある施設も関連のものだろう。『ほんぶしん』という宗教法人の本部のようだ。道の右側に広場がある。
往来は県道岡山牛窓線(28号線)の北側に並行するように進む。この先岡山牛窓線に合流するまで管理人が幸島用水だと思っている用水の右側を歩く。
しばらく行くと右側に西吉塔集会所がある。
その先、左側に火の見櫓(実際はホースを干す櫓のようだ)がある。その先やや広い交差点を過ぎてから、最初の分岐を左に入って用水を渡った先に祠がある(左写真)。山端寺である。集会所から300メートルほどの距離である。
中には大小複数の石仏が鎮座されていた。
元の道にもどって少し行くと、道が右に曲がっていく角にショウ儀型の地神塔がある。
地神塔から用水沿いに250メートルほど歩くと、県道岡山牛窓線に合流する。合流区間は短い。
左側に歩道があるので、用水沿いにそちらを歩く(左写真)。
その先に東備バス『邑久郷西』停留所がある。左に用水沿いの道を進めば、次の左分岐で紅岸寺城跡へ行く。バス停の先で左に入る道が往来だと判断した。
【寄り道】
再調査のとき、紅岸寺城跡に寄った。簡単に記す。
県道から用水沿いの道に入り(バス停の左)、左に分岐する最初の橋で用水を越える。その先の分岐を左に入り民家の間を上ると、右手に自然石の石碑(後ろに小さな石仏らしいものがあった)と『紅岸寺城跡』と書いた看板がある。
その先登って行くと自然石の石碑や祠がある。
説明板によると紅岸寺(真言宗)の檀家だった宇喜多能家は自分の画像を奉納した。紅岸寺は寛文の寺院淘汰で廃寺になり、画像は地元の「長者」納屋七郎右衛門宅に保管されていたが、子孫の移住後、文久四年(1864:文久の後の字は西暦からの推測)に作られた『霊屋』に奉納していた。現在は岡山県立博物館が収蔵している。
なお、『紙本安心禅師画像』(宇喜多忠家の画像とされているようだ)も紅岸寺所蔵で、同様に県立博物館が所蔵している。
参考:絹本著色宇喜多能家像 文化遺産オンライン(文化庁が運営。サイトとしては国立情報学研究所。サイト確認:平成28年12月31日)。
同じ敷地に南無阿弥陀仏と刻まれた石塔や地蔵尊と思われる立像の石仏、風化した五輪塔などもあった。
管理人としては、寛文の寺院淘汰によって廃寺になったことの方が気になる。僧侶の堕落で説明しているようだが、疑問を持っている。今後勉強したいことの一つだ。
また、邑久郡大師霊場八十八ヵ所の71番札所があった。建物全体の写真を撮り忘れたので、軒下の札を示す。
戸の硝子越しに中を拝見したが、きちんと整頓されていた。ただし、本尊は見えないように布が下がっている。「邑久郡大師霊場 南巡り 北巡り 八十八ヵ所順拝の探訪」(邑久町郷土史クラブ、昭和58年、以下「探訪」)によれば千手観音菩薩であるようだ。御接待の掲示もあった)。
さて、元の道に戻って選んだ道(バス停の右)を進む。右にゆっくり曲がりながら進む。左側に『納岡公民館』が」ある。その前を真っ直ぐ進む。
公民館のところで、右に分岐して県道に出る道にゴミ置き場があり、幟を立てる石柱のようなものがある。
ただし、往来はそちらに折れず、直進して斜めに県道に出る。
県道を越えた向こう側に道がある。
民家の庭先をぐるっと回ると県道岡山牛窓線に再び出会う。そこを越えて(左写真)、また細い道に進む。牛窓往来だけでなく旧往来は細い道が多い。人か駕籠か(備前藩の官道程度ではどれくらい駕籠などがあったのだろうか)、せいぜい馬が通るくらいだ。今の県道や国道はそれに比べると広い。
県道から60メートルほど進むと道が折れ曲がる角に立派なお堂がある。
中の壁に掛かっていた木札(左写真)。上に『三面観音』 横に『九番 奈良南圓堂 春能(の)日ハ なんゑんたうに かゝや記て 三笠の山尓 者るるうすくも』と書いているようだ(自分たちで読んだときは『青き』だと思ったが、興福寺南円堂のご詠歌では『晴るる』となっているのでそれにあわせて読み替えた)。
『九番 奈良南圓堂』というのは、西国三十三所(近畿2譜4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。ウィキペディアより引用。サイト確認:平成29年1月1日)の札所である。
四国八十八ヵ所霊場を模して各所に八十八ヵ所霊場を開いたように(沖新田と旧邑久郡の霊場の何カ所は今回参拝した)、この地域に西国三十三所を模したものがあると推測している。岡山県通史下p986-990で備中の三十三所巡礼札所が紹介されている。同じように備前あるいは邑久に同様の巡礼習俗があったと思われるが、今のところ具体的な情報は得ていない。
参考(1):西国三十三所 巡礼の旅(公式サイト:サイト確認平成29年1月16日)
(2):三十三箇所観音は観世音菩薩を安置せる寺院三十三所を云ふ。其の原據とする所は法華経・普門品に観世音菩薩の三十三身を説けるに基き三十三所の観音を順拝すれば功徳ありとなし古来盛に之を行ふ而して此に西国三十三所・坂東三十三ヵ所・秩父三十三所観音の別あり。(岡山県通史下p986)
お堂の前に石碑と石仏(右写真)。まん中の石碑には『正□坊』と刻んであり、両側に石仏が鎮座されている。右側の石仏の光背には『万人供養』、左側の石仏の光背に『明治』『七月』とある。
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往来はお堂の前の前で右に曲がり、南(県道方面)へ進む。県道の手前で今度は左に曲がり西へ進む。その角に石碑群がある。まん中の石には『天□□大神』と書いてある。天照大神だと推測。
上記の石碑群は塩竃大明神に関係したものだ、と理解したので塩竃大明神を拝見にいった。石碑群から県道を越えて、道なりに進んで見つけた。大きな自然石に『塩竃大明神』と刻んである。
実際に見てみると、“同じようなものがあるよ”と言われたのかも知れない、と思うようになった。実際に両者に関係があるかどうか不明である。
56番札所は、先ほどのお堂の北の方、用水を越えた先にあった(距離は近い)。民家に隣接している。鍵が開いていて、中を拝見できた。
梵字をまん中に刻んだ比較的大きな石碑がまん中、左右に石仏が鎮座されている。向って右側にも複数の石仏。堂内はきれいに清掃されている。
扇形の木札に56番としてご詠歌を書いているものと、四角の木札に10番としてご詠歌が書いてあるものが掲げてある。扇形の木札は嘉永三年(1805)に八十八番の巡拝が再編成されたときに正番の証として掲げられたものである(「探訪」、概要。頁付なし)。
四角の木札はさきほどの『九番 奈良南圓堂』と同じ形状である。帰宅後参照した「西国三十三所 巡礼の旅」(公式サイト)などを参考にして考え、このお堂が『十番 三室戸寺』を模したものだと判断した。両方の札所を兼ねているのかも知れないが、全体像が見えないのは、先述の通りである。
お堂を拝んで元の道に戻る途中に、石碑群があった。自然石に注連縄が張ってある。詳しいことは何も分からない。
「天照大神」と推測している石碑がある元の位置から、西に向って家のあいだを進む(左写真、正面に山が見える)。道なりに進み、用水を越える。
その先三方に分かれる道は、右に進む(右写真)。
そのまま道なりに進み、しばらく行くと県道岡山牛窓線の信号交差点に出る。交差点の左側は松江伊津岐神社がある。
由緒は岡山県神社庁のサイトで岡山県の神社[神社検索]の松江伊津岐神社を参照してください。常夜燈がたくさんあった。この地域の豊かさと、氏子の信仰の厚さの証左か。
交差点を渡り左斜めに入る道が往来である。少し行くと左にお堂がある。
そのまま道なりに進み、県道岡山牛窓線に合流。ここから一宮道標まで県道を進む。
県道を400メートルほど歩くと、信号のある三叉路である。南に延びる道は、宝伝方面への道である。分岐点の東南角に安仁神社の道標がある。
道標は宝伝へ向う道に面して『指矢印 一宮道』、牛窓へ向う道に面して『指矢印 牛窓道』と刻んでいる。そして建立年が『大正七年七月建』と刻まれている。
この日は、ここで終わり。右手前にあるヤマザキショップの西側にある宿毛バス停から西大寺バスセンターまで戻り、帰岡した。なお、牛窓から西大寺までのバスは本数が少なく、また時間にばらつきがあるので、注意が必要である。
安仁神社の「安仁」は神武天皇の「兄」五瀬命(いつせのみこと)に関わるという説に対し、南九州の隼人(はやと)に関わるという説を「岡山の式内社」p69で読んだ。どちらの説も管理人には判断がつかない。
別の日に安仁神社に行った。道標から片道2.5キロほどあるので、往来を歩くときに寄り道するには少し距離がある。
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