一宮道標(宿毛)から紺浦交差点まで

牛窓往来5 一宮道標(宿毛)から紺浦交差点まで

 歩行日 平成28年10月31日(月) 距離7.7キロ

 掲載内容は点検をしていますが、まちがいの可能性もあります。情報の利用にはご注意ください。


牛窓往来5-1 一宮道標(宿毛)から石井十次記念碑まで

距離 約2.6キロ

牛窓往来


 岡山駅からJR赤穂線で西大寺駅まで。西大寺駅から10時のバスで宿毛バス停まで行った。

 この日、連絡不徹底で集合できなかったN氏と、後日車で宿毛まで行き、同じコースを歩いた。車で近くまで行って、バス停近くの精肉店の空き地に置かせてもらった。快く置かせてくださっただけでなく、ご主人からお話を聞くこともできた。ありがとうございました。

 宿毛バス停から10時15分出発。目の前に県道岡山牛窓線から分かれる分岐がある(左写真)。左の道に進む。
 旧往来の雰囲気が残る道を淡々と歩く。山に近づき山裾を進む。時々右側に県道が見える。
宿毛バス停 宿毛の道

 930メートルほど歩いて一度県道に合流する。斜め前に下阿知西バス停(西大寺方面行き)がある。
 県道を少し進み、左側の下阿知西バス停(牛窓方面行き)の手前から左に分岐する道に入る。
 道なりに150メートルほど進んで、再度県道に合流する。
下阿知西バス停 県道28号線

 県道左に白いパイプの柵の歩道がある。50メートルほど歩道を歩くと、左側に登って行く。
 JAの施設の前に『ふるさと西大寺の道しるべ-山南ルート-』と書かれた看板がある。そこに幸島新田を中心とした牛窓往来が描かれている。
 それを見ると、紅岸寺以東の道(用水から離れてくねくね曲がった道)は、我々が歩いた道と同じ経路が書いてある。
県道28号線 西大寺の道案内

 前に、『中州みたいになったところが描かれていない』と書いたが、平成29年1月28日に一気歩きをしたときに見たら、ちゃんと中州になっていた。要所要所につけた●が大きかったので見誤った。

 県道の高さに戻る。下阿知中のバス停がある。バス停から70メートルほど進むと、県道から左に離れていく分岐がある。分岐点の左側は中国電力下阿知変電所である。
県道28号線 県道から離れる

 道は西大寺大宮郵便局の北側(裏側)を西に進む。途中、大宮学区コミュニティー協議会の建物がある。
 分岐から750メートルほどで、往来は北から下ってきた県道229号線と合流する(左写真)。そのまま229号線を南西に進む。180メートルほど進んで県道229号線から左に分かれる道に進む。229号線は県道岡山牛窓線方向へ進み合流する。
県道229号線 県道から離れる

 右側が低くなった土手のような道を230メートルほど進むと、左側に大師堂がある。その前に『岡山孤児院発祥の地』と書かれた白塗りの木柱が立っている。また、お堂の壁にも説明板がある。
上阿知の道 上阿知の大師堂

 中には「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号塔と石造がある。本尊は不明。名号塔は天和二年(1682)に建立された(調査報告7p9。ただし、同書には題目石と書かれているが、題目石は通常「南無妙法蓮華経」と刻んである。この石碑は「南無阿弥陀仏」とあるので名号塔とした)。
上阿知の名号塔 上阿知の石像

 お堂の東側には、『石井十次と岡山孤児院発祥の地』と題された説明碑と顕彰碑(だと思う)が立っている。
石井十次説明碑 石井十次記念碑

【余録あれこれ】
 牛窓往来は石井十次に縁が深い。岡山博愛会門田屋敷クリニック前の胸像、三友寺、「石井十次記念聖園」は、東山峠近くの「新天地育児院」の敷地内にある。そしてここ上阿知である。ただ木柱などにある『発祥の地』という表現は混乱を招きやすい。この地は、その思想の出発点であり、施設としての発祥の地は三友寺だと思う。

 「石井十次の生涯と思想」(柴田善守著、石井記念愛善園、昭和53年)p26などによれば、この時期石井十次は如何に生きるかと懊悩の日々を送り、明治20年3月に岡山医学校(この時第三高等中学校医学部)の卒業試験に失敗した。4月1日から医術訓練のため(調査報告7p8では「代診」としているが、生涯通じて石井に医師免許はない。医師の免許制度ができて間がないころだったから曖昧な面があったかも知れないが。)岡山県邑久郡大宮村上阿知の診療所に来た。
 その年4月20日の日記に「本日備後の遍士寡婦其の二子を伴い隣家大師堂に泊せる者にあひ神意を伝へたり」と書いてある。

 当地に赴いて一月足らずでの、天啓とも言うべき出会いである。その後、明治20年5月5日の日記に、「本日帰途車上にて慈善会なるものを設立し一般病難苦等の塗炭に陥りしものを救恤せんことを憶起せり」と記し、孤児救済の決心を固める。
 孤児教育会の設立は同年9月、石井十次22歳のときである。

 懊悩のなかにいたからこそ出会いがあったと言える。孤児救済事業は、単に孤児への同情というより、己が何をなすために生れてきたか、という石井自身の問題でもあったように思う。
 石井十次の生涯を垣間見て、明治の事業家の雰囲気を感じる。そつなく世の中を渡るのではなく、失敗もし、無茶もしながら、最終的には目標に到達していく。そんな人間であったように感じる。

 明治以降の社会事業にキリスト教徒の果たした役割は大きいと思うが、翻って仏教徒はどうであろうか。教義の違いかと考えたが、行基など中世の僧の救済活動があるので、そうとも言えない。社会全体の状況のなかで、該当宗教の立ち位置なども影響してくるような気もする。もっと勉強しないと答えは出そうにない。

 大師堂に泊まっていた遍路親子についても気になった。寡婦であるが夫が亡くなったのは遍路の途中かその前か。夫が一緒であっても子連れで巡礼をするのは特別な事情があったのでは、と考える。前記「石井十次の生涯と思想」p27によれば一年後に孤児院を訪問している。
 鴨方往来を歩いたとき、里庄駅の近くで「才の脇の萩堂」を見た。「辻堂の習俗」p160-162などによれば、先の大戦の前までは辻堂などに泊まる巡礼がいたそうだ。

 この大師堂を札所とする巡礼は何かと考えた。該当しそうなのは邑久八十八ヶ所霊場巡りと、邑久郷で見かけた西国三十三所巡りの瀬戸内版である。
 「邑久郡大師霊場 南巡り 北巡り 八十八ヵ所順拝の探訪」(邑久町郷土史クラブ、昭和58年、以下「探訪」)の概要によれば、旧邑久郡には250余(南巡り88、北巡り88、同番8、相番30余、無番30余:相番の意味がよく分からない)の大師堂があるという。そして、西は備中浅口郡方面、東は播州方面から遍路が訪れたという。
 「探訪」の一覧表では上阿知には南巡り1(88番)、北巡り2(57番、58番)の計3所が掲載されている。同書に紹介されている嘉永三年(1805)の再編時に掛けられたという扇形の木札はこのお堂には見当たらない。
 またここまで2ヶ所で見た西国三十三所巡り四角の木札も見当たらなかった。

 再び往来を進む。「石井十次と岡山孤児院発祥の地」碑から右に曲がりながら(左写真)県道岡山牛窓線(28号線)に向かい、合流する。
 合流地点右に道案内の看板がある。
上阿知の道 上阿知の大師堂


牛窓往来5-2 石井十次記念碑から牛窓町公民館鹿忍分館まで

 距離 約3.0キロ

牛窓往来


 県道岡山牛窓線(28号線)を東に向って進む。しばらく行くと上りになる。県道の両側は畑や雑草地、雑木林になる。それから、右側に大池が広がり、地蔵尊が東を向いて鎮座されている(左写真)。光背を後ろから見る感じである。
 右写真は前に回って撮った。台座中央に方便[忌](正しいかどうか分からない。仮に正しくても言葉の意味が分からない)、右側に文□十三年(調査報告7p9によれば文政)と刻まれている。結構大きく感じたが、高さ140センチある(同前)という。
県道28号線 大池の石仏

 しばらく行くと左側に『瀬戸内市』の表示がある。平成の大合併で岡山市が広くなって、ここまで岡山市東区である。瀬戸内市の方は平成16年に牛窓町、邑久町、長船町が合併して、誕生した。
 牛窓町もいくつかの町村が合併した町であった。ここから牛窓往来として歩いて行く千手(大宮村千手地区)、鹿忍村(牛窓町と合併したときは町)とそれぞれ別の村であった。

 瀬戸内市の標識から180メートルほど進んだところで県道28号線から北に分かれて坂を登っていく道がある。この狩野千手坂を上る道が牛窓往来だが、興味深い施設が県道沿いにあるので少し寄り道をする。
瀬戸内市の看板 千手の分岐

 【寄り道1】
 分岐の先県道沿いに風車のついた建物がある。旧牛窓町は『日本のエーゲ海』という言葉で観光宣伝をしていた。ペンション村ができ、一時はかなり話題になった。その時作った施設の名残だろう。
 その先に千手山弘法寺(せんずさんこうぼうじ)の山門の屋根が見える。
風車小屋風  弘法寺山門

 最初に歩いた時は山門で昼食を摂り、牛窓往来にもどった。立派な山門がぽつんとあるなあ、という以上の認識がなかった。その後N氏と歩いたとき、遍明院と東寿院を見学したが、弘法寺に関して全体像が把握できていないのは同じだった。
 今回街道歩きの記録を整理していて、『牛窓を歩く』ほかの資料を読み、またインターネットで調べ、火事のあとの弘法寺について、興味を感じた。同寺は、岡山市北区の金山寺と並ぶ備前の古刹である。
 牛窓町史通史編p258では、報恩大師により開設されたとされる『備前天台四十八か寺』のうち『鎌倉時代にまでさかのぼって報恩大師開創を伝えているのは実にここ弘法寺と金山寺(岡山市)のみである。』とし、報恩大師開創伝承の最古のものである金山寺文書が書かれた仁安三年(1168)頃を平地の国家的寺院と異なるタイプの寺院が登場して来たとする。
 平成29年1月5日、車で牛窓町千手まで行き、弘法寺を見学した。弘法寺参拝記録はそのうち(練り供養を見てから)公開予定

 狩野千手坂を上る。手前に弘法寺の十王地蔵堂、山門、県道を越えて二つの塔頭だったお寺が見える。この区域はかって弘法寺の寺域だったというのはあとで気づいた。
狩野千手坂  狩野千手坂から山門を見る

 狩野千手坂を510メートルほど上ると右側に小さい池があり、また右の路端(池に近い方)に二体の石仏がある。
 左側の少し大きい石仏の側面に文字が刻んであり『左 寶光寺 右 鹿忍牛窓道』と読める。道標でもある。あとで調べると寶光寺は鹿忍町にあり、この石仏兼道標から北東にある。この先の分岐を左に行けば、1キロ弱の道のりだ。我々は右の道を進み、鹿忍(かしの)を経由して、牛窓へ行く。
 この先の分岐のところに石仏が南面して鎮座されておればぴったり合うのだが・・・。道の分岐が変わったか、石仏が移設されたか、今のところ確認できていない。
千手の石仏 千手の石仏

 牛窓町史民俗編p441の写真「千手の道標」である思われる。またp442の解説にある『千手の狩野松道の峠の「天保十年(1839)、戌歳二月九日」と銘のある地蔵碑』も記載されている行き先は、これと同じである。もしこの石仏のことであれば、この峠道を狩野松道の峠と呼んでいたことになる。

 道案内の石仏から少し先の分岐、坂を上る細い方の道が牛窓往来である(左写真)。
 2~3分上れば、往来の頂点。ここから鹿忍の中心に下っていく(右写真)。T氏とI氏は水道配管の蓋を見ている。市町村によって異なる模様を確認している。
分岐  峠

 頂点から山腹を5~6分(500メートル弱)下れば、先ほど分かれた道が上(左)から降りてくるのに合流する。右折して下れば(左写真)すぐ県道岡山牛窓線(28号線)である。
 旧往来はそのまま県道を越えて、下の谷へ降りていく。
合流 県道を越える

 県道を越えた歩道のところにパイプのガードレールが切れた場所がある。そこから下に降りる。地図に載っていないが、道はある。踏み分け道のように残っている。
県道から降りる 踏み分け道

 降りたところは田んぼ道。右から来る道は、県道から降りてくる別の道。降り口は、我々が降りたところより130メートルほど岡山より。場合によってはこの道を降りることも考えたが、狩野千手坂方面からでは、今降りた道の方が真っ直ぐである。
 降りたあと真っ直ぐ山に向う道を進むと用水沿いに沿った道とのT字路に出会う。左折して西に向う(左写真)。

 左は田、右は山裾。両側に用水が流れる山沿いの道をくねくねと西へ進む。途中神社の幟を立てる側面上部に穴が空いた石柱がある。山の上に神社があるようだ。

 五分ほど進み民家の間を過ぎると、右手の墓碑のような石碑群が目に入る。
山沿いの道 鹿忍

 墓地のようでもあるが、石碑が彩色されているのは管理人にはなじみがない。百間川の手前で祠の中の石仏が一部分青く彩色されているも見たが、それよりは多色だ。この先も彩色された石仏を何度か見た。

彩色した墓碑  左端は座像石仏、三地□現と刻んである。その右立像が二体、まん中の石碑には明治三十八年十一月七日という文字が読める。日露戦争の戦没者のお墓だと思われる。この後も石仏などの彩色の石碑があったが、この辺り一帯で行われているものかどうか分からなかった。
(墓碑のようなのでぼかしています。)

 次第に家が増えてくる。石碑群から数分で、Y字路に出会う。正面の赤い屋根は青果会社のようだ。ここは左折して県道岡山牛窓線(28号線)に向って北(牛窓西小学校方面)に向う(左写真)。
 70メートルほど青果会社の西を歩けば県道岡山牛窓線に出る。道路の向こうにバス停『西小学校前』、さらに北側に牛窓西小学校が見える。右折して県道を歩く。
牛窓西小学校前 牛窓西小学校前

 県道を60メートルほど歩いたところの信号交差点の東南角に御崎神社への道標がある。
 手前右は『理容オガタ』。ここは右折して、御崎神社方面に進む。
御前神社道標 御前神社道標

 右折して60メートルほどして最初の左への分岐で左折(A)。御崎神社参道から外れる。そこから民家の間を100メートルほど西に進むと、右に交番がある交差点に出る。目の前正面にキリスト教会の十字架のある屋根が見える。右側には水面。
御崎神社近く 御崎神社

 その先40メートルほど進み、ぶつかったところを道なりに左折。この辺、くねくねしているのはかっての海岸線だろうか、と推測しながら、最後に路地のようなところを30メートルほど進むと県道岡山牛窓線(28号線)に出る。
 県道を進む。曲がりながら東へ進むところに『鹿忍中』のバス停があり、その先左側に牛窓町公民館鹿忍分館がある。
鹿忍中 牛窓公会堂鹿忍分館

【寄り道】
平成28年11月3日にN氏と歩いたとき、御崎神社へ行ってみた。
前記(A)の分岐で左折せず、南進すると、交差が少し左にずれた交差点。その先も南に進むと上り坂になり、その途中左山側に鳥居がある。
 結構急な階段を上がると展望が開ける。万延元年の常夜燈がある。
御崎神社 御崎神社常夜燈

 階段を上がり、石碑の間を歩いて、左に短い階段を上がれば拝殿がある。
忠魂碑や歌碑がある。多くの神社に忠魂碑がある。各町各村に戦死者がいるということだ。単なる慰霊碑ではない、ともいうが、遺族にとっては慰霊碑だと思う。
御崎神社については、岡山県神社庁ホームページの岡山の神社[神社検索]を参照ください。(サイト確認:平成29年1月13日)
御崎神社(牛窓) 御崎神社忠魂碑

 この時、戻り方を間違えて一つ南の筋を進んでしまった。交番の一筋南へ出て気づいた。
 そのおかげで、小向の大師堂に出会えた。
小向大師堂 小向大師堂2


鹿忍分館から紺浦交差点まで

距離 1.1キロ

牛窓往来

 公民館の東側、駐車場の奥まったところ民家の前に祠がある。祠はブロック造で比較的新しく作り直されたと思われるが、中の石仏は江戸時代のものだ。

鹿忍の祠 右の錫杖を持たれた立像石仏の土台には『文政六癸未[稔]正月』と刻んである。[稔]はそう見えたが、年の意味で使っているのだろうか。
 光背右側に『奥州南部恐山地蔵尊』、左側に『天下泰平日月清明』とある。
 まん中の座像石仏の光背右側に『天保二卯年』同左側『三月建立』とある。石仏の下に鶴首の花瓶(水容器?)とわらじ(?)のような物が彫られてあり、その下に『四国□ 経理□ 行者□』とある(□はそれ以降読めないの意。複数文字の場合もある)。
 左の石仏、大きい石仏の前にある石仏などいくつもが鎮座されている。また、先の三基は彩色されている。
祠の内壁に下がっていた木札に真言が書かれていた。記述して帰ったので調べてみると、馬頭観音に対するものだった。

 県道岡山牛窓線を進む。水産試験場のバス停がある。それから鹿忍東のバス停がある。その先にだんじりの保管庫と三尊石仏の祠がある。
だんじり保管庫(東) 三尊石仏

 牛窓のだんじりは岡山県指定重要有形民俗文化財である。
参考:岡山県教育委員会のサイト 県指定文化財一覧(その7)重要無形文化財、重要有形文化財、重要無形民俗文化財(サイト確認:平成29年1月12日)。
10月の第4日曜日に挙行される牛窓秋祭で巡行する。平成28年は10月23日だった。
 祠の三尊の石仏は瀬戸内市の指定重要文化財である。祠の前にあった説明板によると

三尊石仏  この三尊石仏はそれぞれ縦長の花崗岩の自然石塊の一面を平らに整え、その全面へそれぞれ立像の像容を半肉彫に浮彫している。その配列は中尊が不動明王、向って左尊が阿弥陀如来、向って右尊が地蔵菩薩となっている。
 それぞれの石仏には建立年が刻まれており、地蔵菩薩が享保十五年(一七三〇)、阿弥陀如来が享保十九年(一七三四)不動明王が文政三年(一八二〇)に像造されたことがわかる。(以下略)

 屋内壁のところ(写真左)にやや小さな祠と不動明王が安置されている。木彫のようだ。

 だんじり保管庫から県道岡山牛窓線の北を見ると路地が延びている。これが往来である。県道を渡って路地を進むと、すぐに十字路に出る。北東の角(右の向こう)に道標がある。
鹿忍東 鹿忍東

道標は西面に指矢印、南面(県道から入った道に向きあう形)に『四拾番』と見える。
道標邑久40番

 往来は右だが、指矢印に従ってまっすぐ行くとすぐに邑久八十八ヶ所霊場巡りの四十番がある。お堂に上る階段の手前右に廻国供養塔がある。まん中に『奉納大乗妙典日本廻国供養塔』、その左右に『天下和順』『日月清明』と刻み、下に願主の名前が書いてある。年号などは見るのを忘れた。
 お堂を覗いてみたが、きちんと整理されていた。
廻国供養塔 邑久八十八ヶ所40番

 道標の前の道を東に進む。道標から180メートルほどで、正面が畑。右側が大きな建物のところに到達する。直進できないので右折。県道岡山牛窓線の坂の途中に出る。
鹿忍東 鹿忍東

 県道を上って降りる。県道に合流してから300メートルほどで、次の分岐。『牛窓ヨットハーバーへの道路標識が道路右にある。その手前で左に入る道が牛窓往来である。分岐のところに『紺浦西』のバス停がある。
紺浦

 分岐を進む。右側に公園があり、家の陰に石碑が東に向って立っている。岡山県県会議長だった人の顕彰碑である。
 分岐から60メートルほど進むと左側に邑久八十八ヶ所霊場巡りの三十九番がある。このお堂は薬師堂で、唐子踊りが奉納されるという。
紺浦 邑久八十八ヶ所39番

 境内には石仏の板碑と光背を背負われた立像石仏がある。六地蔵であるようだ。
邑久八十八ヶ所39番 邑久八十八ヶ所39番の石仏

 お堂の前を直進。県道岡山牛窓線と並行している。100メートルほど進むと、紺浦交差点の西北側に出る。左から来る道は県道39号(備前牛窓線)である。
 交差点の東側に道標がある。牛窓から来る人に面して『左 西大寺岡山』、その右側面に『右 可たかみ』とある。江戸時代の牛窓は大きな町だから、牛窓からの方向を指していても不思議はないが、この位置でこの方角で良いのかな。交差点の西側に『左』と『右』の間の角が道に向っていたら分かるのだが。移動したようだ。
紺浦 紺浦の道標

 県道39号線を越えて往来は進むが、紺浦交差点の道標を目印として本日は終わり。

 左斜め60メートルほど先に疫(やく)神社の階段と鳥居が見える。その手前にあるのはだんじりの保管庫(飛龍丸)である。
疫神社は旧号で、現在は素盞嗚男神社(スサノオジンジャ)である。疫病流行により勧請した。疫病祓いの行事が七年毎に行われたとのことである。(素盞嗚男神社 岡山県神社庁ホームページの岡山の神社[神社検索]を参考にした。サイト確認:平成29年1月13日)
 唐子踊りが奉納されることで有名である。(唐子踊りと素盞嗚男神社については 牛窓散歩01を参照)

高祖酒造(千寿倉)前のバス停紺浦から帰る(邑久駅方面と西大寺駅方面)の二系統があるが、この日は後者で帰った。どちらにしてもバスの本数が少ないので要注意。


牛窓往来6
牛窓往来4
牛窓往来トップ
岡山の街道を歩く
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