牛窓散歩

牛窓散歩01

散策日 平成28年10月23日(日)、同12月~平成29年1月中。
 平成28年10月23日は、牛窓秋祭り。
 街道歩きで10月31日に牛窓に到達したあと、平成29年2月にかけて、調査と称して何度か細切れに訪れた。個々の日付は煩雑なので略す。

散歩メニュー

  1. 牛窓祭り
  2. 神社と祠・お寺・その他(牛窓散歩02)

牛窓秋祭り

  1. はじめに
  2. 綾浦の太刀踊り
  3. 唐子踊り
  4. だんじり

はじめに

 牛窓往来を歩いていたとき宿毛でポストターを見かけた。10月の第4日曜日に唐子踊りなどがあるという(最近はずっとそのようである。牛窓町史民俗編p910にも「秋祭りは古くは九月二十三、二十四日、近年は十月第四日曜日に行われる」とあった)。

 当日、車で牛窓まで出かけた。警備員の誘導に従い、牛窓港の近くに設けられた臨時駐車場に車を置いて歩き始めた。
 もらったチラシ以上の資料を持ってなかったが、警備員に午前中に各神社で奉納の行事があること、昼から港のコンビニ(ファミリーマート牛窓店)の駐車場にだんじりが集まってくることなどを教えてもらった。

 事前に準備せずに行ったわりには、運良くいろんなものを見ることができた。後で牛窓町史民俗編を読んで、なるほど、と思うことが多かったので、太刀踊り、唐子踊りなど奉納行事に関しては、同書p903-921から引用する。枠の中の記述が引用であるが、管理人が体験した順番に記述しているので、配列及び項目題(枠外に記述)は一部変更している。
 なおふりがなは( )でうしろに記し、改行などを一部変更したところがある。写真は枠の中のものも管理人の撮影である。
 記憶とほぼ重なるが、同書が刊行された平成6年から変わっている部分の確認はできていない。

綾裏の太刀踊り

 牛窓綾浦の太刀踊り(岡山県指定重要無形民俗文化財)は、綾浦の氏神御霊宮(ごりょうぐう)(御霊社)の秋祭りに奉納される。

御霊(ごりょう)宮

 まず、御霊宮に行った。御霊宮は牛窓神社とつながりがある神社であるようだ(牛窓風土物語p179では下居殿と書いてある。あとで牛窓神社の御神輿が、御霊宮の前に来ていたのもそれで頷ける)。なお拝殿の写真は太刀踊りが終わって人がいなくなったときに撮った。
御霊宮 御霊宮

 拝殿内の絵馬。境内にあった地神塔は標準的な五神。
御霊宮の絵馬 御霊宮の地神塔

ならし

奉納される神事は、ならし・太刀踊りの二つからなる。

はじめは、ならし(いまは、はやしともいう)といって楽器の囃子だけが行われる。

太刀踊り 大太鼓役は大きな胴張り太鼓を前にして中央に座る。その前の左右に女装の二人、その手前(下座)左右に男役二人が座る。(中略)大太鼓に向って左側の女役は鉦をたたく。(中略)右側の女役はカンコを打つ。下座の男役二人は鼓を打つ。囃子がはじまると「ヤーホー、ハア、ハ、ヨイ」などと、あいの手を入れて、鼓・太鼓・鉦をたたく。シャギリになるとテンポが速くなり、あいの手も「ヤーホ、ヤーホ」と変わる。傍らでは保存会員が笛を吹く。一〇分ほどで終わり、ついで太刀踊りを行う。

 男役、女役とあるのは、全員男の子が演じる慣例になっているからのようだ。ただ、前庭で見物していると「子どもが少なくなったので今では女役は女の子がするようになった」という地元の人の会話が耳に入ってきた。それが本当のことかどうかは分からない。カンコは締太鼓のことか。

太刀踊り

太刀踊りになると、大太鼓役の男の子はそのままの座にいてカンコを打つ。正面に向って左側に男役二人、右側には女役二人がいずれも中腰の姿勢で、男役は刀を、女役は薙刀を、それぞれ座に交差させて囃子の始まるのを待つ。青年が次の唄をうたうと踊りが始まる。(中略:カタカナで書いてあるが意味は分からない。管理人)。
 男役・女役の四人は「ヘイ、ヘイ、ヘーイ」と掛け声をかけながら、前進・後退・転回・斬り合いの型などをする。(中略)唄は三曲になっているので、踊りも三回行われる。(以下略)
太刀踊り 太刀踊り

太刀踊り 太刀踊り

太刀踊り 太刀踊り

 踊っている写真は、拝殿前のもの。一時、離れていたので、拝殿内でも踊ったかどうかは確認していない。
 牛窓にはもう一か所『粟利郷の太刀踊り』がある。いずれこちらも拝観したい。


唐子踊り

 唐子踊りは牛窓紺浦(こんのうら)のオヤクジン様(疫神社=素蓋鳴(すさのお)神社)の秋祭りに奉納される稚児舞で、岡山県指定重要無形民俗文化財に指定されている。(管理人注:昭和50年より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」にも指定されているようだ。岡山文化情報:サイト確認 平成29年1月27日)

 異国風の鮮やかな色彩の衣装を着けた二人の男児が、若者の肩車に乗って参拝し、囃子方のカンコ(小太鼓)・横笛と、意味のわからない歌に合わせて踊るもので、衣装も歌も踊りの動作も、ほとんど類をみない独特のものである。

素蓋鳴神社(疫神社)

 オヤクジン様は紺浦の氏神で、地区内の丘にまつられている。明治二年(1869)素蓋鳴神社と改称されたが、人々は疫神社、オヤクジン様と呼んでいる。
 かって疫病が流行した時、牛窓神社境内にまつられていた牛頭天王(ごずてんのう)を現在地に勧請したという。これが疫神社と呼ばれたのである。

 御霊宮から、素蓋鳴神社(疫神社)へ回る。急な石段には額(紙燈籠)が取り付けられている。踊り場横にあった地神塔は標準的な五神。
疫神社 疫神社の地神塔

 この日、拝殿には白、本殿には紫の幕がかけられていた。境内にある常夜燈のひとつは享和元年(1801)と刻んであった。
疫神社 疫神社

 素蓋鳴神社(疫神社)の境内は、きれいに飾り付けられていたが関係者はいない。見学者もほとんどいず、大きなカメラを持った十数人のカメラマニアが場所取りでいるだけだった。お互い知り合いのようで、会話も弾んでいるようだったが、管理人には知り合いもなく町を散策することにした。

踊り子

 唐子踊りを踊る男児を踊り子と呼ぶ。踊り子は代々紺浦に住み、しかも両親が健在な六、七歳の中から二人を選ぶしきたりであったが、今は紺浦の居住者であればよいということになっている。(中略)
 踊り子の服装は、頭には鍔広で鍔が反った、頂点には角(角の先には麻糸を束ねた房がついている)のある唐人笠のような帽子をかぶり、桃色の紐でとめる。
 顔には白粉を塗り、額の中央には赤く十字を書く。これは神をまつる者の象徴であると考えられよう。(中略)
 これらの帽子や衣服は李氏朝鮮時代の服装に通ずるものがあるのではないかともいわれている。足には白足袋をはくが、疫神社では草履などの履き物は履かず足袋はだしで踊る。疫神社以外では麻裏を履く。

 歩いていたら肩車された踊り子に会った。ついて行くと、もう一人の踊り子と合流。
唐子踊り 唐子踊り

紺浦倶楽部

二人揃って進んだ先は、紺浦倶楽部と書かれた建物。
 中で座布団の上に座って待機。
唐子踊り 唐子踊り

 前の広場では、だんじりの準備。紺浦の飛龍丸。左写真はうしろから。鳳凰か。右写真が正面から。龍である。背後の建物が紺浦倶楽部。
 テレビ局の取材に応える保存会の方の声が聞こえた。少子化で旧来のような踊り子選びができなくなっているようだ。上記民俗編の記述とも附合する。
 「自分達の代で絶やすわけにいかない」という言葉は重い。伝統行事の多くがさらされている問題だ。
だんじり飛龍丸 だんじり飛龍丸

 この日一番の唐子踊りは紺浦倶楽部で行われた。陣笠をかぶった男児は、交替した先輩のようである。
唐子踊 唐子踊

素蓋鳴神社(疫神社)での踊り

 その後素蓋鳴神社(疫神社)へ肩車で移動。急な石段も肩車で登る。この日は歩かない(見ていて分かったが、町史にもあった)。
神社境内の祠に拝礼して、その後拝殿と本殿を2周する。
唐子踊 唐子踊

 肩車からござの上におりると、踊り子は片膝を立ててしゃがみ一礼して口上を述べる。

唐子踊り  コンネン ハジメテ ニホンヘ ワタリ ニホンノ ミカドハ トオリマセン マセン ココロ ヨカン ココロ ショウガン オンレイモウス
 口上が終わると、踊り子は立ち上がり、囃子方が「ヒュー、ホイ」とかけ声をかけると、お囃子が始まり、唄と踊りが始まる(「ヒュー、ホイ」のかけ声も、かっては「ヒュー、ハ」といっていた)。
 ハーサーチャーアーアー アーワンエー ハーエーエーエー ヤーンヤーワシュウーウウーンレー (以下意味の分からない歌詞が続くが略す:管理人)

 囃子方は紺浦の若連中が主体で、かっては三〇人くらいいたが、いまは保存会が結成され一五人程度のメンバーでカンコ(小太鼓)一人、横笛二~三人、その他の者は唄をうたう。

 牛窓風土物語p19からの補足
 この歌を「ヒウハ」と称する。言語は、朝鮮語、支那語、馬来語の何れにも属さない。

唐子踊り

 このあと、地元の人に聞いたり資料で見た範囲では、天神社、紺浦の薬師堂、高祖酒造横の塩釜神社など何カ所かで奉納するようだが、直接見ていない。

 囃子言葉の意味は地元の人でも分からないようだ。由来についても、神功皇后が見たというのはともかくとして、朝鮮通信使が伝えた、中国から伝わった、長崎の唐人踊りを参考に地元で創作したなどと諸説あるようだ。

 牛窓町史通史編p607-608では、疫神社が元来牛頭天王を祀ったこと、牛頭天王は朝鮮半島を経由して日本に渡来した疫神であるとする。「この神を慰撫し、霊異を増すために、異国風の踊りを奉納することが理にかなったものだ」と記す。
 また我々が牛窓往来を歩いたときに拝礼した紺浦の薬師堂への奉納を、「虫送りなどと同じように、地区から境界外へ災疫を放逐することを意味していたのではないだろうか。」と推測する。

 また、江戸時代岡山城下町の東照宮祭礼の神輿渡御行列の時の町方練物のなかに「唐人踊り」があったこと、神田明神及び山王神社の祭礼をはじめ各地で「唐人行列」や「唐船」が出し物のひとつであったことなど江戸時代の日本で唐(朝鮮と混用することが多い)文化への関心が深かったことを示す。


だんじり

 だんじりは八台あるようだ。
 右の八台のだんじりは御座船のほか、舳先につけられた彫り物によって獅子頭船、竜頭船、麒麟頭船に分けられる。
 東町の御座船(御船)だんじりは、神様のお召し船をかたどり、彫刻は簡素であるが黒漆塗りに朱色・金色の菊紋が映えて気品高い。綾浦の獅子だんじりは装飾彫刻は淡泊だが獅子が口から赤い舌をペロリと出すカラクリが工夫されている。竜頭船の関町だんじりは上り龍、下り龍、鬼女面などの彫刻は極めて優れている。同じ竜頭船型、鹿忍東のだんじりは、咬竜玉を得て正に青空に飛び立とうとする力強い姿を示している。多数の華麗な彫刻も目を楽しませる。
 これら八台は総欅作りか、欅材を主とする作りである。

 洋風の店でランチ(オムレツだった)を食べて、港近くのファミリーマートへ行った。だんじりに関する上記のことは、あとで知ったので、そのときは面白い、面白いと見て回り、綾浦のだんじりの舌に触ってみたりしていた。
 適当に撮った写真を並べる。
だんじり だんじり

左の子は泣いた。右の子は舌を引っ張り出した。
だんじり だんじり

とりあえず3台。
だんじり

左写真:唐子踊りの先輩。肩車しているのは父親。誇らしげだ。
右写真:御船だんじりの正面が撮りたいのだが・・・
唐子踊りの先輩 だんじり

左は中浦のだんじり(だと思う)。
右は後ろからなのでよく分らない。
だんじり だんじり

牛窓神社の八角のみこしが来る。
ひとしきり練って町を巡る。繰り出すというより御神行である。神主さんもおられる。途中で幾人もの住民にお祓いをする。
牛窓神社神輿 牛窓神社神輿

御霊神社の前で、神輿は止まる。御旅所と考えて良いのかな。
牛窓神社の神主さん(推測)祝詞を上げられる。
そのうち紺浦のだんじり飛龍丸が来る。えびすの面をかぶった人が、太鼓を叩いて先導する。
牛窓神社神輿 だんじり

何カ所かで踊りを奉納した唐子踊りの踊り子も肩車で到着。
唐子 唐子

集合して、またそれぞれに町内を巡行する。管理人は、15時30分までは見ていたが、そうやって夜まで続くという。
だんじり


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