牛窓散歩

牛窓散歩02

散策日 平成28年10月23日(日)、同12月~平成29年1月中。
 28年10月23日は、牛窓秋祭り。10月31日に牛窓に到達したあと、道や周囲の風物の再調査に何度か細切れに行った。その都度何カ所かを見物した。個々の日付は煩雑なので略す。


神社と祠・お寺・その他

  1. はじめに
  2. 牛窓で拝観した神社と祠
  3. 牛窓で拝観したお寺
  4. 牛窓で見学したその他の場所

牛窓散歩01

はじめに

 江戸時代有数の湊町だった牛窓は豊かで、歴史も豊かである。真言宗が盛んなところだったようで、大師堂や薬師堂があちこちにあり、それほど広くない町域に神社やお寺がたくさんあった。限られた日数で訪れ、興味を持ったものを限られた時間で調べた。ここに書いていることは、牛窓の魅力のほんの一かけに過ぎない。
   往来の途中で紹介した室谷山金剛頂寺真光院(西寺)、経王山本蓮寺、紺浦の薬師堂などは触れていません。


神社

天神社(関町)

 関町のだんじり庫の横に細い道が延びる。右側にはかって役場があったが、今は何も残っていない(石柱が遺物である可能性はある)。その先の階段を上ると、天神社がある。
牛窓町役場跡 牛窓天神社

牛窓天神社拝殿の正面上に木彫の天狗がにらみをきかせていた。

 天神社の由来は菅原道真が太宰府に左遷されるとき、牛窓の此の地に立ち寄って腰をかけた石の跡に、道真を祀って尊崇した、とある(牛窓風土物語p178-179)。
 

天神社歌碑「磯山の峰の松風通い来て 浪や引くらん唐琴の迫戸」という菅原道真の歌を以て、この神社と道真の縁を推測している。境内にその歌碑がある。(この歌碑は石碑だが、境内には白塗りの木柱に芭蕉や定家などの歌を書いたものも立っていた)。
 ただし、同社付近の地中から古壺が出てくることを道真と結びつける伝承には異を唱え、天神社の後方は前方後円墳であり、そこに埋葬された「埴輪円筒」であろう、としている(同前+石碑)。

 境内にあった「牛窓天神山古墳」の説明板によると、「牛窓天神社の背後の天神山山頂尾根を加工して築造された墳長約八五mの前方後円墳」であり、「円筒埴輪や壺方埴輪の破片」が見つかっている。また、「竪穴式石槨の一部と思われる板状の割石」も露出している。さらに「牛窓湾を取り囲むように分布している五基の前方後円墳のうち最初に築造された古墳である」。
 さらに天神山は、応永の頃の「牛窓の領主石原但馬守の古城跡」と伝えられる(牛窓風土物語p138。同書p153によると石原氏の墓所は本蓮寺境内にあると伝えられている)。

 牛窓の神社やお寺は牛窓湾を見渡せるところが多く、大方景色が良い。天神山もその一つくらいに感じていたが古代からの歴史に富んだところだった。
 なお、天神山は日本の夕日百景に選ばれた三つの地点の一つである(瀬戸内市観光協会のホームページなど:サイト確認 平成29年1月29日)。
 写真は夕日時ではないが、展望は良い。まん中のぽっこりした島が中の小島、右側の小さな島が端の小島。中の小島の左側は黒島。その向こうは豊島(てしま)か。
牛窓湾

境内に展望できる島々の説明絵図があった。写真を撮って帰ったが、確認すると中の小島、端の小島が何となく山島に読めて悩んだ。目の錯覚?いたずら?

関町の荒神社

 高祖酒造発祥の地の向かい、学校井戸の上に荒神社への案内があったので、行ってみた。関町の一部の方によって維持管理されているという(牛窓町史 民俗編p830)。
 牛窓港が見渡せる急な石段の先に簡素な神社が鎮座されていた。
荒神社 荒神社


荒神社と金刀比羅神社(西町)

 街角ミュゼ牛窓文化館に向う手前左側に両宮への案内看板がある。
それに沿って進み、階段を上がる。ここは昔山城があったところで、城山と呼ばれている。
  荒神社への案内板 荒神社への案内板

 金比羅宮は、漁業不振と海難事故が続いたために、讃岐の金比羅大権現を荒神社の地に勧請したことによる(境内の説明板)。
 金刀比羅神社と荒神社の本殿は並んでいる。左が金刀比羅神社、右が荒神社(牛窓町史 民俗編p830)。
金刀比羅宮 金刀比羅宮

 藤原定家の歌碑もあったが、写真が逆光で何も読めないので割愛。刻まれている歌は、「忘れぬは 波路の月に 愁へつつ 身を牛窓に 泊まる船人」とある。意味は微妙に分らない。もしかして、都を思って、といういつものパターン?

なお岡山県神社庁の神社紹介を参考にすると、金刀比羅宮が正式名称のようなので金刀比羅宮とする。(サイト確認:平成29年1月29日)。

五香宮(本町)

 燈籠堂の向かいに石段がある。10月に行ったときは猫がたくさん日向ぼっこをしていたが1月に行ったときは下には数匹いたが、階段には1匹しかいなかった。海風が寒いからか、それとも時間によるか。
五香宮 五香宮階段の猫

 五香宮という神社名は聞き慣れない。その辺りのことと神功皇后が着用されたという甲冑(町史民俗編p831)について「牛窓を歩く」p19-20より引用する。(一部改行を施した)

 もともと上筒男命、中筒男命、旅筒男命の住吉三神を祀り、航海安全の祈願所だった。江戸時代に岡山藩の寺社淘汰で取り壊されたが、寛文七年(一六六七)、京都・伏見の後香宮から応神天皇、神功皇后の二神を迎えて再興、五香宮となった。(管理人注:下津井の四柱神社も住吉三神を祀る。航海の安全祈願は湊町の共通した思いだろう。下津井往来06四柱神社

 神功皇后奉納品として伝来する神宝の、黒韋威大鎧と冑の鍬形(県重文)は中世の貴重なもの。また、馬具は中世以前の全国でも稀な遺品で、祭礼のとき神馬を飾った三懸(面繋、鞅、鞦)と手綱の四点(県重文)。この手綱が神功皇后の御腹帯といわれ、明治時代末頃までは切片を安産のお守りに授けていたため、かなり短くなったそうだ。

管理人注:三懸(さんがい)=面繋(おもがい)、鞅(むながい)、鞦(しりがい)は、いずれも馬具。面繋は、くつわの保持のため馬の頭部につけ、鞅は胸から鞍、鞦は鞍から尻にかけてつける。(コトバンクを参考にした。サイト確認:平成29年1月30日)
 牛窓町史通史編p619では、この『神宝』は、寛文六年(1666)に池田光政の命により、牛窓八幡宮より移されたとしている。

 左写真は境内から眺める唐琴瀬戸。燈籠堂が風景を引き締めて、絶景である。夜、灯りがある時見たいものだ。
 五香宮は拝殿も本殿も塀に囲まれている。鍵がかかっていて入れなかった。外側で拝礼して、隣接する海岸山妙福寺観音院(東寺)へ回った。
五香宮 五香宮


朝鮮場様(本町)

 五香宮から妙福寺観音院へ回り、石柱が二本並んだ階段を降りて、井戸の横で『朝鮮場様』と書かれた道標を発見した。朝鮮場様について、調査報告に何も書いていなかったので、どんなものか分らず、ちょうど居られた地元の方に尋ねた。場所は分ったが「何もないですよ。小さな祠があるだけで」と云われた。
 それでもとにかく行ってみると、畑の端に小さな祠があった。帰宅後、ネットで調べても由来などが分らないので瀬戸内市牛窓支所の社会教育課にメールでお尋ねした。すぐに資料も含めて教えていただいた(感謝)。牛窓町史民俗編や牛窓風土物語などにも掲載されている地元では比較的有名な話だった。
 責任転嫁するわけではないが、「何もないですよ」という言葉に先入観を持ってしまったようだ。

 妙福寺観音院へ向う階段の手前、井戸の横に「朝鮮場様」と書かれた道標がある。右手は妙福寺観音院へ向う階段、左手の細い道を進むと、石垣の手前に右を指示する道標がある。
朝鮮場様道標 朝鮮場様道標

 その先畑の中に小さい祠が鎮座されている。
 説明板などはない。
朝鮮場様 朝鮮場様道標

朝鮮場大明神由来
頃は文禄三甲午中秋初三日、小船海上に漂流す。唐土の船とおぼしく、近寄りみれば水主舵取もなく、女の躰にて我を助けよと云ふ事やらん。合掌して言葉も分らず、見捨て帰りがたく、話は夕陽に及び、ひそかに之を助け、よくよく見るに唯人とは見えず、衣服も常ならず、高位高官なる人と見ゆる。予宅に養育す。慶びの躰にては見ゆれども、船中の労れに終に九月十六日、命終り東山に葬る。其所を朝鮮場と名付る。(略)。
文禄四乙未年九月   東原弥右衛門尉 景 久 花押

 東原弥右衛門は、牛窓町の年寄役を勤めて、航海の術に長じ、文禄元年秀吉の朝鮮征伐には、宇喜多秀家に従って出陣(以下略)

牛窓風土物語p57-59。原文は「よくよく」をひらがなの繰り返し記号(踊り字)で表現している。また、上記由来記は、東原家秘蔵のものとする。


愛宕宮(東町)

 歩き回って疲れていたので、階段下で参拝。牛窓町史民俗編p833によれば、明治末の統廃合を逃れた神社の一つではないか、という。
愛宕宮


牛窓神社

 牛窓神社は亀山に鎮座する御宮で、豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称した。(岡山県神社庁の神社紹介 牛窓神社より引用。サイト確認:平成29年1月30日)
 牛窓町史通史編p619では、石清水八幡宮よりの勧請と伝えられるとし、宇佐八幡宮よりの勧請とする説もある、と補記している。牛窓風土物語p162-163においても両論併記である
 詳細の正非は管理人には判断がつかないが、いずれにしても長い伝統のある神社である。

 参道とも言える海岸沿いの道。右側の浜は夏は海水浴場になる。
鳥居の近く、海を背にして歌碑がある。万葉集に収められている柿本人麻呂作だと伝わっているらしい(説明板から)。

 牛窓の 波の潮さゐ 島響(とよ)み 寄さえし君に 逢わずかもあらむ

 手持ちの「万葉秀歌」(斎藤茂吉著、岩波新書)には載ってなかったので、ネットで調べた。その範囲では詠み人知らずとされている。
牛窓神社 歌碑

 亀山公園の林の中の道を進む。展望台『望洋亭』の東屋がある。そこから210mで牛窓神社と書いた道標がある。
 二番目の鳥居を過ぎて、階段を上がれば随身門がある。
 神様が基準になるので、写真右側(随身門に向って右)が左大臣、左が右大臣。
牛窓神社随身門 左大臣と右大臣

拝殿(左写真)。
その奥の本殿は、本殿は文化九年(1812)に再建。瀬戸内市指定重要文化財である(瀬戸内市のホームページより:サイト確認 平成29年1月30日)
牛窓神社拝殿 牛窓神社本殿

 拝殿の中には絵馬や提灯がたくさん奉納されている。牛窓町史民俗編p835でも触れてあるが、絵馬以外にも家族写真などが多数納められていて、地域との結びつきの深さが窺われる。
 岡山県重要有形文化財の「おかげ参りの図」は有料公開ということだが(おかやまの文化財。サイト確認:平成29年1月30日)、拝殿で普通に拝見することができる絵馬にも「伊勢参宮道中(二見ヶ浦の図)」と書かれたものがあった。
牛窓神社絵馬 牛窓神社絵馬

 本殿と拝殿とのあいだの玉垣。

牛窓神社玉垣  願主は「当所問屋中」。それぞれの紋(屋号紋)の下に屋号と名前が書いてある。下津井の祇園神社は、遊女や湯女らしい女性名があったが、さすがにそれはない。
 左から・中屋傳四郎 ・福田屋八次郎 ・西大寺屋弥次右衛門 ・中屋平四郎 ・筑後屋又右衛門 などなどである。(左右にまだ続く)


牛窓で拝観したお寺

海岸山妙福寺観音院

 五香宮の階段を上って、横の道から参拝したが、しおまち唐琴通りからも行ける。帰路、唐琴通りに出たのだが、朝鮮場さまへ行ったり、あちこちしたのでどこに出たか失念した。こちらが本来の入口であると思うので、入口の階段から示す。朝鮮場さまへの道案内がある井戸の右横の階段を上ると右側に階段があり、そこに『瀬戸内観音霊場第六番』『高野山真言宗 海岸寺妙福寺観音院』と刻んだ石柱が立っている。
朝鮮場様道標 観音院

 本堂は瀬戸内市指定重要文化財である。創建は天平勝宝年間(749~756)。現在の建物は鬼瓦の銘により延享三年(1746)に再建とされている。(説明板より)
境内の少し高くなったところに、石碑がある。
左端の大きなものには藤原音吉以下三名の名前の下に碑と書いてある。詳細は不明。
観音院 観音院の石碑

海亀碑 その右横、三基の石碑(それほど大きくない)にはそれぞれ「海亀供養塔」と刻まれている。何らかの理由で海亀を供養したのだろが、それが三基もあるというのが興味深い。インターネットで検索したところ、千葉県銚子市の川口神社に亀の墓がある、というブログ(カメタロウのブログ:サイト確認 平成29年1月30日)を見付けた。管理人は銚子に住んでいたことがあり、川口神社は何度か行ったことがある。不思議な縁を感じるが、その時は関心がなかったので覚えていない。

 境内の石仏。宝篋印塔。右から二番目の石碑は墓碑だと思うが台は亀の形をしている。亀趺(きふ)と呼ばれるものだ。これとさっきの亀供養塔は関係ないだろうな。
観音院の墓碑 観音院の亀趺

海岸山妙福寺
 海岸山妙福寺観音院は、俗に東寺と称し、千手山弘法寺と共に報恩大師の開基で、備前国四十八ヵ寺の一である。古くは牛窓八幡宮が、石清水八幡宮の別院であった頃、即ち文治年中以後は、その神宮寺として寺領高百五十石を拝領し、八幡宮の祭事に奉仕したのである。(略)
 以下管理人によるまとめ:この寺院も寛文六年(1666)の寺社改革の際消滅して、寺屋敷は総て五香宮の社地となった。しかし、元禄七年(1694)高野山金剛頂院の栄鏡法師が江戸参勤中の池田綱政に願い出て、室谷山金剛頂寺(牛窓村:西寺)などとあわせて都合四寺を再興する許可を得た。そして、元禄九年牛窓村の廃寺台蔵寺法蔵坊の建物を移転して元禄九年(1696)観音院は再興された。

【余録】
 寛文六年の寺院淘汰全体で廃寺になったのは圧倒的に日蓮宗(法華)が多いが、この地域では真言宗が圧倒的に多い。それだけ真言宗が多かったのだろう。

 この枠内の記述は、牛窓風土物語p186-186,206-208によった。

その他

一文字波戸

 牛窓西港の前海に横たわる一文字波戸は、池田綱政が津田永忠に命じ構築させた。元禄八年(1695)二月二十三日に裁許を得、同年十一月末日に竣工、長さ記録373間(678メートル)高さ1間半(2.7メートル)の波止を十ヶ月足らずで完成させた。同時に関町から綾浦に至る護岸の補修も行った。(牛窓風土物語p80-82を参考に管理人作成)
 牛窓町史民俗編p184-186によると、海の中の構造物だから何度も破損と改修を繰り返し、根本の1~2メートルを除き、元禄時代のものは残っていないようだ。また港にあった掲示板には「原型を残し全体を石積みで覆う等景観を考慮した工法により平成4年から大改修を実施している」とある。写真は本蓮寺から南向きに見た一文字波戸。
  一文字波戸

関町の荒神社から西向きに見た一文字波戸。
  一文字波戸

海遊文化館(旧牛窓警察署本館)

 海遊文化館は明治20年に牛窓警察署として建設され、昭和52年まで利用された。現在は秋祭りのだんじりや、朝鮮通信使関係の資料が展示している。玄関の蘇鉄は牛窓村の大庄屋奈良屋の庭にあったもの(説明板による)。
海遊文化館 朝鮮通信使の人形

 海遊文化館東端の常夜燈。県道から見た法蓮寺の多宝塔と鐘楼。
文化館横の常夜燈 法蓮寺の多宝塔と鐘楼

寒 行

 平成29年1月12日、再調査に行ったとき、海遊文化館のところで会った巡礼。

寒行全体を回るのではなく寒行として、周辺を回るという。東寺か西寺かどちらかのお寺の檀家だという。写真撮影の許可を貰いがてら、いろいろ質問していると「5月21日が御大師様の日で、お接待もあるからおいで」と云われた。

牛窓点描

 左写真、見返りの塔。右写真、牛窓土産。左から「千寿 純米吟醸ひやおろし」「唐子踊り饅頭」「オリーブマノン 化粧用オリーブオイル」。
見返りの塔 牛窓土産

 猫たち
牛窓の猫 牛窓の猫

牛窓の猫 牛窓の猫


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